表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
敵国に嫁いだ長女は振り返らない  作者: 鷹居鈴野


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
33/43

第33話 毒杯、ふたたび

 調印式は、真昼の大広間で始まった。


 両国の旗が並んで垂れ、正装の要人たちが居並ぶ。長い前文が読み上げられ、条項がひとつずつ確認されていく。祖国の外務卿の声は淡々と、けれどどこか感慨を滲ませて響いた。二つの国が剣を置くまで、一周目の世界では、何万の命が沈んだことか。


 私は壇上の席で、背筋を伸ばしてそれを聞いていた。


 完璧な大公妃の顔で。


 ――そして、完璧な餌の顔で。


 式典の華である祝杯の儀は、調印の直後に来る。両国の君主と大公妃が、同じ酒を酌み交わす儀式。毒を入れるなら、そこしかない。配膳の列には、三日前から「洗い場の新入り」が組み込まれている。彼女が自分で志願し、彼女の思惑通りに承認された――こちらが、そう仕向けた通りに。


 罠の中に、罠を掘る。


 あの子が得意だった遊びを、今日はこちらがやる番だった。


 *


 調印の署名が、終わった。


 拍手の中、祝杯の支度が始まる。銀盆に載った杯が、給仕の列を静々と渡ってくる。私の杯を運ぶのは、亜麻色に髪を染めた、小柄な下女。


 伏せた睫毛。震えもしない指先。見事なものだ。


 彼女の指が、袖口から杯の上を、羽根が掠めるように通った。


 ――今。


 私は、扇を閉じた。


 乾いた音が、ひとつ。


 それが合図だった。給仕の列の前後を歩いていた「下働き」たちが――ヘルガ将軍麾下の精鋭たちが、一斉に動いた。銀盆が押さえられ、杯が確保され、彼女の両腕が、音もなく捻り上げられる。


 悲鳴は、上がらなかった。


 上げる暇を与えないのが、この国の近衛の仕事だから。広間の大半は、何が起きたかも気づかないまま、祝杯の遅れをいぶかしんだだけだった。


「――皆さま、そのままで」


 ラグヴァルドが壇上から、静かに告げた。


「祝杯の前に、ひとつ。両国の門出に紛れ込んだ毒を、取り除く」


 広間が、凍った。


 確保された杯が検分の卓に運ばれ、モルデン翁が銀のさじを差し入れる。匙は、見る間に曇った。


「――鈴百合の根。致死量の、三倍にございますな」


 どよめきが、波になって広間を渡った。祖国の使節団が青ざめ、この国の廷臣たちが色めき立つ。その混乱の中心で、捻り上げられた下女が、ゆっくりと顔を上げた。


 染めた前髪の下から、空色の瞳が、まっすぐに私を射た。


 ああ――その目。


 被害者の顔も、可憐な妹の顔も、もう塗られていない。恐怖と憎悪だけで練り上げた、剥き出しの目。あの子の本当の顔を、私は二つの人生で、初めて正面から見た気がした。


「……お姉様」


 彼女は、嗤った。


「お姉様、お姉様、お姉様……! どうして、いつもそうなの」


 いつも。


 その一言に、彼女の九年が詰まっていた。


「階段も、お茶も、恋文も、ドレスも、刺客も、ぜんぶ、ぜんぶ躱して……! ねえ、どうして? どうしてあんたばっかり、何をされても倒れないの? どうしてあんたばっかり――選ばれるの!?」


 広間中の目が集まる中で、彼女は叫んだ。もう取り繕う意味がないと悟った獣の、それは正直な咆哮だった。


「祖国での王女の座も! あの男も! この国の玉座ぎょくざの隣も! あんたは黙って立ってるだけで、全部、全部――わたくしは、必死で、必死で奪らなきゃ、何ひとつ……!」


「――リュシオラ」


 私は、壇を降りた。


 護衛が身構えるのを手で制して、捕えられた妹の、三歩手前まで。祖国の重さで言えば、近すぎる距離まで。


「ひとつだけ、間違いを正しておくわ。……私は、倒れなかったのではないの。倒れたのよ。あなたの階段で、あなたのお茶で、あなたの恋文で、あなたの聖水で――一度、全部に倒れて、全部を失った女が、ここにいるの」


 あなたが知らない一周目の話を、あなたに分かる言葉で。


「その女が、どうしてもう一度立っているか、教えてあげましょうか。……奪われた側は、奪った側の手口を、一生忘れないからよ」


 空色の目が、初めて揺れた。


 私の中に何か得体の知れないものを見た、獣の怯みだった。


「連れて行きなさい」


 私は背を向けた。それ以上、見る顔はなかった。


 *


 ――だが、その夜。


 牢に護送される途中の橋で、彼女は消えた。


 護送馬車が川沿いの橋に差しかかったとき、車輪が仕掛けの音を立てて外れ、混乱の一瞬に、囚人は自ら欄干を越えたという。真冬の、雪解けで増水した激流へ。


「……飛び込んだ、だと?」


 報告を受けたヘルガ将軍が、眉を寄せた。


「この時期の夜の川だぞ。四半刻で心の臓が止まる。自殺行為だ。翌朝、下流で女物の外套が見つかった。遺体は、まだ」


 軍議の間が、重くなった。追い詰められた工作員の入水。誰もがそう受け取りかけた、その空気の中で――


 私とルティアだけが、目を見合わせた。


 車輪の仕掛け。夜の川。見つかる外套。見つからない遺体。


 何もかも、知っている段取りだった。


「……いいえ、将軍。あの子は死んでいません」


 私は、静かに言った。


「彼女は死ぬわ。――一周目と、同じ方法で」

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ