エピローグ 銀の紋様
一年後の春。
ヴァルデンツ王国に、新しい王が立った。
戴冠式の日、王都の大聖堂は花で埋まった。玉座への階を上っていく銀髪の若い王を、民は歓呼で迎えた。呪いの靄が晴れてからの一年、王太子として彼が積んだ実績は、疑り深い重臣たちの目さえ変えていた。先王ヴァルテールは退位の日、息子の前に深く頭を垂れ、以後は北の離宮で、亡き先の王妃の菩提を弔って暮らしているという。
戴冠式の招待客席には、リンドヴェール大公夫妻の姿があった。
そして新王の隣、王族の席には――王女の礼服を着た、亜麻色の髪の少女が、緊張に固まって座っていた。
「ルティア様、また背筋がお伸びすぎです。息をなさって」
「む、無理です女官長……この服、あたしが繕う側だった服です……」
式の後、彼女は真っ先に私のところへ飛んできて、王女らしからぬ速さで抱きついた。一年前、命の火が消えかけた子とは思えない力だった。再契約された命は、あれから一日ずつ、確かに強くなっている。
「お姉様、お姉様、あのね、あたし、学問所に通うことになりました。母さんと一緒に王都に住んで、それでね、いつか――」
「ええ」
「いつか、使用人の子たちが学べる学校を作るんです。誰にも映らない子たちの、目になれる大人に、なるんです」
この子の見てきた王宮の裏側は、この国の宿題そのものだ。新しい王は、妹のその夢を、治世の柱のひとつに据えると宣言している。
男尊女卑の古い戒律も、検分の儀も、少しずつ、変わり始めていた。法廷のあの日、「銀の光の少女」の真実を目撃した社交界は、もう以前の顔では紋様を語れない。フェルゼン侯爵未亡人あたりが夜会のたびに「あら、まだそんな古いことを仰るの?」と扇の内で笑うので、なおさらに。
*
変わらないものも、ある。
北の贖罪院の、小さな窓。
そこにいる女の日々を、私は人づてに聞くだけだ。訪問者はなく、鏡はなく、名を呼ぶ者もいない。聞くところによれば、彼女は最初の三月、誰も見ていない部屋で毎日髪を結い続け、やがて、結わなくなったという。
それ以上のことは、知らない。
知る必要も、もうない。
*
ヴィンセル・グランハルトの消息は、風の便りに届いた。
没落した家を弟に譲り、彼は名を伏せて、国境の工兵隊に志願したという。剣ではなく、鶴嘴を振るう部隊だ。戦で崩れた橋を架け直し、焼けた村の井戸を掘る。勲章の出ない仕事を、黙々と。
便りを運んでくれたのは、ヤニクだった。主家を離れた彼は今、両国を行き来する隊商の護衛頭をしている。
「……あの方は、変わられました。いえ、変わろうと、しておられます」
それから彼は、少し迷って、付け加えた。
「妃殿下。ひとつだけ、伺っても。……母の療養代のことを、あっしはずっと、考えておりました。あの払いが始まった時期を数えると、どうしても、妃殿下がまだ、あっしと言葉ひとつ交わしたことのない頃で」
私は、微笑むだけにした。
「……へえ。まあ、いいです。詮索はやめておきます」
ヤニクも、それ以上は聞かなかった。ただ去り際に、荷を担ぎ直して、深く、深く頭を下げた。理由の分からない借りに、律儀に頭を下げる男。あなたのそういうところに、二つの人生ぶん、助けられたのよ。
ヴィンセルは、真実の半分を知って生きていく。
銀の光の少女が誰だったのかは、もう知っている。けれど、戦場の焚き火で愚痴を聞いていた従者が誰だったのか。「枷は外れました」という言葉を、彼がどこで聞いたはずなのか。あの既視感の出所だけは、生涯、見つからない。
それでいい。
すべての答えを手に入れられるほど、人生は親切にできていない。私たちはみんな、答えの出ない問いをひとつくらい抱えて、それでも生きていくのだから。
*
リンドヴェールに帰る馬車の中で、うたた寝をしていたらしい。
目を覚ますと、夕暮れで、車窓の向こうに『盾』の銀が見え始めていた。あの夜からずっと、建国以来の輝きのまま燃え続けている、私たちの結界が。
「……起きたか」
隣で書類を繰っていたラグヴァルドが、顔も上げずに言った。
「よく眠っていた。戴冠式の間も、実は半分寝ていただろう」
「ね、寝ていません」
「ふ。……まあいい。着いたら休め。明日からまた忙しいぞ。学院の講義に、北の視察に、それから例の――」
「ラグヴァルド」
私は、彼の袖を、少しだけ引いた。
「今夜は、何も予定を入れないでくださいな」
「? ……何かあるのか」
「いいえ。何も」
彼が、書類から顔を上げる。
「何もない夜を、あなたと過ごしたいのです。……それだけの、用事です」
金の瞳が、まっすぐにこちらを見た。焚き火の夜のことも、あの言葉のことも、この人はもう、全部知っている。
私は、いちばん上等な微笑で、いつかの焚き火の言葉に、最後の返事をした。
「想われない場所で待つ時間は、たしかに無駄でした。……でも、いまなら分かります。想い合う人の隣では――何もしない時間さえ、無駄にならないのだと」
夫はしばらく黙って、それから書類の束を、座席の向こうへ置いた。空いた大きな手が、私の手を包んだ。
馬車は夕陽の中を、銀の結界へ向かって走っていく。
振り返らない。
隣を見て、笑うのに忙しいので。
(完)




