第42話 相互交換
片膝をついたまま、彼は言った。
「俺たちの婚姻は、契約から始まった。和平の道具と、俺は言った。……あの言葉を、取り消しに来た」
燭台の火が、静かに揺れた。
「この国の人間は、生涯にただひとりと誓う。その誓いは契約魔法で結ばれ、俺と君の間にも、もうある。……だが、それより深い結び方が、ひとつだけ残っている」
金の瞳が、まっすぐに私を見上げた。
「魔力交換自体は、この国では珍しくもない。治療にも、契約にも、日常的に使う技術だ。……だが、互いの意思で、七割を超えて贈り合う。しかも生涯、ただひとりの相手にしか行わない。それは、この国でも一番古くて、一番重い誓いだ。……そして君の国の重さで言うなら」
彼は、言葉をひとつずつ、置くように言った。
「これは、閨の誓いだ。だから作法も、君の国の重さで聞く。――リディエンヌ。俺と、交換をしてくれるか」
九年前、意味も知らずに手放したもの。
三年前、衆目の前で流れ落ちたもの。
七日前、ようやく私のもとへ還ってきたもの。
それを今、この人は、両手を差し出して、問うてくれている。奪うのでも、検分するのでも、値札をつけるのでもなく。受けるか断るかの権利ごと、私の掌に載せて。
答えなど、とうに決まっていた。
「……はい」
自分の声が、震えているのが分かった。怖いからではなかった。
「はい。喜んで。……あなたと」
*
誓いの場に、儀式めいたものは何もなかった。
立会いも、陣も、詠唱もない。契約魔法の大家たるこの人がいれば、要らないのだという。あるのは燭台の火と、窓の外の大結界の銀と、向かい合うふたりだけ。
「怖くなったら、言え。いつでも止める」
「……ふふ。殿下こそ」
「俺は九年、これを待った……ことに、後から気づいた口だ。止まらんな」
両手を、重ねた。
彼の掌は、剣胼胝ばかりの、大きな手だった。その手のずっと奥から、彼の魔力が、静かに満ちてくる。あの夜明けの補給と同じ、冬の陽だまりの温度。けれど今夜のそれは、補給ではなかった。彼の器のいちばん深い場所から汲み上げられた、彼のいちばん最初の――
「――行くぞ」
「はい」
贈り合いは、同時だった。
私の初魔力が、彼へ。
彼の魔力の源が、私へ。
言葉にすれば、それだけのこと。けれどその瞬間に体の中で起きたことを、私は生涯、言葉にしきれないと思う。
九年間、堰の内側で眠っていた大河が、初めて全部、動いた。
銀の光が、部屋いっぱいに溢れた。私の糸と彼の雷が、互いの中へ流れ込み、絡まり、ほどけ、また絡まって――ふたつだった水源が、ひとつの流れになっていく。彼の中に私がいて、私の中に彼がいて、どちらがどちらの魔力なのか、境目が、溶けて。
ああ――そうか。
これが、完成するということ。
一方的に注ぐだけだった九歳の春から、ずっと宙に浮いていた魔力の契約が、いま、結ばれた。「受け取る」ことは、あの夜明けの補給で、この人が教えてくれた。けれど――与えながら、受け取る。応えて、応えられる。契約がふたりで閉じるのは、いま、初めて。
「……リディエンヌ」
光の中で、彼が息を呑んだ。
「肩を」
左肩に、熱が灯っていた。
見下ろすと――紋様が、生まれ変わっていた。
九歳の私が持っていた、あの紋様ではなかった。銀の糸の意匠に、雷の紋が絡み合った、見たこともない新しい形。そして彼の左肩にも、同じ意匠が、同じ光で浮かび上がっていた。
誰かに貼られた値札でも、偽って描いた絵でもない。
ふたりで贈り合った証が、ふたりの肌に、同じ形で。
「……モルデンが見たら、論文を三本は書くな」
「ふふっ……台無しですわ、殿下」
「ラグヴァルド、だ」
彼の手が、私の頬に触れた。
「様も、殿下も、もう要らん。……妻よ」
「――ラグヴァルド」
名前を呼ぶと、彼は笑った。目元まで届く、あの笑い方で。それから燭台の火が揺れて、影がひとつに重なって――その先は、二つの国のどちらの言葉でも、記さないでおく。
*
その夜半のことだ。
国境の砦に詰めていた両国の兵士たちは、生涯忘れない光景を見たという。
夜空を覆う大結界『盾』が――突然、真昼のように輝いたのだ。
白銀の光が地平から地平まで走り、結界の網目のひとつひとつが、編み直されるように太く、明るく燃え上がった。かつて嵐の夜に編み込まれた三筋の細い糸を芯にして、解き放たれた守り手の力が、堰のない大河のまま、国境の空いっぱいに流れ込んでいく。
後の観測で、『盾』の強度は建国以来の最大値を更新したと記録される。
ザイデルン帝国が国境沿いに残していた最後の工作拠点が、この夜の光をもって一斉に撤収を始めたことも、のちの防諜記録に残る。彼らの報告書の結びは、こうだったという。
『――当該国境よりの侵入工作は、以後、恒久的に不可能と判断する』
戦争の筋書きは、剣ではなく、ひとつの誓いに敗れた。
*
夜明け前、私は彼の腕の中で、窓の外の光を見ていた。
銀色に燃える『盾』の向こうは、祖国の空だ。
あの空の下に、玉座への階を上っていく兄がいる。母と暮らし始めた妹がいる。母の眠る墓があり、タリサの眠る丘があり、そして、私を焼いた九年があった。
「……振り返らないのか」
視線に気づいたのか、ラグヴァルドが訊いた。
「あれだけのことを、あの国に置いてきた。……未練は、恨みでも、あるだろう」
私は、少し考えた。
それから、この物語のいちばん正直な答えを、口にした。
「振り返らない、と決めて国境を越えました。……でも今は、少し違うんです」
「ほう」
「振り返らないのでは、なくて」
彼の胸に、頬を寄せる。左肩の新しい紋様が、彼のそれと、触れ合う位置で。
「――隣を、見ているので」
忙しいんです、これから。
と続けたら、戦神と呼ばれた人は、声を立てて笑った。
夜が明ける。
もう、描かなくていい朝が。
(本編・完)




