第39話 聖水
検分の要求は、法廷を二度、静まり返らせた。
一度目は、その意味が分からずに。
二度目は、その意味が分かって。
「……被告リュシオラに対する、検分の儀を要求される、と?」
「はい、大法官様」
私は、枷の義妹を見た。
「三年前、私は『清浄の祈り』と偽られて壇に立たされ、衆目の中で聖水を浴びました。……本日は偽りなく、正式な訴えとして要求いたします。被告リュシオラの紋様には、偽装の疑いがある。この法廷の証拠として、検分を」
ざわめきの中、リュシオラが顔を上げた。
血の気のない顔で、それでも彼女は笑おうとした。
「な……にを、仰るの、お姉様。わたくしの紋様は、社交界の誰もが見て……わたくしは、あなたと違って、清らかな……」
「ならば、聖水は怖くないはずよ」
三年前、あなたが私に言わせたかった台詞を、そっくり返すわ。
*
検分の支度は、粛々と整えられた。
銀の水盤。祖国の神殿から随行していた検分官。この法廷は両国合同――誤魔化しのきく身内の儀式は、もうどこにもない。
枷を外されたリュシオラが、法廷の中央に立たされた。
検分官の手が、彼女の左袖を、肩まで割り開く。
白い肩に、銀の紋様があった。精緻で、美しく、完璧な――完璧すぎる紋様が。
「……検分を、執り行う」
柄杓が、聖水を掬った。
リュシオラの目が、法廷を泳いだ。母を、出口を、味方を探して、どこにも見つけられずに。その目の動きを、私は知っていた。三年前の壇上で、同じ動きをした目を、私はひとつだけ持っているから。
聖水が、肩に落ちた。
一瞬の、静寂。
それから――銀の線が、にじんだ。
精緻な紋様の輪郭が溶けて、銀色の滴になって、鎖骨を伝い、白い床へ、ぽた、ぽた、と落ちていった。
三年前と、寸分違わない光景だった。
違うのは、壇の上に立つ者と、それを見ている私の場所だけ。
法廷は、悲鳴とも溜息ともつかないどよめきに呑まれた。祖国の傍聴席――三年前、大聖堂で「欠けた器」と囁いた口々が、今、同じ形に開いたまま、凍りついていた。
「い、いや……ちがう、これは、ちがうの……」
リュシオラが、濡れた肩を押さえて後ずさる。
「検分官。付言いたします」
私は、静かに言った。
「いま床に流れたインクを、採取なさって。……配合は、銀盃草が三、月見草の油が一。先の王妃エルヴィーネの日記に記された配合と、同一のはずです」
検分官が床の滴を検め――頷いた。
「一致、いたします」
「この配合を知る手段は、世界にふたつしかありません。母から直接教わるか。……母の日記を、読むか」
視線が、法廷中から、被告席の母娘に突き刺さった。
盗んだ日記で姉の秘密を暴き、盗んだ日記の配合で自分の秘密を隠した。九年の悪事の入り口と出口が、同じ一冊の日記で塞がった瞬間だった。
「では――被告リュシオラの初魔力は、いつ、誰に?」
大法官の問いに、答えたのは検察側だった。捕縛したザイデルン工作員の供述書が、読み上げられる。
『……被告は二年前、帝国への忠誠の証として、連絡役たる工作員に初魔力を捧げた。以後の通信と亡命の保証は、この「契約」を担保に……』
内通の、証文代わりの純潔。
姉を「欠けた器」と吊るした女の紋様の下から出てきたのは、敵国の工作員に捧げられた、空の器だった。
リュシオラは、もう何も言わなかった。床にへたり込んで、流れ落ちた自分の紋様の跡を、ただ見ていた。
*
「――発言を、許可願いたい」
そのとき、護衛騎士の列から、声がした。
ヴィンセルだった。
彼は青ざめたまま、けれど今日初めて、まっすぐに顔を上げて、法廷の中央へ歩み出た。
「検分官殿。……俺の検分も、お願いしたい」
法廷が、ざわ、と揺れた。
「グランハルト卿。あなたは被告では」
「分かっています。それでも」
彼は、自分の左の袖を、肘まで捲った。
剣胼胝の浮いた、騎士の腕。そこに――紋様は、なかった。聖水を待つまでもなく、最初から、何も描かれてすら、いなかった。
「……俺の初魔力は、とうの昔に失われている。捧げた相手は――リュシオラ王女だ」
どよめきが、爆ぜた。
「命の恩人と信じていた。九年前、俺を救ってくれた人だと。だから、この人にすべてを返すのだと思って……捧げた。誰にも言わなかった。言えば彼女の名誉に関わるから、と」
彼の声は、震えて、掠れて、それでも止まらなかった。
「三年前の検分の日。リディエンヌ様は俺に言った。『あなたと交換すれば、証明できる』と。……俺は、断った。俺にはもう、返すものがなかったからだ。それを言えば、彼女の――恩人だと信じていた人の秘密まで、暴かれると思ったからだ」
彼は、その場に膝を折った。
騎士の礼ではなかった。ただ、立っていられなくなった男の膝だった。
「俺は……守ったつもりだった。恩人を。愛を。名誉を。……全部、守る相手を、間違えていた。本物の恩人を衆目の前で見殺しにして、偽物の秘密を九年、後生大事に……っ」
言葉は、そこで崩れた。
法廷は、静まり返っていた。軽蔑とも同情ともつかない、重い沈黙だった。彼の告白は、彼を救わない。ただ、罪を自分の口で認めただけだ。けれどそれは、この九年で彼がした、たったひとつの正直な行いでもあった。
*
判決は、日暮れ前に下りた。
「被告グリゼルダ。先の王妃殺害、王族への呪詛、および国家反逆。すべての訴因につき、有罪。両国合意のもと――極刑とする」
継妃は、最後まで背筋を伸ばしたままだった。ただ、退廷の間際、一度だけ振り向いて、私を見た。何かを言いかけて――やめた。あの女が生涯で唯一、言葉を呑んだ瞬間だった。
「被告リュシオラ。国家反逆への加担、大公妃殺害未遂、ならびに数々の謀計につき、有罪。王族籍を剥奪。全財産を没収。……終身、北の贖罪院にて、その生を終えるものとする」
北の贖罪院。
訪問者はなく、鏡はなく、名を呼ぶ者もいない場所。社交界の視線を糧に生きてきたあの子にとって、それは処刑よりも長い、たったひとつの罰だった。
引き立てられていく義妹が、最後に、掠れた声で言った。
「……最初から」
空色の目が、私を見た。獣の色も、涙の芝居も、もう何もない、空っぽの目だった。
「最初から、あんたには……勝てなかったのね」
私は、答えなかった。
勝ち負けの話では、最初からなかったのだ。あなたがそれを最後まで分からなかったことが、あなたの九年のすべてだった。
*
閉廷の鐘が鳴り、人の波が動き始めた法廷の隅で、ヴィンセルが、まだ膝をついたままでいた。
私はその横を、通り過ぎる。
立ち止まるつもりは、なかった。けれど彼が、床を見たまま、譫言のように呟いたのが聞こえた。
「……俺は、何に……何のために、九年……」
だから、一言だけ。
二つの人生ぶんの、餞別を置いていくことにした。
「――ご安心を」
彼が、顔を上げた。
「枷は、外れました」
若葉色の目が、大きく見開かれた。
どこかで聞いた言葉だ、という顔だった。いつ、どこで、誰に――思い出せるはずがない。あれはあなたが、死んだ従者にだけ漏らした言葉。この世界のどこにも、もう存在しない夜の言葉。
彼は生涯、この既視感の出所を探し続けるだろう。
見つからないことだけが、私からあなたへの、最後の慈悲よ。
法廷の扉を抜けると、廊下の夕陽の中に、ラグヴァルドが立っていた。
何も言わず、手だけを差し出してくる。
私はその手を取って――九年ぶんの息を、ようやく、全部吐き出した。




