第5話 聞き分けのいい娘
敵国リンドヴェールからの親書は、目覚めから三日後の朝に届いた。
前世と、寸分違わぬ日付で。
王宮は蜂の巣をつついたようになった。廊下という廊下で貴族たちが囁き合う。曰く、敵国が和平の条件に王女を求めている。曰く、あの戦神の大公の花嫁にされるのだ。曰く、行けば生きては帰れまい――。
午後の広間では、リュシオラが女官たちに囲まれて震えていた。
「わたくし……わたくしが行くことになったら、どうしましょう……」
蜂蜜色の巻き毛が揺れ、空色の瞳に涙が盛り上がる。女官たちが口々に慰める。おいたわしい、第二王女様はまだお若いのに、ああでも、それなら順当なのは――と、幾つもの視線が、廊下を通る私の背中に刺さった。
前世もこうだった。
何もかも、こうだった。
違うのは、私だけだ。
*
謁見を願い出ると、父はその日のうちに時間をくれた。娘との面会がこれほど早く叶ったのは、記憶にある限り初めてだった。……用件を、察しているからだろう。
執務室の父は、書類から顔も上げずに言った。
「話とは何だ」
「リンドヴェールへの輿入れの件です。――私が、参ります」
羽根ペンが、止まった。
父がゆっくりと顔を上げる。灰色の目に浮かんだのは、驚きでも悲しみでもなく、値踏みだった。娘の言葉の裏に、面倒の種がないかを探る目。
「……本気か」
「はい。第一王女が参るのが、両国にとって最も筋が通りましょう」
「そうか」
それだけだった。
そうか、の一言。行くな、とも、なぜだ、とも、怖くはないのか、とも――父は何も、訊かなかった。代わりに肩から力が抜けるのが、執務机を挟んだ距離からでも分かった。安堵だ。厄介な長女が、自分から出て行ってくれる。
……前世の記憶が、ふいに重なった。
この同じ執務室で、十七の私は父に縋ったのだ。ヴィンセル様と結婚させてください、婚約の交換など認めないでください、と。泣き腫らした顔の娘に、父はやはり書類から顔を上げず、こう言った。
『好きにしろ。ただし、騒ぐな』
娘が恋に泣いても、娘が敵国に行くと言っても、同じ温度。
この人は最初から、こうだったのだ。呪いも魅了も関係なく、娘たちを見る目だけは、この人自身のものだった。
不思議と、もう痛くはなかった。痛みというのは、期待の裏側にしか棲めないものだから。
「つきましては陛下、三つ、お願いがございます」
「……申せ」
「一つ。この志願は、発表の夜会まで、どなたにも伏せてくださいませ。継妃様にも、どうか」
「ふむ。理由は」
「輿入れが正式に整う前に騒がれては、纏まる話も纏まりません」
嘘ではない。継妃に知られれば、ザイデルンの筋書きが前倒しで動く。それだけは避ける。
「二つ。輿入れ支度の一切を、私の裁量にお任せいただきたいのです。持参の品目、随行の人選、すべて」
「構わん。国庫に障らぬ範囲でな」
「三つ」
私は一歩進み出て、用意した書付を差し出した。
「王女の嫁資に関する慣例に従い――先の王妃エルヴィーネの遺品はすべて、娘である私の持参品と定める。この一文に、御璽を賜りたく」
父の眉が、わずかに動いた。
「……母の形見が、欲しいか」
「敵国でひとり、心の支えになるものは、それしかございませんので」
娘らしい、可愛らしい理由。父は深くも考えず、書付に璽を押した。厄介払いの代金としては、安いものだと思ったのだろう。
――これで、母の遺品に手を出した者は、誰であれ王女の嫁資の横領人になる。
継妃が母の首飾りを競売に出すのは、三日後。前世と同じなら、三日後だ。
どうぞ、出してくださいませ。お義母様。
「話は終わりか」
「はい。……ああ、いいえ。最後にひとつだけ」
私は淑女の礼をとり、聞き分けのいい娘の顔で微笑んだ。
「陛下。オーレリアンお兄様に、近く書状を賜りますよう。国境の武練の成果を、父王が直々に問う形で。……嫁ぐ前に、兄妹の縁を繋いでいただけたら、心残りがございません」
「……あれの、何がいい」
父の声に、明確な険が混じった。理由のない、粘つくような嫌悪。
前世では気づけなかったが、こうして冷静に見ると、明らかに妙だった。息子の話題になった瞬間だけ、父の目の焦点がわずかにずれる。まるで、誰かにずらされているように。この嫌悪は、自然なものではないのかもしれない。
「親孝行の真似事でございます。どうか」
「……考えておく」
それでいい。種は蒔いた。この不自然さの正体も、いずれ必ず突き止めてみせる。
*
執務室を出ると、廊下の陰から音もなくルティアが並んだ。互いに前を向いたまま、囁きだけを交わす。
「首尾は」
「上々。璽ももらったわ。……そちらは?」
「継妃様が、午後にお茶会の招待状を。……お姉様宛です。三日間、毎日」
「あら、光栄」
探りに来た。志願のことはまだ知らないはずだが、あの女の勘は侮れない。私の何かが「前と違う」ことを、肌で嗅ぎ取っている。
いいでしょう。
前世の私は、あなたたちの舞台でただ泣く役だった。
今世は違う。泣く役も、騒ぐ役も、悪者の役も降りさせていただく。代わりに務めるのは――幕が下りる瞬間まで誰にも正体を明かさない、筋書きの書き換え役。
「ルティア。速記のできる女官を、ひとり買収できる?」
「……三日ください」
「二日で。茶会に間に合わせたいの」
妹は一瞬だけ目を丸くして、それから、口の端でちいさく笑った。
「お姉様、少し悪いお顔になっておいでです」
「あら」
私は扇を開いて、口元を隠した。
「これからよ、ルティア。――三日間だけ、皆様の茶番にお付き合いしましょう」




