第31話 追う男
彼が接触してきたのは、調印式を三日後に控えた午後だった。
場所は、大公城の冬庭園。私は交渉資料を抱えて回廊を渡っていて、供は侍女がふたり。庭園の入り口に、護衛騎士の制服が立っていた。
「――リディエンヌ様。お話が、したい」
様、と来たか。
大公妃殿下、ではなく。あの頃の距離のままの呼び方で。
「グランハルト卿。護衛騎士が単身で大公妃に声をかけるのは、この国では大変な非礼にあたりますけれど」
「分かっている。……分かっているが、頼む。五分でいい」
憑かれた目が、私を見ていた。放っておけば、彼はもっと愚かな手段で接触を図るだろう。それは法廷前の盤面に、要らない波を立てる。
「……庭園の東屋まで。侍女は同席します。五分だけ」
*
冬枯れの東屋で、彼は立ったまま、しばらく口を開かなかった。
口を開いたとき、出てきたのは、挨拶でも詫びでもなかった。
「……あの夜会のあと、ずっと考えていた。考えて、調べて、眠れなくなった」
「何をです」
「銀の光だ」
彼の手が、胸元のお守りを握った。
「あなたの結界の色を、この国の人間は銀だと言う。観測記録も見せてもらった。月光の銀だと書いてあった。……俺を救った、あの光と同じ色だ」
「銀の結界など、珍しくもありませんでしょう」
「フェルゼン侯爵未亡人にも、話を聞いた」
声が、上ずっていた。
「あの魔獣の集いは、春だったと仰った。山桜の季節だったと。……リュシオラは、秋だと言ったんだ。紅葉と、木苺の話をした。俺はあのとき、細かいことだと聞き流した。命の恩人が、季節を忘れるはずがないのに」
ひとつずつ、欠片を並べていく。九年遅れの、答え合わせ。
「それから、これだ」
彼は、お守りの布を解いた。
焼け焦げた跡のある、小さな銀の髪飾り。母の形見。一周目の最後、腕の中で夫の遺言とともに受け取った、あの。
「この意匠を、調べた。銀細工の家紋。どこの家のものか、王都の細工師を三軒回っても分からなかった。だが四軒目の老職人が言ったんだ。『これは今の家紋簿にはない。先の王妃陛下の御生家の……』」
「グランハルト卿」
「あの日の少女は」
彼は、一歩踏み出した。
「あの日の少女は――君だったかもしれない。そうなんだろう。そうなんじゃないのか。なら、なぜ言ってくれなかった。なぜ九年も……いや、違う、俺が悪かったのは分かっている。検分の日も、婚約のことも、全部、俺は取り返しのつかないことを……だから」
彼の目に、あの光が灯った。
九歳の日から彼を焼き続けてきた、崇拝の光。宛先を書き換えて、もう一度燃え上がろうとする、あの。
「だから――やり直したい。真実を確かめて、償って、最初から。あなたが本当にあの日の人なら、俺は」
「そこまでですわ」
声は、自分でも驚くほど静かに出た。
「なぜ言ってくれなかったのか、と仰るの。……申し上げましたわ、九つのあの日に。あなたを助けたのは私だと。信じなかったのは、あなたです。初魔力をあなたに捧げたのだと申し上げたときも――信じなかったのは、あなたでした」
怒りは、湧かなかった。目の前の男が、あまりにも変わっていなかったからだ。一年経って、すべてを失って、それでもこの人の愛し方は同じだった。目の前の相手を見ないまま、頭の中の「恩人」に恋をする愛し方。
「ひとつ、教えてさしあげます。あなたが今なさっているのは、恋ではありません。答え合わせです」
「……なに?」
「九年前のあなたは、銀の光そのものに恋をなさった。光の主が誰かも確かめないまま、たまたま目の前にいた少女を『命の恩人』と決めつけて、九年間、想い続けた。……そして今、その少女が恩人ではなかったかもしれないと知って、慌てて本物の恩人を探していらっしゃる。見つかったら、今度はその人を、同じように想うおつもりなのでしょう」
相手の名前が、書き換わるだけ。
「あなたが恋してこられたのは、ずっと『命の恩人』という肩書きです。生身の相手では、ありません。九年前も――今も」
「ちがっ……俺は、真実を知りたいだけだ! あの日、俺を守ったのが君なら、君は俺を愛していたはずだろう。初魔力まで捧げてくれたんだ、そうだろう!? ……なら、俺と一緒に祖国へ戻ろう。今からでも、やり直せる」
「……何を、馬鹿なことを仰っているの。人妻を他国の男が連れ戻すなど、戦の口実にしかなりません。私は、和平のためにこの国へ嫁いでいるのですよ」
「真実?」
私は、彼の手の中の髪飾りを見た。九年、彼の胸元で戦場まで旅をした、私の落とし物を。哀しみに似た何かが、一瞬だけ胸をよぎって、消えた。
「真実なら、いずれ、しかるべき場所であなたの前に並びます。私の口からではなく、動かぬ形で。……ですからこれだけを、覚えてお帰りなさい」
息を、ひとつ。
「あなたが愛したのは、私ではありません。あなたが胸の中で育てた、幻想です。九年前も、今も。……そして私は今、生涯ただひとりと誓う国で、その契約の中におります。この国で人妻に『やり直したい』と告げる意味を、護衛騎士殿は学んでからいらっしゃるべきでしたわね」
彼の顔から、血の気が引いた。
東屋の入り口に、いつからいたのか――黒曜の外套が、立っていた。
*
「……余興に、付き合え。グランハルト卿」
ラグヴァルドの声は、恐ろしいほど平坦だった。
「調印式前の親善だ。両国の騎士の、模擬剣。……騎士なら、断るまいな」
断れるはずがなかった。半刻後、練兵場には両国の武官が集まり、親善試合の体裁だけは整えられていた。体裁だけは。
立ち会った誰もが、一合目で理解した。
これは親善ではない。
ヴィンセルは、弱くはない。祖国で勲一等を賜った剣だ。踏み込みは鋭く、剣筋は正確で――そして、それだけだった。ラグヴァルドは受けず、躱さず、ただ半歩の間合い操作だけで、彼の剣を全部、空振りさせた。戦神と騎士の間には、才能や鍛錬という言葉では埋まらない、断層のような差があった。
三合目で剣を弾き飛ばし、五合目で膝をつかせ、七合目――ヴィンセルの喉元に、木剣の先が止まった。
「――これは、君の国の作法で言う果たし合いではない」
ラグヴァルドは、静かに言った。
「ただの、調整だ。……身の程と、彼女との距離のな」
練兵場の誰にも、それ以上の説明は要らなかった。
膝をついたまま、ヴィンセルは動けずにいた。負けたからではない、と私には分かった。彼はたぶん、生まれて初めて「どうやっても届かないもの」を、その体で測ってしまったのだ。剣の話では、もう、なかった。
*
その夜、国境の検問所から、一羽の伝書鳩が城に届いた。
検問の記録に、引っかかりがあったという。三日前に国境を越えた、祖国の商家の後家。書類は完璧。人相書きにも該当なし。ただ、検問の女兵士が、妙なことをひとつ覚えていた。
――その後家の香水が、やけに甘かった、と。
重く、甘い、異国の香。
継妃の私室と同じ匂いを纏う女が、もう、この国の中にいる。




