第6話 三日間(一)全功績と引き換えに
翌日の午前、ヴィンセル・グランハルトが登城した。
目通りを願う先は国王陛下。用向きは「婚約に関する嘆願」。……何もかも、記憶の通りに。
前世のこの日、私は彼の目的を人づてに聞いた。聞いて、廊下で立てなくなった。噂好きの女官たちの声が、今も耳の奥にこびりついている。
『グランハルト様が、戦功も継承権も全部差し出すから、婚約者を替えてくれと陛下に――』
『まあ。それほどまでに第二王女様を』
『第一王女様がお可哀想……いえ、でも、殿方にあそこまでさせるなんて、むしろ』
むしろ、私の何かが足りないせい。
そういう筋書きに、なった。
あの日の私は離宮に逃げ帰って、一晩泣いて、それから父に縋りに行ったのだ。婚約の交換を認めないでくれと。あの選択が、すべての歯車を狂わせた。
――今世の私は、逃げない。
それどころか。
「陛下より仰せです。『婚約の儀に関わる嘆願であれば、当事者たる第一王女の同席が筋であろう』と」
侍従長の声が謁見の間に響いたとき、ヴィンセルの顔に浮かんだ動揺を、私は正面から見届けた。
そう。今回は、同席を願い出たのは私だ。
あなたが私を捨てる場面を、人づてになんかで聞いてやらない。
この目で、見る。
*
「――以上の理由により、伏してお願い申し上げます。リディエンヌ王女殿下との婚約を解消し、あらためてリュシオラ王女殿下との婚約をお許しいただきたい」
絨毯に膝をついたまま、ヴィンセルは述べた。よく通る、騎士らしい声だった。
「代償として、我がグランハルト家が先の国境戦で賜った勲一等の恩賞、および付随する封地の加増を、すべて返上いたします。加えて、侯爵家嫡男たる継承の順位についても、王家のご裁定に委ねます」
謁見の間が、静かにどよめいた。
勲一等。封地。継承権。彼が十九年の人生で積み上げた、ほとんど全部。
玉座の父は、ちらりと私を見た。芝居の段取り通りに。
「……当人を差し置いて決める話ではない。リディエンヌ。そなたの考えは」
全員の視線が、私に集まった。
ヴィンセルも、膝をついたまま顔だけをこちらに向けた。若葉色の瞳。前世で、最後まで私を映して、最後まで私を知らなかった瞳。
その目が今、何を予想しているかは分かる。泣かれること。縋られること。醜く騒がれること。そのどれであっても、彼の物語の中で私は「聞き分けのない枷」になり、彼は「愛を貫く騎士」になれる。
――お断りだ。
「グランハルト様のお志、確かに承りました」
私は、微笑んだ。
「よろしいのではないでしょうか」
ヴィンセルの目が、見開かれた。
「……リディエンヌ、様?」
「あら。ご不満そうですのね。願いが叶いますのに」
「いや……その……」
彼は明らかに、調子を狂わされていた。用意してきた台詞の続きが出てこない。それでも彼は、彼のままだった――立ち上がり、私に歩み寄り、あろうことか、労るような声を出したのだ。
「……感謝する、リディエンヌ様。あなたは、強い人だ。分かってくれると信じていた。リュシオラは、あなたと違って弱い。あの子には俺が必要なんだ。あなたなら、ひとりでも――」
あなたと違って。
あなたなら、ひとりでも。
ふ、と、焚き火の匂いがした気がした。
掌ほどの小さな火。膝に剣を抱いた夜のあなたは、従者にはあんなに優しかった。恋人はいるのかと訊いて、想われていないと知れば、別れちまえと笑って、俺の妻はな、と愚痴をこぼして。
あなたは、優しくなれる人なのだ。
私に、ではないというだけで。
「ええ」
私は言った。声は、自分でも驚くほど凪いでいた。
「よく、分かっておりますわ」
――あなたより、ずっと。
あなたの願いの値段も。その願いの本当の宛先も。この取引の先で、あなたが何を失うのかも。この場の誰より、私がいちばんよく分かっている。
「では陛下。婚約解消の儀は、明後日の夜会にて――多くの臣が集う場で、正式に執り行っていただけますでしょうか。グランハルト様の恩賞返上ほどの大事、内々で済ませては、かえって要らぬ憶測を呼びましょう」
「もっともである」
父が頷き、書記官が羽根ペンを走らせる。
これでいい。
彼の「全功績と引き換えの願い」は、公式の記録に残った。そして明後日、衆目の前で成立する。
成立した、その同じ夜に――私の輿入れが公表される。
彼が全てを支払って買ったものが、最初から棚に並んでいた無料の品だったと、国中の前で明らかになる。返品はできない。支払った功績も、戻らない。
やられたことは、返す。
泣き寝入りの利息をつけて、きっちりと。
「本日は、ようございましたわね。グランハルト様」
退出の際、私はすれ違いざまに、彼にだけ聞こえる声で言った。
「どうか明後日まで、その願いを、大切に」




