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敵国に嫁いだ長女は振り返らない  作者: 鷹居鈴野


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第10話 屈辱(二)死んだ人の物より

 夜会当日の昼、王宮では恒例の慈善競売が開かれる。


 夜の大夜会に先立つ、貴婦人がたの社交。出品されるのは寄進の品々で、落札金は聖堂の施療院へ――というのが建前だが、実際は、家々が財力と趣味を競う品評会だ。


 その出品目録の十七番に、それはあった。


『銀台真珠の首飾り 一連 ――王家より』


 目録の上では、ただそれだけ。


 けれど広間の誰もが、ひと目で分かった。先の王妃エルヴィーネが、生前どの肖像画でも身に着けていた、あの首飾りだと。


「まあ……あれを、お出しになるの」


「王家より、ですって。……継妃けいひ様のご裁量でしょうけれど」


「亡き王妃様の御形見を、競売に……」


 ざわめきの中心で、継妃は慈愛の微笑を浮かべていた。


「亡き先の王妃様も、施療院の子らのためならばと、お喜びくださるでしょう」


 ――前世もこの言葉、一言一句このままだった。


 あのときの私は、席を立つことすらできなかった。母の形見が壇上に晒され、値を付けられ、競り上げられ、最後にヴィンセルの手に落ちて――そして彼が、それをその場でリュシオラの首にかけるのを、ただ見ていた。


 燃やされるより、ずっと惨かった。


 ヴィンセルが、憎かった。自分の婚約者だというのに、義妹に母の形見の首飾りを贈り、どうか、どうか、とすがる私を、彼は軽蔑の目で見下ろした。あの時の怒りと絶望を、私はまだ覚えている。


 今世は、違う。


 三日前の執務室を思い出す。御璽の朱がまだ新しい、あの書付の一文を。


 先の王妃エルヴィーネの遺品はすべて、娘リディエンヌの持参品と定める。


 つまり、あの首飾りは今この瞬間、法の上では私の嫁資。それを王女の裁可なく競売に出せば――継妃様、それは横領と呼ばれるのですよ。


 止めない。


 止めるものですか。どうぞ、罪を完成させてくださいな。


 私は袖の中の書付の写しに指先で触れて、壇上を見守った。速記の女官は今日も私の後ろにいる。出品の経緯、継妃の発言、一部始終が帳面に落ちていく。


「十七番。銀台真珠の首飾り――まずは金貨五十より」


 競りが、始まった。


 *


 真っ先に札を上げたのは、やはりヴィンセルだった。


「六十」


 前世と同じ。愛する人に恩人の……いえ、「命の恩人」に、王妃の真珠を。彼の中では最上の献身なのだろう。


 だが今世は、彼の競り相手がいた。


「八十」


 凛とした嗄れ声に、広間が振り向く。


 フェルゼン侯爵こうしゃく未亡人。先の王妃の、生前の茶飲み友達。昨日の茶会で「おかしいわねえ」と首を傾げていた、あの老婦人である。


 今朝がた、私は未亡人をこっそり訪ねて、ふたつだけお願いをした。ひとつは、あの首飾りを絶対に落とさないこと。もうひとつは――値を、天まで吊り上げること。


『エルヴィーネ様の真珠が安く買い叩かれるのは、わたくしも我慢なりませんの』


 老婦人は、それはそれは良い顔で笑った。


『まあ。……ふふ、ふふふ。任せてちょうだい。年寄りの道楽ほど、質の悪いものはなくってよ』


「百」


「百二十」


「百五十」


 競りは、瞬く間に狂騰した。ヴィンセルの顔から余裕が消えていく。勲章も封地も今夜には返上する男に、潤沢な持ち合わせなどあるはずもない。それでも彼は退かなかった。隣でリュシオラが、期待に潤んだ目で彼を見上げているから。


「に……二百!」


「三百」


 未亡人は涼しい顔だ。広間は最早、悲鳴じみたどよめきに包まれている。真珠の一連に、屋敷が一軒買える値がついていた。


「さ……三百五十……!」


 ヴィンセルの声が、掠れた。


 未亡人がちらりと私を見た。私は扇の陰で、そっと目を伏せる。――ここまでで結構ですわ。


「……ふう。若い方の情熱には、敵いませんこと」


 未亡人は札を置いた。


「落札! グランハルト侯爵令息、金貨三百五十!」


 拍手の中、ヴィンセルは壇に上がり、震える手で首飾りを受け取った。そして前世と同じ台詞を、前世と同じ顔で言ったのだ。


「リュシオラ様。……どうか、これを」


「そんな、わたくしなんかが……お姉様の、お母様の……」


「いいんだ。死んだ人の物より、生きている人を飾るべきだ」


 彼はリュシオラの首に、母の真珠をかけた。


 広間の拍手は、今度はひどく、まばらだった。


 夫人がたの扇がいっせいに口元を隠す。死んだ人の物より、と彼は言った。この広間には、先の王妃を愛した人間が何十人もいるのに。菫色の借り着の上に真珠をかけられて頬を染める義妹と、それを見つめる娘の私と――どちらに同情が流れるかも計算できないほど、恋は人を粗くする。


「……よろしいの? 姫様」


 背後で、速記の女官が小さく訊いた。私は微笑んだまま答えた。


「ええ。全部、記録して」


 金貨三百五十枚。彼の残り少ない財産が、盗品に変わった瞬間を。


 王女の嫁資を無断で売った継妃と、それと知らず買った男と、それと知らず身に着けた女。母の形見は今、罪の証拠に姿を変えて、いちばん相応しい首にかかっている。


 ――返していただくのは、断罪の日で結構よ。


 母様。もう少しだけ、あの子の首元で、証拠のままでいて。


「ええ。全部、覚えておきますわ」

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