第41話 描かなくていい場所で
ルティアの命は、燃え尽きる寸前だった。
「――保って、あと三日」
モルデン翁の診立ては、残酷なほど明瞭だった。
「巻き戻しの代償が、器の底に届きましたのじゃ。薪の尽きた火と同じ。継ぎ足す薪が、この娘の体にはもう、ない」
「大儀式の支度は」
ラグヴァルドの問いに、翁は頷いた。
「和平の批准が成った今、障害はございませぬ。両国の魔導師団、契約魔法の大家、守護系の術者――呼べるだけ呼びました。……ですがな、殿下。正直に申し上げる。生命の再契約は、古文書に一例あるきりの秘儀。成功の保証は、どこにもございませぬ」
「構わん。やる」
「わたくしからも、お願いします」
私は、翁の皺だらけの手を取った。
「あの子は、世界を一度、巻き戻した子です。……今度は世界のほうが、あの子に返す番ですわ」
*
大儀式は、砦の聖堂で行われた。
床いっぱいに描かれた契約の大陣。それを囲む、両国の術者が五十人。ヴァルデンツの神殿魔導師と、リンドヴェールの学院魔導師が、肩を並べて同じ陣に魔力を注ぐ――半年前なら、誰も信じなかった光景だった。
戦争をするはずだった二つの国の魔力が、ひとりの少女の命のために、ひとつに編まれていく。
陣の中央に、ルティアが横たえられた。
枕元には、兄。反対側には、ルティアの母。私は陣の要の位置で、守りの糸を構えた。返還の儀で堰の消えた私の力は、もう細い糸ではない。今夜は大河のまま、あの子の命の周りに、何重にも壁を張る。
「――始めますぞ」
詠唱が、始まった。
五十人の声が重なり、大陣が光を帯びる。契約魔法の言葉が、消えかけた命の輪郭をなぞり、世界に向かって宣言していく。この命は、まだ終わらない。この命の続きを、両国の名において、ここに再契約する――
ルティアの体が、淡く光り始めた。
順調に見えた。半刻までは。
「――燃料が、足りませぬ……!」
術者の列から、悲鳴が上がった。
「再契約の器はできましたのじゃが、灯す火が……! 本人の生命力が、残り火ほども……!」
陣の光が、揺らぎ始めた。
五十人の魔力はあくまで「器」を作るもの。最後に器へ灯す火だけは、近しい命の、自発の分け前でなければならないという。血縁の、あるいは魂の近い者の、心からの。
「俺の命を使え!」
兄が叫んだ。
「わたくしのを……! 娘です、わたくしの娘なんです……!」
ルティアの母が縋りつく。
術者たちが顔を見合わせる。ひとり分の命から分けられる火は、僅かだ。足りるかどうか――
「――皆さま」
私は、陣の要から声を張った。
「ひとりで足りないなら、全員で分ければいいのです。兄様、お母様、私、殿下……この聖堂で、あの子に生きてほしい者、全員の火を、一匙ずつ。……モルデン様、術式の書き換えは」
「っ……国家がかりの秘儀を、その場で書き換えろと仰る……!」
翁は、白髭の奥で、にやりと笑った。
「……ようございます。老いぼれの最高傑作にしてくれましょうぞ!」
陣が、書き換えられた。
一本だった導線が、何十本にも枝分かれして、聖堂中へ伸びていく。兄が最初に手を置いた。ルティアの母が続いた。私が、ラグヴァルドが、ヘルガ将軍が、看護の女官たちが、そして――両国の術者たちが、ひとり、またひとりと、詠唱を続けたまま導線に手を置いていった。
誰の火も、一匙ずつ。
誰も欠けない、五十人の一匙が、陣の中央へ流れ込んでいく。
ルティアの胸の上で、小さな火が、灯った。
消えかけて、揺れて、もう一度灯って――それから、確かな鼓動の律動で、燃え始めた。
「――再契約、成立にございます!!」
聖堂が、両国の言葉の歓声で割れた。
*
三日後、ルティアは目を覚ました。
寝台の周りには、兄と、母と、私。目を開けた妹は、その順番にゆっくり視線を巡らせて、掠れた声で言った。
「……あれ。あたし……天国は、家族が多いんですね」
「天国じゃない」
兄が、笑いながら泣いた。
「おまえの家だ。……ばか」
その日の午後、兄は正式の書状を妹の枕元で読み上げた。ヴァルデンツ王太子オーレリアンの名において、ルティアを王女として王族に迎える。父王の裁可も、すでに下りていた。
「じょ、冗談でしょう……あたしは、メイドの娘で……」
「母君ごと、迎える。……ルティア。おまえは九歳の姉上の次に、この家の誰よりも家族のために命を燃やした人間だ。王女の名が重いなら、こう考えろ」
兄は、妹の額を、指でこつんと突いた。
「肩書きなんぞ、ただの入れ物だ。……おまえの中身に、家名がやっと追いついただけだ」
*
その夜、私はひとりで、母の日記を開いた。
全部が終わった日に、と約束した、最後の頁を。
燭台の灯りの下、八年前に途切れた母の筆跡が、そこにあった。
『――リディへ。
いつかあなたがこれを読む日、母はきっと、そばにいないのでしょう。
ごめんなさい。紋様のことも、インクのことも、なにもかも。九つのあなたに、隠して生きる道しか用意してやれなかったこと、母は生涯、悔いています。
でもね、リディ。これだけは信じて。
あなたが森であの子にしたことは、この国の誰が何と言おうと、母の知るかぎり、いちばん美しい魔法でした。あなたの銀の光は、隠しても、描き替えても、消えたりしない。それはあなたの、心の形だから。
だからいつか。
インクの要らない朝が、あなたに来ますように。
いつか、描かなくていい場所で、生きられますように。
その場所であなたが、たくさん笑っていますように。
――母より』
涙が、頁に落ちる前に、私は顔を上げた。
濡らしたくなかった。この頁だけは。
窓の外には、この国の夜空があった。大結界の銀がゆるやかに波打つ、描かなくていい場所の空が。
「……着きましたよ、母様」
九年、かかりましたけれど。
二つの人生を、使いましたけれど。
あなたの娘は、ちゃんと、ここに――
扉が、静かに叩かれたのは、そのときだった。
入ってきたラグヴァルドは、私の顔を見て、泣いていたことに気づいて、それでも何も訊かずに、ただ隣に立った。この人の隣の、この過不足のない沈黙を、私はもう、世界のなにより信頼している。
やがて彼は、窓の外の大結界を見たまま、言った。
「……リディエンヌ。すべて、終わったな」
「はい。……全部、終わりました」
「なら」
彼が、こちらを向いた。
金の瞳に、燭台の火と、決意の色。
そして戦神と呼ばれた男は、私の前に、ゆっくりと片膝をついた――あの告白の夜と同じ、けれどまったく違う熱を持った、騎士の礼の形に。
「終わった夜に、始まりの話をしたい。……この国で、いちばん重い問いを、君に」




