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敵国に嫁いだ長女は振り返らない  作者: 鷹居鈴野


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第35話 幕間・戦神の夜(※ラグヴァルド視点)

 眠れない夜、というものを、俺は長らく知らずに生きてきた。


 戦場では眠れる時に眠るのが兵の技術で、玉座ぎょくざでは眠れない理由を作らないのが君主の技術だ。どちらも身につけて、戦神などという大仰な名で呼ばれて、俺の夜はいつも静かだった。


 法廷を明日に控えた、この夜までは。


 城壁の上を、ひとりで歩く。眼下の離宮に、灯りがひとつ。妻の部屋だ。証拠の目録を検め終えて、今ごろは妹君の寝息を確かめてから、ようやく休む頃だろう。あの人の一日の順番は、いつもそうだ。自分のことが、必ず最後に来る。


 ――リディエンヌ。


 いつからだったのかと、時々考える。


 考えて、いつも答えが出ない。


 *


 最初の日のことは、よく覚えている。


 敵国から来る花嫁。和平の道具。俺は歓迎しないと言い、公正には扱うと言った。我ながら氷のような口上だったと思う。値踏ねぶみみするつもりだった。祖国に泣いて帰るか、閨で懐柔しにかかるか、どちらかだろうと踏んでいた。


 あの人は、どちらもしなかった。


『公正こそ、私が生まれてから今日まで、いちばん恵まれなかったものですので』


 あのとき俺は、値踏みされていたのが自分のほうだと、まだ気づいていなかった。


 毒の濡れ衣を着せられた朝も、覚えている。並の姫なら泣くか喚くかする場面で、あの人は自分の部屋の封印を求めた。潔白を言い立てるのではなく、潔白が勝手に証明される手順を先に組む――あれは、頭の良さではない。傷の数だ。ああいう手順は、罠に嵌まって全部を失ったことのある人間にしか、組めない。


 この女は、どれほどの罠を歩いてきたのか。


 そう思った日から、俺の目は、あの人を追うようになっていた気がする。


 *


 単身で敵国に来た妻は、しかし、祖国を売らなかった。


 これが俺には、いちばん堪えた。


 和平交渉の卓で、あの人は祖国の手の内を晒す。塩の吹っかけ方も、染料の急所も、容赦なく。だが同時に、祖国の兵站の弱みを軍事転用しようとした俺の参謀を、真正面から遮ったのもあの人だ。


『それは和平のための情報ではなく、戦のための情報です。私は後者を差し上げるつもりは、生涯ございません』


 国に捨てられた女が、国を守る線を、一歩も譲らない。憎んでいい国のために、憎しみと義理を分けて立つ。……言葉にすれば簡単だが、やれる人間を、俺は他にひとりも知らない。


 両方の国のために働き、どちらの国にも媚びない。あの背筋を、俺の宮廷は最初、嗤った。今では外務の連中が、こっそり「うちの卿より交渉が硬い」と唸っている。


 *


 冬の大嵐の夜のことも、書き残しておくべきだろう。


 『盾』の北の一角が、軋んだ夜だ。百年に一度の規模の嵐で、結界の糸が三筋切れ、術者たちが継ぎにかかったが、守護系の魔力が足りなかった。国境の村を、避難させるかどうかの瀬戸際だった。


 あの人は、報せを聞いて、寝間着の上に外套だけ羽織って観測塔へ来た。


『私の糸を、使ってくださいませ』


 止めた。堰き止められた力では、命に障ると。モルデンも止めた。あの人は聞かなかった。


『殿下。あの結界の向こうには、祖国の村もあるのです。……両方の国の子どもが、今夜眠れるかどうかの話です。私の肩書きも堰も、後回しでよろしいでしょう』


 朝までかかって、糸は継がれた。細い、細い銀の糸で。嵐が抜けた明け方、観測塔の床に座り込んで眠るあの人に外套をかけながら、俺は自分の中の何かが、音を立てて場所を変えるのを聞いた。


 戦神と呼ばれる男が守ってきたこの国の『盾』に、あの夜から、あの人の糸が三筋、編み込まれている。


 国の結界に自分の糸を残した妃など、建国以来ひとりもいない。


 *


 いつからだったのか、やはり分からない。


 初対面の口上か。封印を求めた朝か。九歳の告白に膝が折れた夜か。嵐の観測塔か。震える手で「お願いします」と言って、生まれて初めて魔力を受け取った、あの夜明けか。


 分からないまま、気づけばこうなっていた。


 執務の合間に、あの人の予定を確かめる癖がついた。あの人の淹れさせる茶の銘柄を、厨房が俺に確認するようになった。刺客の刃があの人の三歩内に入った日、俺は生涯で初めて、戦場の外で膝が笑うのを知った。


 ――失って痛いものを持たないことが、強さだと思っていた。


 急所のない男。それが戦神の正体で、俺の作り方だった。両親を早くに亡くし、玉座を継ぎ、国そのものの他に守るものを持たずに来た。合理的だった。身軽だった。


 今の俺には、急所がある。


 月白の髪と、菫の目をした、たったひとつの急所が。


 妙なもので――急所を得てから、俺は前より強い。理屈には合わん。合わんが、そうなのだから仕方がない。守るものの輪郭がはっきりしている人間は、剣の置き場所に迷わないというだけの話かもしれん。


 *


 明日、あの人は法廷に立つ。


 九年、あの人を焼き続けた国の前に。娘を売った父親と、母を殺した女と、姉を吊るした妹と、命を救われて背を向けた男の前に。


 俺にできることは、多くない。


 証拠は揃えた。舞台も整えた。だが明日の戦は、あの人自身の戦だ。剣も結界も要らない。あの人が九年と……いや、あの人の言う「二つの人生」のすべてを懸けて、自分の名前を取り戻しに行く戦だ。


 だから俺は、隣に立つ。


 口は挟まん。手も出さん。ただ、世界中があの人を疑った日々と同じ配置に、二度とならないように――今度は隣に、信じる者がひとり、立っているというだけのことを、あの法廷の全員の目に焼きつける。


 城壁の風が、夜明けの匂いに変わり始めた。


 離宮の灯りが、ふ、と消えた。


 眠ったか。……よし。


「――待っていろ」


 誰にともなく、俺は呟いた。祖国とやらに。九年ぶんの帳簿に。あの人から奪っていった、すべてのものに。


「明日、全部、取り立てる」

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