第1話 夫の遺言は、義妹の名前でした
矢が来る、と思ったときには体が動いていた。
「――ヴィンセル様!」
従者の声で叫び、従者の腕で彼を突き飛ばす。焦げた土の上を二人分の体が転がって、一拍遅れて、さっきまで彼の首があった場所を黒い矢が三本、貫いていった。
「……すまん、ヤニク。また借りができたな」
泥だらけの顔で、私の夫が笑う。
赤金の髪に、若葉色の瞳。ヴァルデンツ王国が誇る若き騎士、ヴィンセル・グランハルト。
この戦場で彼の命を拾うのは、これで七度目になる。
彼は知らない。
従者ヤニクの中身が、入れ替わりの秘術で体を借りた妻――リディエンヌ・ヴァルデンツその人だということを。
世界でいちばん、彼に嫌われている女だということを。
*
夜営の火は、いつも小さい。敵に見つからないように、掌ほどの焚き火を囲んで、兵たちは交代で眠る。
私は眠らない。
眠っている間に彼が死んだら、何のためにここまで来たのか分からないから。
結界というものは、派手な魔法ではない。祖国では「使用人の魔法」と嗤われる、地味な、地味な力だ。それでも私の糸のような結界は、この数ヶ月、夜襲の刃を三度受け止め、毒矢を二度逸らし、崩れる岩壁を一度だけ支えた。
誰も気づかないくらい、静かに。
「ヤニク。おまえ、恋人はいるのか」
不意に、火の向こうから声がした。
見張りのはずの夫が、眠れないらしく、膝に剣を抱いてこちらを見ていた。
「……結婚、しています」
嘘は言っていない。
「へえ。会いたいだろう」
「どうでしょう。……相手は、自分のことを、好きではないので」
言ってから、少しだけ後悔した。声が震えなかったのは、従者の喉が私のものではないからだ。
夫は火を挟んで、呆れたように笑った。
「なんだそれは。そんな相手はさっさと別れちまえ。時間の無駄だ」
ぱち、と薪が爆ぜた。
「想われてもいない場所で待つ人生なんて、無駄以外の何ものでもないだろう。おまえは悪いやつじゃない。次を探せ、次を」
「……覚えておきます」
あなたに教わったと、いつか言う日が来るだろうか。
来ないだろうな、と思いながら、私は火に枝を足した。
「俺の妻はな」
夫は続けた。聞いていないのに、続けた。
「家の決めた枷だ。国と家門が結んだだけの、顔も見たくない枷。あれがリュシ……あの人の半分でも可愛げのある女だったら、俺の人生は違ったんだろうが」
彼の手が、胸元のお守りに触れる。
薄汚れた小さな布包み。彼が十一の歳から肌身離さず持っている、恩人の形見。
「その方のことを、愛しておられるのですね」
「ああ。……死んでしまったがな」
義妹のリュシオラ。敵国に嫁ぎ、敵国で死んだ、可哀想な第二王女。
夫はその仇を討つためにこの戦場にいる。彼の剣を振るわせているのは王命ではなく、とうに死んだ女への恋だった。
私は黙って、結界の糸を張り直した。
彼の寝顔のまわりに、誰にも見えない銀の糸を。
時間の無駄と呼ばれた歳月を、今夜も一針ずつ縫うように。
*
その夜襲は、月のない晩に来た。
三日三晩の行軍の後だった。私の魔力は擦り切れて、結界の糸は残り僅かで、それでも敵の第一波は防いだ。第二波も逸らした。
第三波の矢を、防げなかった。
「――ヤニク!!」
突き飛ばされたのは、私のほうだった。
鈍い音がした。
振り向いた先で、夫が膝をついていた。従者を庇った背中に、深々と、矢が生えていた。
「ヴィンセル様……っ」
敵は退いた。味方が駆け回る。軍医が呼ばれる。誰かが松明を掲げる。
その全部が、ひどく遠かった。
私の腕の中で、夫は静かに血を失っていった。回復魔法は間に合わない。彼も、それを分かっている顔をしていた。
「……ヤニク。この一月、ずっと……お前に、守られてばかりだったな……今日、ようやく……俺が、守れた……」
「喋らないでください」
「聞け。……遺言だ」
若葉色の瞳が、私を見た。
私を見て、私を映して、最後まで私を知らない瞳が。
「俺は……リュシオラの仇を、討てなかった。それだけが……心残りだ。あんなに、綺麗な人は……いなかった。なあ、ヤニク……来世が、あるなら……」
言うな。
言わないで。
「来世があるなら……今度こそ、あの人と……結ばれたい……」
夜空に、火の粉が昇っていった。
夫は震える手で、胸元のお守りを外した。十一の歳から、二十一で死ぬ今夜まで、戦場にまで持ち込んだ、恩人の形見を。
「これを……あの人の、墓に……供えてくれ。頼む……」
私の掌に、それは落ちた。
布がほどけた。
中から出てきたのは、焼け焦げた跡のある、小さな銀の髪飾りだった。
――ああ。
見覚えが、ないはずがなかった。
これは私のものだ。九歳の春、魔獣の炎から彼を庇ったあの日、私が落とした髪飾り。母の形見の、家紋の細工。
あの日、彼を守ったのは私だ。なのに彼は、ずっとリュシオラだと信じてきた。
彼が生涯かけて愛した「恩人の形見」は、最初から、私の落とし物だった。
彼の恋は、最初の一秒から、宛先を間違えていた。
恩人を、好きになったのか。好きだったから、恩人だと思い込みたかったのか。――今となっては、彼自身にも分からないのだろう。
「……確かに、お預かりしました」
従者の声で、私はそう言った。
夫は安心したように笑って、それきり、二度と動かなかった。
泣かなかった。
不思議なくらい、涙は出なかった。
ただ、長いあいだ胸の奥で燃え続けていた小さな火が、ふ、と消えるのが分かった。九歳の春から灯りっぱなしだった、誰にも気づかれなかった火が。
そこで私の恋は、音もなく終わった。




