第4話 兄様の毒杯
北の国境砦にいる兄へ、手紙を書く。
たったそれだけのことに、私は一刻も費やしていた。
書き損じが、もう五枚。
「……難しいですね」
東屋の卓の向かいで、ルティアが呟いた。
「『兄様は毒を盛られています』と、そのまま書けば」
「狂人の手紙として、暖炉行きよ。前世の私たちが、身をもって知っているでしょう」
誰にも聞いてもらえない、ということの重さを。
前世。兄の訃報が届いた日のことを、私は覚えている。
戦時下の陣中で病を得た、と使者は言った。棺は閉じられたまま王都へ帰り、私はついに、兄の顔を見られなかった。父は泣かなかった。継妃グリゼルダは、それは美しく泣いた。喪の黒がよく映える人だと、ぼんやり思ったのを覚えている。
あのときの私は、何も知らなかった。
閉じられた棺の中で、兄の唇が毒の色をしていたことも。
その色を見た少女が、誰にも打ち明けられない真実を抱えて、使用人たちの中でたったひとり、押し潰されそうになっていたことも。
「……ルティア。ベルガの今の動きは?」
「今朝、確認しました」
妹は声を落とした。ベルガ。兄付きの侍従。物腰の柔らかい、誰からも信を置かれる古株。そして前世、病床の兄に毒の薬湯を運び続けた男。
「北へ発つ荷の中に、『強壮湯』の包みがあります。兄様が武練の後に召し上がる薬湯の材料だと。……前世と、同じです。あの毒は一度に効くものではありません。何ヶ月もかけて、少しずつ、体の底を腐らせていく――」
だから「病死」になる。
誰も疑わない、完璧な殺し方。
そして恐ろしいのは、それが「もう始まっている」ということだった。巻き戻ったこの世界で、兄の体には既に、最初の数滴が落とされている。
時間はない。けれど手紙一通で、兄を救えるだろうか。
「……お姉様。証拠を、向こうで出させましょう」
ルティアが、書き損じの一枚を裏返して、拙い図を描き始めた。
「私たちが『毒がある』と言っても信じてもらえない。なら、兄様ご自身の手で毒を見つけていただくんです。手順だけをお伝えして」
賢い子だ。前世、たったひとりで半年も調べ続けた子の、これが底力だった。
ただし、毒の一文字も書いてはならない。
手紙というものは、封をした瞬間から、どこで誰に開かれるか分からないものだから。ましてや相手は、王宮の奥で糸を引く継妃だ。「毒」「ベルガ」「疑い」――そんな言葉がひとつでも紛れていたら、手紙ごと、私たちの首が飛ぶ。
だから私たちは、嫁入り前の妹から兄への、たわいもない近況の文を書いた。
『兄様へ。輿入れの支度の合間に、母様の香草湯の淹れ方を習い覚えました。秘訣は、飲む前に銀の匙で三度、ゆっくり掻き混ぜることだそうです。武練の後の一杯にも、きっとよく合いますから、兄様もぜひこの作法でお試しください。
それから、料理番が申しますには、近頃の王都の乾物は品が落ちて、南方の胡桃などが平気で紛れ込んでいるとか。兄様は昔から胡桃がお体に合いませんでしたでしょう。王都から届いた包みは、口にする前に、砦の薬師様に中身を検めていただくと安心です。
どうかお体を大切に。妹たちより』
銀の匙は、ある種の油に触れると曇る。
南方胡桃――それ自体は毒ですらない。けれど兄様の体だけが、あれを受けつけない。毒見役は倒れず、検分にも引っかからず、ただ兄様の体の底だけが、何ヶ月もかけて腐っていく。前世のルティアが半年かけて突き止めた、手口の核心だった。
この文面なら、途中で誰に読まれても、妹の他愛ない気遣いにしか見えない。
伝わるかどうかは、兄様の察しの良さに賭けるしかない。
「あとは……この手紙を、兄様が『妹たちからだ』と信じてくださるかどうか」
署名は書けない。奪われたとき、差出人が割れれば終わりだから。
私は少し考えて、便箋の隅に、小さな絵を描いた。
木彫りの、不格好な小鳥。
昔、兄が彫刻刀で指を三度切りながら作った、世界にふたつだけの小鳥の像。ひとつは私に。もうひとつは――使用人棟の隅にいた、亜麻色の髪の幼い妹に。
「っ……」
ルティアが息を呑んだ。お仕着せの胸元を、ぎゅっと握る。今もそこに、あの小鳥を提げているのだと、前世の最後の夜に私は知った。
「これで伝わるわ。……この絵を知っているのは、世界に三人だけよ」
手紙は、洗濯物に紛れて屋敷を出た。使用人棟で育ったルティアには、貴族の誰も知らない伝手が張り巡らされている。荷馬車の御者の妹の、嫁ぎ先の兄が、北へ行く商隊にいる。手紙は名も知られぬ人々の手から手へと渡って、誰にも足取りを掴まれないまま、北の兄のもとへ運ばれていく。
*
返書は、五日後に届いた。
夜会を明日に控えた、慌ただしい昼だった。洗濯物の籠の底から出てきたそれを、私とルティアは東屋で開いた。
几帳面な、懐かしい兄の字。
それは、どこからどう読んでも、無骨な武人の他愛ない返事だった。
『文と、懐かしい絵をありがとう。
教わった作法で、さっそく香草湯を試した。銀の匙で三度――なるほど、良い作法だ。匙は、砦の冬空よりもよく曇った。
薬師にも湯の味を見てもらったところ、南方の香りがすると褒められた。おまえの言う通り、俺の体には少々贅沢すぎる香りだ。
とはいえ、武練の後の一杯は欠かせん。ベルガが毎朝良い加減に淹れてくれるのでな。あれは本当によく気のつく従者だ。これからも変わらず、ありがたく「いただく」ことにする。
白状すると、湯が熱かったせいか、飲んだ後しばらく手が震えた。歳かもしれん。怒っているのか怖がっているのか分からんような、妙な震え方だった。
ときに、母上の淹れ方をどこで習った? 兄の知る限り、おまえたちがそれを教わる機会はなかったはずだ。今度会ったら、湯の話を最初から最後まで、ゆっくり聞かせてくれ。急かしはせん。だが、一滴もこぼさず話せ。
妹たちの言うことを、兄は信じると決めた。体を大切にな。おまえたちもだ』
便箋の最後に、下手くそな小鳥の絵が、描き足されていた。
*
読み終えて、私とルティアは顔を見合わせた。
――匙は、曇った。
毒は、あった。薬師も裏を取った。それでいて兄様は、明日からも何も知らない顔で毒の湯を「いただく」という。飲むふりで捨てるくらい、あの人なら造作もない。ベルガを疑っているとは、文のどこにも書いていない。書いていないことが、答えだった。泳がせて、糸の先を辿る気だ。
手の震えのくだりだけは、暗号ではないのだろう。自分の体の中で殺しが進んでいたと知った人間の、それは正直な震えだ。それすら兄様は、湯の熱のせいだと書いてみせた。
そして最後の一文。
湯の話を、最初から最後まで。一滴も、こぼさず。
「……『全部話せ』、ですね」
ルティアが小さく笑って、それから、声を殺して泣いた。
前世、たったひとりで見送った兄の棺を、この子はきっと今も夢に見る。その兄の字が「妹たちを信じる」と書いている。それだけで、この巻き戻りには意味があったのだと、私は思った。
――味方が、三人になった。
毒杯は止めた。次は、この家からの出口だ。
窓の外では、明日の夜会の準備で、庭師たちが薔薇のアーチを組み上げていた。
あの夜会で、私は捨てられる。
そして私は、この国を捨てる。




