第40話 返していただきます
判決から七日後、和平の批准書が両国の間で交わされた。
調印式の毒も、法廷の醜聞も乗り越えて、条約はむしろ強くなった。共通の敵ほど、二つの国を近づけるものはない。ザイデルン帝国には両国連名の抗議と証拠の写しが叩きつけられ、帝国は例によって「一商会の暴走」と切り捨てたが、周辺国の目は、もう誤魔化せない。あの国の「筋書き」は、少なくともこの国境では、二度と書けない。
そして批准の翌日――砦の一室で、もうひとつの儀式が行われた。
返還の儀。
「手順を、ご説明しますでな」
モルデン翁が、契約魔法の陣を検めながら言った。
「宿主の内に眠る初魔力を、契約の言葉で解き、元の主へ返しまする。要るものは三つ。宿主の同意。返し先の受領。そして――両名の、偽りなき意思。契約魔法は、嘘の上では動きませぬ」
陣の向こうに、ヴィンセルが立っていた。
この儀式は、彼の申し出だった。判決の後、彼は正式の書面で願い出たのだ。罪人の家門の者として多くは望まない、ただ、返すべきものを返す機会だけを賜りたい、と。
「……始める前に、ひとつだけ、聞いてほしい」
陣を挟んで、彼は言った。
「謝罪はしない。……いや、違う。謝罪では、足りない。九年ぶんの謝罪に足りる言葉を、俺は持っていない。探したが、なかった。だから」
彼は、陣の中央に膝をついた。
「言葉の代わりに、これを返す。九歳の君が、何の見返りもなく俺の命に注いでくれたものを。九年、返しもせず、礼も言わず、あまつさえ君を斬る刃にまでしたものを。……受け取って、ほしい」
「ええ」
私は、陣の反対側に立った。
感慨は、思ったより、なかった。憎しみも、もうなかった。目の前の男は、ただの返済者だった。そしてこれは、ただの回収だった。九年延滞した貸付の、利子のつかない元本の。
「――返していただきます」
私は、手を差し出した。
「あなたに預けたもの、全部」
モルデン翁の詠唱が、始まった。
契約の言葉が陣を巡り、光が立ち上がる。ヴィンセルの胸の奥から――銀色の、小さな光が、ゆっくりと引き出されていった。九年間、彼の中で眠っていた、九歳の私のいちばん温かいもの。
光は、宙をわたって、私の胸に、還ってきた。
「…………っ」
息が、詰まった。
温かい、というより、懐かしかった。長い旅から帰ってきた何かが、体の中の空っぽだった場所に、音もなく収まっていく。堰き止められていた水路の、堰そのものが、砂の城のように崩れて溶けていくのが分かった。
そして――左肩に、熱が灯った。
「……おお」
モルデン翁が、声を上げた。
法廷の検分官が、居合わせた学士たちが、いっせいに息を呑んだ。
私の左肩に、銀の紋様が、浮かび上がっていた。
九歳の春に消えて、九年間、薬草のインクでしか存在できなかったもの。母が「ごめんね」と泣きながら描き方を教えてくれたもの。聖水に流されて、衆目の前で私の名誉ごと床に落ちたもの。
それが今、本物の光で、そこにあった。
「器が、元の形に戻りましたのじゃ」
翁の声が、震えていた。
「初魔力の返還、成立。……妃殿下。あなた様は今この瞬間から、あの国の言葉で言うところの――『未交換』でございますよ」
九年遅れで、還ってきた「純潔」。
もう、この国では何の意味も持たない印。祖国でだけ、女の一生の値札にされる印。……それでも、涙が滲んだのは、印そのもののためではなかった。これは、九歳の私が取り戻した、九歳の私自身だった。誰かに勝手に値札を貼られる前の、まっさらな。
*
一方、陣の向こうで。
ヴィンセルが、よろめいた。
膝をついたまま、彼は自分の両手を見下ろしていた。開いて、閉じて、また開いて――何かが決定的に軽くなった手を、確かめるように。
「……これ、は」
「共鳴が、消えましたのでな」
モルデン翁が、事務的に告げた。
「卿の内に他人の魔力が宿っておった九年間、卿の膂力と剣筋には、その共鳴の下駄が履かされておりました。……本日只今より、卿の武は、卿ご自身のぶんだけにございます」
勲一等の剣。戦神に七合粘った騎士。その武勇の一部は、斬られた側の女が九歳の日に注いだ魔力の、知らない加護だった。
彼は、笑った。
乾いた、小さな笑いだった。
「……そうか。それも、あなたのものだったのか」
恩人も。恋も。憎しみも。功績も。剣の冴えまで。
全部を差し引いた残りの、素の自分の重さを、彼はこれから、初めて背負って生きていく。家門は連座で没落し、婚約者だった女は贖罪院に消え、社交界に彼の席はもうない。それでも彼は生きていく。それが判決だった。死よりも長い、彼のための判決が、これだった。
*
儀式の後、砦の廊下で、父が待っていた。
国王ヴァルテール。判決の日からこちら、十も老け込んだ顔で、供も連れずに。
「……リディエンヌ」
「陛下」
「陛下、はよせ。……いや」
父は、首を振った。
「今さら父と呼べという資格も、ないな」
三年前、検分の壇上で目を逸らした人。娘の敵国行きを「聞き分けがいい」と安堵した人。呪いに曇らされていたのは息子への目だけで、娘たちを見なかったのは、この人自身の罪。
父は、深く、頭を下げた。
国王が、誰かに頭を下げるところを、私は生まれて初めて見た。
「すまなかった。……許してくれとは、言わん。ただ、言わせてくれ。すまなかった。おまえにも、オーレリアンにも、ルティアにも……エルヴィーネにも」
沈黙が、廊下に積もった。
私は、この瞬間を、二つの人生で何度想像しただろう。父が頭を下げる日を。溜飲が下がるはずだった。勝利のはずだった。……実際に来てみれば、それは、ただ静かなだけの光景だった。
「――お顔を、お上げください」
私は、言った。
「率直に申し上げます。あなたを許す日は、来ません」
父の肩が、揺れた。
「九歳の私にも、十五歳の私にも、あなたが必要でした。あなたは一度も、来なかった。それは呪いのせいではありません。……ですから、許しません。生涯」
「……ああ」
「ただ」
私は、息をついた。
「恨む時間も、差し上げない。私のこれからの時間は、全部、私が幸せになるために使います。あなたを恨む一刻も、もう、もったいない。……あなたはあなたの残りの時間で、兄様の治世の礎になってください。それが、あなたにできる唯一の償いです」
父は、長いあいだ黙って、それから、もう一度だけ深く頭を下げて、去っていった。
その背中を見送っていると、廊下の向こうから、慌ただしい足音が近づいてきた。
ルティア付きの看護の女官が、真っ青な顔で。
「妃殿下……! ルティア様が、ルティア様がっ……!」
――廊下の先で。
車椅子から崩れ落ちた小さな体を、兄が抱き上げるのが見えた。




