第33話 毒杯、ふたたび
調印式は、真昼の大広間で始まった。
両国の旗が並んで垂れ、正装の要人たちが居並ぶ。長い前文が読み上げられ、条項がひとつずつ確認されていく。祖国の外務卿の声は淡々と、けれどどこか感慨を滲ませて響いた。二つの国が剣を置くまで、一周目の世界では、何万の命が沈んだことか。
私は壇上の席で、背筋を伸ばしてそれを聞いていた。
完璧な大公妃の顔で。
――そして、完璧な餌の顔で。
式典の華である祝杯の儀は、調印の直後に来る。両国の君主と大公妃が、同じ酒を酌み交わす儀式。毒を入れるなら、そこしかない。配膳の列には、三日前から「洗い場の新入り」が組み込まれている。彼女が自分で志願し、彼女の思惑通りに承認された――こちらが、そう仕向けた通りに。
罠の中に、罠を掘る。
あの子が得意だった遊びを、今日はこちらがやる番だった。
*
調印の署名が、終わった。
拍手の中、祝杯の支度が始まる。銀盆に載った杯が、給仕の列を静々と渡ってくる。私の杯を運ぶのは、亜麻色に髪を染めた、小柄な下女。
伏せた睫毛。震えもしない指先。見事なものだ。
彼女の指が、袖口から杯の上を、羽根が掠めるように通った。
――今。
私は、扇を閉じた。
乾いた音が、ひとつ。
それが合図だった。給仕の列の前後を歩いていた「下働き」たちが――ヘルガ将軍麾下の精鋭たちが、一斉に動いた。銀盆が押さえられ、杯が確保され、彼女の両腕が、音もなく捻り上げられる。
悲鳴は、上がらなかった。
上げる暇を与えないのが、この国の近衛の仕事だから。広間の大半は、何が起きたかも気づかないまま、祝杯の遅れを訝しんだだけだった。
「――皆さま、そのままで」
ラグヴァルドが壇上から、静かに告げた。
「祝杯の前に、ひとつ。両国の門出に紛れ込んだ毒を、取り除く」
広間が、凍った。
確保された杯が検分の卓に運ばれ、モルデン翁が銀の匙を差し入れる。匙は、見る間に曇った。
「――鈴百合の根。致死量の、三倍にございますな」
どよめきが、波になって広間を渡った。祖国の使節団が青ざめ、この国の廷臣たちが色めき立つ。その混乱の中心で、捻り上げられた下女が、ゆっくりと顔を上げた。
染めた前髪の下から、空色の瞳が、まっすぐに私を射た。
ああ――その目。
被害者の顔も、可憐な妹の顔も、もう塗られていない。恐怖と憎悪だけで練り上げた、剥き出しの目。あの子の本当の顔を、私は二つの人生で、初めて正面から見た気がした。
「……お姉様」
彼女は、嗤った。
「お姉様、お姉様、お姉様……! どうして、いつもそうなの」
いつも。
その一言に、彼女の九年が詰まっていた。
「階段も、お茶も、恋文も、ドレスも、刺客も、ぜんぶ、ぜんぶ躱して……! ねえ、どうして? どうしてあんたばっかり、何をされても倒れないの? どうしてあんたばっかり――選ばれるの!?」
広間中の目が集まる中で、彼女は叫んだ。もう取り繕う意味がないと悟った獣の、それは正直な咆哮だった。
「祖国での王女の座も! あの男も! この国の玉座の隣も! あんたは黙って立ってるだけで、全部、全部――わたくしは、必死で、必死で奪らなきゃ、何ひとつ……!」
「――リュシオラ」
私は、壇を降りた。
護衛が身構えるのを手で制して、捕えられた妹の、三歩手前まで。祖国の重さで言えば、近すぎる距離まで。
「ひとつだけ、間違いを正しておくわ。……私は、倒れなかったのではないの。倒れたのよ。あなたの階段で、あなたのお茶で、あなたの恋文で、あなたの聖水で――一度、全部に倒れて、全部を失った女が、ここにいるの」
あなたが知らない一周目の話を、あなたに分かる言葉で。
「その女が、どうしてもう一度立っているか、教えてあげましょうか。……奪われた側は、奪った側の手口を、一生忘れないからよ」
空色の目が、初めて揺れた。
私の中に何か得体の知れないものを見た、獣の怯みだった。
「連れて行きなさい」
私は背を向けた。それ以上、見る顔はなかった。
*
――だが、その夜。
牢に護送される途中の橋で、彼女は消えた。
護送馬車が川沿いの橋に差しかかったとき、車輪が仕掛けの音を立てて外れ、混乱の一瞬に、囚人は自ら欄干を越えたという。真冬の、雪解けで増水した激流へ。
「……飛び込んだ、だと?」
報告を受けたヘルガ将軍が、眉を寄せた。
「この時期の夜の川だぞ。四半刻で心の臓が止まる。自殺行為だ。翌朝、下流で女物の外套が見つかった。遺体は、まだ」
軍議の間が、重くなった。追い詰められた工作員の入水。誰もがそう受け取りかけた、その空気の中で――
私とルティアだけが、目を見合わせた。
車輪の仕掛け。夜の川。見つかる外套。見つからない遺体。
何もかも、知っている段取りだった。
「……いいえ、将軍。あの子は死んでいません」
私は、静かに言った。
「彼女は死ぬわ。――一周目と、同じ方法で」




