第32話 潜入
「――城の総点検は、しない」
伝書鳩の報告を前に、私はそう言った。
警務卿が、目を剥いた。
「妃殿下。城内に賊が潜んでいる可能性がある以上、洗い出しが定石では」
「洗い出せば、逃げます。あの子は、逃げ足だけは誰より速い。……それに、今ここで捕えても、罪状は『偽名での入国』ひとつ。それでは足りないのです」
足りない。
タリサの命の分にも、ルティアの涙の分にも、まったく、足りない。
「泳がせて、狙いを吐き出させます。網は、それからで」
ラグヴァルドが、卓の向こうで頷いた。
「妃の言う通りにしろ。……ただし護衛の目は三重にする。それと、リディエンヌ」
「はい」
「見つけても、ひとりで近づくな。約束しろ」
「……善処しますわ」
「リディエンヌ」
「はい、約束します」
この人は最近、私の「善処」が信用ならないことを学習してしまった。
*
彼女を見つけたのは、三日目の朝だった。
探し当てた、というより――匂いが、教えてくれた。
調印式の会場になる大広間。飾りつけの下働きたちが行き交う中を、私は式次第の確認という名目で歩いていた。花器の位置、旗の垂れ方、卓の配置。何気なく通り過ぎた廊下の角で、それは鼻先を掠めた。
重く、甘い、異国の香。
継妃の私室に染みついていた、あの匂い。石鹸で洗っても、下働きの粗末なお仕着せに着替えても、髪の奥に残る香りまでは消せない。あの母娘が生まれつき纏ってきた匂いは、あの子自身にはもう、分からないのだろう。
足を止めずに、視線だけを流す。
廊下の先で、洗い場の桶を抱えた小柄な下女が、掃除女たちに交じって歩いていた。
亜麻色に染めた髪。地味に作った顔。うつむき加減の、完璧に「映らない」歩き方。ルティアが十四年かけて身につけた技術を、あの子は形だけ、上手に真似ていた。
――リュシオラ。
見間違えるはずがない。髪を染めても、顔を作っても、骨格と仕草は姉妹のものだ。同じ屋敷で、同じ廊下を、十年近くすれ違って育った。
胸の奥で、何かが軋んだ。
憎しみでは、なかった。もっと厄介な、名前をつけたくない何かだった。私を吊るし、タリサを殺し、兄に毒を盛った女。それでも視界の端のあの姿に、一瞬だけ、幼い日の残像が重なる。継妃の後ろに隠れて、初めて王宮に上がってきた日の、不安そうな九歳の……
――やめなさい。
私は残像を、静かに切り捨てた。
もう情けはかけないと、タリサの棺に誓った。あの子が越えた線の向こうに、幼い日の残像を持ち込んではいけない。それは死んだ人たちへの、裏切りになる。
私は何も見なかった顔で、大広間の点検を続けた。
*
「――洗い場の新入り。三日前から。保証人は市場の織物商」
その夜の軍議で、ヘルガ将軍が調べを並べた。
「織物商の仕入れ先を辿ると、例の鷲に行き着く。寝床は使用人棟の三階。夜中に二度、大広間の下見をしている。……で、妃殿下。奴の狙いは、調印式の毒殺と見て良いんだな?」
「半分は」
「半分?」
私は、大広間の見取り図に指を置いた。
「毒殺は、手段です。目的なら、もっと確実で静かな方法がいくらでもある。なのにあの子は、わざわざ調印式の当日、両国の要人が揃う大広間を下見している。……この意味を、考えておりました」
指を、上座へ滑らせる。調印の卓。両国の旗。居並ぶ祖国の使節団と、この国の廷臣たち。
「調印式の壇上で、大公妃が毒に倒れる。祖国の目の前で、この国の落ち度で。――それが欲しいのです。私の死そのものではなく、五十人の証人の前で死ぬことが」
軍議の間が、静まり返った。
「殺すだけなら、和平は延期で済む。けれど衆人環視の毒殺なら、誰がどう取り繕っても、両国の信頼は二度と繋がりません。祖国は問責し、この国は疑われ、調印されかけた和平文書は、そのまま開戦の口実に裏返る」
「……一周目と、同じ筋書きだな」
ラグヴァルドが、低く言った。この場で「一周目」の意味を知るのは、彼とモルデン翁だけだ。
「ええ。あの子の……いえ、ザイデルンの脚本は、いつも同じ。死をひとつ、舞台の真ん中に置く。一度目は偽物の死で戦争を作った。今度は本物の死で作るつもり」
私は顔を上げて、軍議の面々を見渡した。
「ですから皆さま、狙いを読み違えないでくださいませ。――彼女の狙いは、私の命じゃない。……戦争よ」




