第8話 三日間(三)口論
夜会の前日、ヴィンセルが離宮を訪ねてきた。
明日、公の場で捨てる女のもとへ、わざわざ。彼はそういう男だった。手続きの前に「誠意」を見せに来る。それが相手にとって何度目の刃になるかは、考えたこともない男。
応接の間に通すと、彼の後ろに、見慣れた顔が控えていた。
ヤニク。
癖のある焦げ茶の髪、生真面目に結ばれた口元。前世、私に体を貸してくれた恩人。数ヶ月のあいだ「私」として離宮に籠もり、夫の死後は真実を抱えたまま戦火に消えた、あの従者。
……もちろん今世の彼は、私を知らない。主人の婚約者だった王女、というだけの他人だ。
それでも私は、茶を運ばせるとき、彼の分を用意させた。
「従者の方にも、椅子を」
「は……いえ、私は」
「立たせたまま話すのは、好きではないの」
ヤニクは戸惑いながら、部屋の隅の椅子に浅く腰かけた。ヴィンセルが怪訝な顔をしたが、気にしない。この人には返しきれない借りがある。返し始めるのは、一杯の茶からでいい。
「――それで、御用は?」
「……明日のことだ」
ヴィンセルは座らなかった。窓辺に立ち、庭のほうを見ながら話した。
「陛下は夜会での儀を認めてくださった。だが、考えてみれば、あなたに恥をかかせる形になる。衆目の前での婚約解消など……だから、その、今夜のうちに、あなたの口から辞退を申し出る形にしてはどうかと」
「あら。私の名誉のために?」
「そうだ」
「まあ、お優しい」
優しくなどない。衆目の前で「捨てる男」になるのが、今さら怖くなっただけだ。私が先に「身を引く女」になれば、彼は誰も傷つけずに愛を貫いた騎士のまま、綺麗な物語を完成できる。
前世の彼も、同じ「優しさ」を口にした。そして前世の私は、それを撥ねつけたのだ。身を引くものですか、と泣いて、その足で父の執務室へ走った。
……ええ、そうよ。認めましょう。
前世のあの夜、この提案を蹴って父に泣きついたのは私。婚約の交換を潰し、彼の胸倉を掴む勢いで結婚に漕ぎつけたのも私。彼だけが悪かったのではない。愚かだったのは、私だ。――その愚かさの罰は、前世で十分に受けた。
だからこそ、二度と間違えない。
「お断りしますわ」
「……なぜだ」
「明日の儀は、あなたが全功績と引き換えに願い出た、正式な嘆願の成就ですもの。私が横から辞退しては、あなたの誠意が消えてしまうでしょう? どうぞ堂々と、衆目の前でお受け取りになって」
ヴィンセルの眉間に、困惑の皺が寄った。話が通じているのに、噛み合わない。そういう顔だった。
「……あなたは、それでいいのか」
「ええ」
「本当に、分かっているのか? 婚約が解消されれば、次はあなたが……その、敵国との縁談に、いちばん近い立場になるんだぞ」
ああ。
やっと、そこに辿り着いたのね。
「存じておりますわ」
私は茶器を置いて、まっすぐに彼を見た。
「リュシオラが行かなければ、私が行くことになる。――そのことは、どうとも、お思いにならないの?」
沈黙が落ちた。
部屋の隅で、ヤニクが息を詰めるのが分かった。
ヴィンセルの喉が、上下した。若葉色の目が泳ぎ、口が開き、閉じ、また開いた。
「……俺は」
絞り出すような声だった。
「俺は、リュシオラを守ると決めたんだ。あの人は、俺の命の恩人で……弱くて、あの戦神の国でなんて、生きていけない。あなたは……あなたは、強いから」
「そう」
「すまない。……すまない」
謝るのだ、この人は。
選んだくせに。選ぶ自分に酔ったくせに、謝ることで、最後の帳尻まで合わせようとする。
不思議なほど、心は凪いでいた。代わりに思い出していたのは、掌ほどの焚き火だった。
――そんな相手はさっさと別れちまえ。時間の無駄だ。
ね、ヴィンセル様。
あなたの言うとおりにするわ。あなただけが、私にまともな助言をくれた。あなたを愛した歳月の中で、あなたが私に優しかったのは、私がヤニクだったときだけ。
それがあなたという人の、全部よ。
「謝罪は受け取りません。その代わり――」
私は立ち上がり、淑女の礼の代わりに、ほんの少しだけ首を傾げて笑ってみせた。
「餞別を差し上げますわ。あなたの願いは、明日、叶う。一言一句、あなたが望んだ通りの形で。……ふふ。楽しみにしていてね」
「………」
ヴィンセルは何かを言いかけて、結局、何も言わなかった。一礼して踵を返し、扉へ向かう。
その間ずっと――入室から退出まで、ただの一度も。
彼は最後まで、私の目を見なかった。
*
扉が閉まる間際、従者のヤニクだけが振り返り、深く、深く頭を下げた。
茶の礼にしては、深すぎる礼だった。
「……いい子ね、あの子は」
誰にともなく呟いて、私は窓の外を見た。
夜会まで、あと一日。
薔薇のアーチは組み上がり、大広間には千の蝋燭が並べられていく。あの光の下で、明日、ひとつの婚約が終わり、ひとつの嘘の楼閣が崩れ始める。
脚本なら、頭の中にある。
なにしろ一度、観た芝居だもの。
――今度は私が、幕を引く側よ。




