第2話 銀の光
夫の亡骸とともに王都へ帰り、私はヤニクに体を返した。
「……奥方様。本当に、これでよろしかったのですか」
元の姿に戻った従者は、泣きそうな顔でそう言った。
夫は、いつも私を見なかった。褒めるでもなく、詰るでもなく、ただ透明なものを見るような目で通り過ぎていく。名を呼ぶことさえ、稀だった。
そのたび、さりげなく隣にいたのがヤニクだった。空になった杯を満たし、誰も気づかない夜更けの咳ひとつにさえ、真っ先に灯りを持って現れた。忠義というだけでは片付かない、何か柔らかいものが、いつもそこにあった。
この数ヶ月、私の姿で療養を装い、離宮に籠もっていてくれたのも、その延長でしかない。それでも、恩人だった。
「よかったのよ。最期まで、そばにいられたもの」
我ながら、よく出来た嘘だと思った。
それから王宮の離れで、私は抜け殻になった。
戦況は日ごとに悪くなった。義妹の死から始まったこの戦争は、もう誰にも止められない濁流になって、国境の町をいくつも呑んだ。兄がいれば、と何度も思った。
兄オーレリアン。王太子でありながら、なぜか父王に疎まれ、国境へ遠ざけられた人。私とルティア――使用人棟の隅で育った異母妹――だけを分け隔てなく可愛がってくれた、たったひとりの家族。
その兄は、半年前に死んだ。戦時下の陣中で病を得た、と発表された。
葬儀の日、父は泣かなかった。継妃グリゼルダは美しく泣いた。私はそれを、どこか遠い国の出来事のように見ていた。
夫も死に、兄も死に、私の中の火も消えて。
あとはもう、この戦争が全部を流していくのを待つだけだと思っていた。
――あの夜までは。
*
扉が叩かれたのは、真夜中だった。
三度、間を置いて二度――そのノックの拍子は、使用人の合図ではなかった。誰何もしないうちに、ただ小さく、名乗る声がした。
「……リディエンヌお姉様。ルティアです」
驚いた。この妹と、まともに言葉を交わした記憶がなかったからだ。
扉を開けると、亜麻色の髪の少女が、蝋燭も持たずに立っていた。琥珀の瞳が、暗がりでじっと私を見上げた。
「夜分に、申し訳ありません。……ですが、他に頼れる方が、思いつきませんでした」
彼女が差し出したのは、古びた帳面の束だった。
薬品の払い出し記録の写し。陣中の献立表。兄付きの侍従の出入りを記した、拙い手跡の覚え書き。
「兄様は、病死ではありません」
ルティアは言った。静かな、けれど一度も揺れない声で。
「殺されたのです。私は……病床の兄様に、使用人として付いておりました。この目で見たのです。あの侍従が、いつも同じ杯で薬湯を運ぶのを。抵抗する兄様を押さえつけて、無理やり飲ませるのを。兄様の唇が、毒の色に変わっていくのを。……誰に言っても、信じてもらえませんでした。メイドの娘の言葉ですから」
帳面を持つ指先が、白くなるほど強く握られていた。
この子は、たったひとりで調べたのだ。
誰にも聞いてもらえないまま、半年間。大勢の使用人に紛れて誰の目にも留まらないまま、たったひとりで。
私は帳面を受け取って、頁を繰った。侍従の名前。薬草の名前。日付の重なり。素人の調べだ。けれど、筋が通っていた。恐ろしいほど、通っていた。
そして侍従の名前の先には――継妃の名前があった。
「……ルティア」
気づけば私は、妹の両手を取っていた。生まれて初めて触れる、妹の手だった。小さくて、冷たくて、震えていた。
「よく、ひとりで調べたわね。もう、ひとりで抱え込まなくていい」
琥珀の瞳が、大きく見開かれた。
「一緒に、真相を暴きましょう。兄様の仇を――」
言い終わることは、できなかった。
扉が、外から蹴り開けられたからだ。
*
男が三人。夜盗の形をしていたが、動きは兵のものだった。
最初に飛び込んできたのは、騒ぎを聞きつけたタリサだった。
「姫様……っ! お逃げくださ――」
乳姉妹は、体ごと私を庇って、最初の刃を受けた。崩れ落ちる体を抱き留める。腕の中でタリサは、何かを言おうとして、言えないまま、動かなくなった。刃に毒が塗られていたのだと、すぐに分かった。傷の浅さに、死の速さが釣り合っていなかったから。
考える間は、なかった。
ルティアを突き飛ばして物陰に庇ったところまでは、覚えている。擦り切れた魔力で張った結界は、二人目の剣までしか止まらなかった。
三人目の刃は、とても冷たかった。
倒れた私の視界に、見慣れた裾が入ってきた。夜目にも上等な、継妃の夜着の裾が。
「あらあら。……妹と仲良くなんて、しなければよかったのに」
グリゼルダは、床に広がった帳面を一枚ずつ、蝋燭の火にくべながら言った。
「王太子の次は、あなたなの。順番はずっと決まっていたのよ。ヴァルデンツの直系は、みんな邪魔なの。……ザイデルンの皇帝陛下が、そうお望みだから」
ザイデルン。
第三国の名前が、なぜ、ここで。
「戦争も、よく働いてくれたわ。娘ひとり死んだことにするだけで、二つの国が勝手に潰し合ってくれるんだもの」
――死んだことに、する。
「ふふ。ええ、そうよ。リュシオラは生きているわ。ザイデルンでね」
継妃は、燃える帳面の明かりで微笑んだ。
「あの子の墓に祈った皆様には、悪いけれど」
夫の顔が、浮かんだ。
生きている女の仇を討つために剣を振り、生きている女の名前を呼びながら死んでいった、私の夫の顔が。
来世があるなら、だなんて。
来世を誓った相手は、詐欺師だったのに。
声は、もう出なかった。視界の端が黒く塗り潰されていく。継妃の足音が遠ざかる。どこか近くで、押し殺した嗚咽が聞こえた。物陰の暗がりで、琥珀色の瞳が絶望に見開かれているのが、最後に見えた。
逃げて、ルティア。
あなただけは、逃げて。
闇が落ちる、その間際だった。
銀色の、光を見た。
泣き声が、祈りになるのを聞いた。
『――お姉様と、兄様が、生きている世界に』
『全部、全部……やり直させて……!』
世界が、白く割れた。
*
目が覚めた。
天蓋の見慣れた木目。窓の外の鳥の声。暖炉に火はなく、春の朝の光が差していた。
私は跳ね起きて、自分の掌を見た。傷ひとつない。夜着に血の染みもない。
卓の上に、日付の入った招待状が置いてあった。
その日付は――敵国リンドヴェールからの政略結婚の打診が王宮に届く、三日前だった。




