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敵国に嫁いだ長女は振り返らない  作者: 鷹居鈴野


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第34話 その死は、前にも見ました

「――死んだと見せて、逃げる。あの子の、最後の切り札です」


 軍議の卓に、私は一枚の地図を広げた。


「一周目……いえ、祖国で私たちが掴んでいた情報では、ザイデルンの工作員には決まった『退き方』があります。死の偽装、外套などの遺留品、そして三日以内の、水路での回収。溺死体は上がらなくても誰も驚かない。探索が緩んだ頃、荷に紛れて国境を越える」


「回収役は、グラウ商会か」


「はい。川を下った先の――ここ。港湾都市の、商会の倉庫番。『葡萄酒の樽に、人ひとり分の空きを』と注文を受けていた、あの倉庫です」


 冬の初めに監視網が拾い上げた、あの奇妙な注文。あれは私を攫うためのものだと思っていた。違う。あれは最初から、帰りの切符だった。任務が成功しても失敗しても、あの子がザイデルンへ戻るための。


「……読みに、穴はないか」


 ラグヴァルドの問いに、答えたのは寝台から運ばれてきた車椅子の、ルティアだった。


「ありません。付け加えるなら――回収の合図は、洗濯物です。倉庫の窓に白い敷布が三枚干されたら『回収済み』、二枚なら『待て』。……祖国の質屋の裏で、同じ符丁ふちょうが使われていました。兄様と一緒に、半年見張った符丁です」


「……大公妃と、その妹君は」


 ヘルガ将軍が、半ば呆れ、半ば感嘆の顔で言った。


「うちの防諜部より、よほど手際がいいな」


「恐れ入ります。……姉妹そろって、育ちが悪いもので」


 *


 網を張って、二日。


 増水した川の、下流の葦原。夜明け前の靄の中を、ずぶ濡れの外套がひとつ、岸を這い上がった。


 三日は水に潜んでいたはずの体で、それでも足取りは確かだった。仮死の薬と、水中で息を繋ぐ魔道具。ザイデルン仕込みの「死に方」は、なるほど完璧だった。彼女は葦を分け、約束の岩陰へ辿り着き、そこに待つはずの回収役の姿を認めて――安堵に、肩の力を抜いた。


「遅かったじゃない。凍え死ぬかと思ったわ。早く、樽の支度を――」


 回収役が、振り向いた。


 その顔は、グラウ商会の倉庫番ではなかった。


 倉庫番は前夜のうちに捕えられ、今ごろは洗いざらい歌っている。岩陰で外套の火を焚いて待っていたのは、近衛の女兵士。そして葦原の四方から、音もなく人影が立ち上がる。


「な……っ」


 リュシオラは、身を翻そうとした。


 その爪先の前に、銀の光が走った。


 葦原一帯に張り巡らせておいた私の結界が、静かに、おりの形に組み上がっていく。冬の靄の中で、それは夜明けの色をしていた。


「――お久しぶり。三日ぶりかしら」


 私は、靄の向こうから歩み出た。


 彼女の顔が、こんな時でなければ滑稽なほど、ゆっくりと歪んでいった。驚愕から、理解へ。理解から、絶望へ。


「どう、して……あんたが、ここに……なんで、わたくしの逃げ道が、わかったのよ……」


「言ったでしょう」


 私は、妹の三歩手前で足を止めた。


「奪われた側は、奪った側の手口を、一生忘れないの。……あなたの偽装死の段取りを、私は隅から隅まで知っているわ。車輪の仕掛けも、外套の流し方も、白い敷布の枚数も」


 なぜなら、あなたは前にも一度、死んでみせたから。


 敵国の土の上で。戦争の口実になるために。夫だった人が、あなたの空の墓に祈っていたことも知らないで。


「……その死は、前にも見ました」


「なに、を……」


「あなたには一生分からなくていいわ。――ただ、これだけは覚えておいて」


 結界の檻が、閉じた。


 銀の光の格子越しに、私は妹に、最後の家族の言葉を告げた。


「一度目の死は、あなたの筋書きだった。二度目の死は、あなたの逃げ道だった。……三度目は、ないの、リュシオラ。あなたはこれから、生きて、法廷に立つ。生きて、全部の証拠と向き合う。あなたが盗んだ九年に、生きて、値段を払うのよ」


 死は、もうあなたの道具にはならない。


 それがタリサの命に、私が付けられる、精一杯の値段だった。


 *


 護送の列が靄の中を戻っていく。今度の護送に、橋はない。車輪の仕掛けを検める整備士と、川を知り尽くした近衛と、そして彼女の魔力を封じる枷。


 ラグヴァルドが、馬を寄せてきた。


「……終わったな。網のほうは」


「ええ。残るは、法廷だけ」


「祖国から最後の返答が届いた。国王の署名入りだ。――合同法廷の開廷を、承認する。継妃けいひグリゼルダの身柄は、昨夜のうちに王宮で押さえられた。兄君の手でな」


 ついに。


 九年と、二つの人生を懸けた盤面の、最後の局面が来る。


 東の空で、靄が金色に破れ始めていた。祖国のある方角だった。あの空の下で、母の日記と、焼け焦げた髪飾りと、聖水の水盤が、出番を待っている。


「行きましょう、殿下」


 私は、夜明けに向かって言った。


「――全部、取り戻しに」

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