第30話 使節団の名簿
祖国の使節団は、春の雪解けとともに到着した。
和平調印と、それに続く「両国合同の特別法廷」のための、五十名の大所帯。表向きの目玉は調印式で、法廷の件は、まだ両国の奥の奥だけが知る極秘事項だった。継妃の耳に入れば、証拠も証人も、国境を越える前に消される。
だから祖国側でこの計画を知るのは、たった三人。
解呪から目覚めつつある、父。忠誠の確かな外務卿。そして、湯治場から「快癒」して戻った兄。
ヴィンセル・グランハルトは、何も知らない護衛騎士の一人として、名簿に載っていた。
「……妙な人選と思ったが、裏が取れた」
出迎えの支度の合間に、ラグヴァルドが言った。
「奴を名簿にねじ込んだのは、継妃の筋だ。没落しかけの婿殿に『失地回復の好機』と囁いてな。……体のいい目付け役だろう。妃の様子、この国の内情、使節団の動き。奴の目で見させて、義妹経由で吸い上げる算段だ」
「あの人に、諜報が務まるとは思えませんけれど」
「務まらんさ。だから選ばれた。……本人に自覚のない駒がいちばん御しやすいことを、あの母娘はよく知っている」
ぞっとするほど、その通りだった。九年前から、あの母娘はずっとそうやって彼を使ってきたのだから。恋も、憎しみも、功績も、そして今度は、没落まで。
「会うのが、嫌か」
ふいに、ラグヴァルドが訊いた。
私は、少し考えて、正直に答えた。
「いいえ。……不思議なくらい、何も。ただ」
「ただ?」
「あの人が今どんな顔をしているのか、少しだけ、見ておきたいのです。……法廷で崩れる前の顔を」
「――ふ。悪い女だ」
「あなたの妻ですもの」
*
歓迎の宴は、大公城の大広間で開かれた。
祖国の宴と違って、この国の宴は着席の晩餐が主だ。長卓の上座に大公夫妻、両翼に両国の要人が並ぶ。私は大公妃として、つまりこの部屋の女主人として、上座にいた。
ヴィンセルは、護衛騎士の席次に従って、末席にいた。
一年ぶりに見る彼は、変わっていた。
赤金の髪は艶を失い、頬がこけ、若葉色の瞳の下に濃い隈がある。何より変わったのは、目つきだった。昔の彼の目は、疑うことを知らない、まっすぐで浅い目だった。今は違う。何かを探して、疑って、確かめずにいられない――憑かれた目。
その目が、宴の間じゅう、私を追っていた。
正確には、私の左肩を。
この国の正装は、肩を出す。紋様に何の意味もない国だから、隠す理由もない。私の左肩は、燭台の光の下に、何も描かれていないまま、ただそこにあった。
彼の国の物差しでは、ありえない光景だろう。「欠けた器」の烙印を、隠しもせず、恥じもせず、大公妃の正装で晒している女。しかもこの広間の誰ひとり、その肩を見咎めない。それどころか、廷臣たちは私に敬意を払い、外交官たちは私の一言に頷き、大公は――誰の目にも分かるやり方で、妻だけを見ている。
彼の世界の法則が、この広間では、ひとつも通用しない。
揺らぐがいいわ。
あなたが信じてきた物差しごと、揺らいでしまえばいい。
「――大公妃殿下に、祖国よりご挨拶を申し上げます」
宴の半ば、使節団が順に挨拶に立った。外務卿、書記官長、武官たち。やがて、彼の番が来た。
「……護衛騎士、ヴィンセル・グランハルトにございます。この度は……その……」
口上が、続かなかった。
三年前、大聖堂で「やめてくれ!」と叫んだ声と、同じ喉から出た声だった。あのときの彼は私から一歩退がった。今の彼は、退がる場所を探して、見つけられずにいる。
広間が、静かにざわめいた。
この国の宮廷は、全員が知っているのだ。大公妃の経歴も。祖国での検分も。「欠けた器」と書いてきた密告状も、それに大公がどう返したかも。目の前の騎士が「その元凶の側の男」であることも――全員が知っていて、全員が、氷の礼儀で沈黙している。
「ようこそ、グランハルト卿」
私は、女主人の微笑で言った。
完璧に、他人の距離で。
「遠路の護衛、お疲れさまでした。祖国の皆さまが息災で、何よりですわ。……ああ、それから」
彼が顔を上げた。何かを期待する目で。恨み言でも、皮肉でも、何でもいい、自分に向けられた「特別な言葉」を待つ目で。
私は、その目に、いちばん残酷なものを渡した。
「――お連れの皆さまと共に、宴をお楽しみになって」
それだけ。
次の挨拶の者へ、私は視線を移した。彼のための言葉は、もう何ひとつ、残っていなかった。恨みすら、彼のためには使わない。彼は私の物語の登場人物ではなく、ただの、五十人の使節団のひとり。
末席へ戻っていく彼の背中が、一度だけ、よろけた。
*
宴の終わり、退出の列の中で、彼がもう一度だけ、こちらを見たのが分かった。
左肩を。
それから、自分の胸元を――九年間そこに提げてきた、お守りのあたりを。
迷子の目だった。答えの手前で立ち尽くす男の目。銀の光の噂と、描かれていない肩と、手の中の焼け焦げた髪飾りと。ばらばらの欠片が、彼の中で、ひとつの絵になりかけて――なりきれずに、軋んでいる。
そのまま、迷っていらっしゃい。
答えを差し上げる場所は、もう決めてあるのだから。両国の旗の下、証人と物証の揃った、逃げ場のない法廷。あなたはそこで、九年ぶんの真実を、いちどきに知ることになる。
あと少しの、辛抱よ。




