第3話 お姉様も、覚えていらっしゃるのですね
夢だ、と最初は思った。
あまりにも長く、あまりにも精緻な悪夢。戦場の泥の匂いも、焚き火の爆ぜる音も、腕の中で冷えていく夫の重さも、全部、悲しみが見せた作り物なのだと。
そう思おうとした。
「おはようございます、姫様! 今日も良い天気ですよ……って、姫様? どうなさいました、幽霊でも見たみたいなお顔して」
部屋に入ってきたタリサを見た瞬間、思考が止まった。
乳姉妹の侍女は、いつも通りの調子で窓を開け、いつも通りの調子で寝台の帳を上げ――死んだはずの顔で、屈託なく笑っていた。
毒の刃に倒れて、私の腕の中で息を引き取った、あの顔で。
……いいえ。
それはまだ、起きていないこと。
これから起きる、かもしれないこと。
「タリサ。今日は何日?」
「花月の十二日ですけど……本当にどうなさったんです?」
花月の十二日。打診の三日前。夢と同じ日付。
私は寝台を降りて、鏡台の前に立った。夜着の肩をずらす。
左肩に、銀の紋様が――ある。
あるように、見える。
水差しの水を指に取り、そっと紋様の端をなぞった。にじんだ。銀色がわずかに、指の腹に移った。
薬草のインク。
九歳の春から、母に教わった配合で、毎朝自分で描き続けてきた偽物の純潔。
夢なら、こんな細部まで一致するはずがない。あれは夢ではなく、記憶だ。私は一度、あの夜に死んだ。夫の遺言も、ルティアの帳面も、継妃の告白も、全部本当にあったことだ。
なら、あの最後の銀の光は?
あの祈りの声は――誰?
「タリサ、着替えるわ。それから、頼みがあるの」
「はい?」
「使用人棟のルティアを、誰にも知られずに、離れの東屋へ呼んでちょうだい」
タリサは目を丸くした。当然だ。この屋敷で、私があの妹の名前を口にしたことは、ただの一度もなかったのだから。
*
東屋に現れた妹は、あの夜と同じ目をしていた。
静かで、暗くて、こちらの一挙一動を読もうとする、観察者の目。継ぎの当たったお仕着せの袖口を握りしめて、亜麻色の髪の少女は、距離を取ったまま立っていた。
「……第一王女殿下が、私に何のご用でしょうか」
他人行儀な声だった。それはそうだ。「今の」私たちは、まだ一度も言葉を交わしたことのない姉妹なのだから。
さて、どう切り出すべきか。
頭のいい子だ。だからこそ、迂闊なことを言えば警戒される。「あなたは未来で、兄様の死の真相をたったひとりで調べ抜いて、最後の夜に私を頼ってくれた」なんて、正気を疑われるだけ――
「……お姉様」
先に口を開いたのは、ルティアのほうだった。
琥珀の瞳が、探るように、祈るように、私を見上げていた。
「変なことを、お聞きします。……花月の十二日に、東屋に私を呼ぶようなことは、『前』にはありませんでした」
心臓が、跳ねた。
「お姉様も――覚えて、いらっしゃるのですね」
風が、東屋の蔦を揺らした。
私たちはしばらく、ただ見つめ合っていた。確かめるように。信じられないものを見るように。
「……兄様の帳面のこと」
「薬の払い出しの写しと、献立表と、侍従の覚え書き」
「私が殺された夜、あなたは物陰に」
「継妃様の言葉を、全部聞きました。ザイデルンのことも。……リュシオラ様が、生きていることも」
最後まで言い切って、ルティアの膝から力が抜けた。崩れるより早く抱き留めると、小さな体は驚くほど軽くて、氷のように冷たかった。
「……っ、ごめん、なさい……私、私が、もっと早く証拠を集めていれば、お姉様は死なずに……」
「逆よ」
私は妹の背を撫でた。一周目には、ついにしてやれなかったことを。
「あなたが来てくれたから、私は真実を知って死ねた。何も知らずに流されて死ぬのと、どちらがましだったと思う? ……それに」
それに、私たちは戻ってきた。
あの銀の光が何だったのか、まだ分からない。けれど今この瞬間、この世界で「あの夜」を覚えているのは、私とこの子の二人だけ。
なら、やるべきことは決まっている。
「ルティア。私は三日後に来る敵国からの縁談を、自分から受けるつもりよ」
妹が、弾かれたように顔を上げた。
「どうして……! お姉様はあの戦争がどう終わるか、ご存知のはずです。敵国に行くなんて」
「知っているからこそ、よ。あの戦争の火種は、この王宮の中にある。継妃と、ザイデルンと、偽装死の筋書き。なら、敵国は敵じゃない――同じ筋書きに踊らされる、もうひとりの被害者よ。私はあちら側から、この筋書きを壊す」
一周目の私は、初恋にすがって、この国に残って、何もかも失った。
想われない場所で待ち続ける人生は、時間の無駄なのだと――他ならぬあの人が、教えてくれたのだから。
「二周目は、間違えない。あなたと、生きて全部を暴く。手伝ってくれる?」
差し出した手を、ルティアは今度は、自分から握った。
小さな手には、もう震えがなかった。
「……はい。何なりと、お申し付けください。……いいえ」
妹は初めて、ほんの少しだけ笑った。
「一緒に、やりましょう。お姉様」
「ええ。それじゃあ、さっそく最初の仕事よ」
時計塔が、朝の九つ目の鐘を打った。
記憶が正しければ、運命が動き出すまで、あと三日。その前に、どうしても止めなければならない毒がある。
「まず――兄様の毒杯を、止めるわよ」




