第29話 解呪
兄が国境を越えたのは、ルティアの到着から十日後だった。
表向き、ヴァルデンツ王太子は「長患いの療養のため、南方の湯治場に滞在中」ということになっている。毒に弱った芝居を半年続けた成果で、誰もその発表を疑わなかった。毒を盛っている側は、なおさら。
実際の兄は、商人に変装して雪の峠をふたつ越え、供もふたりだけで大公城の裏門に立っていた。
「……ひどい顔ね、兄様」
「お互いにな」
やつれた顔で笑い合ってから、兄は真っ先に、ルティアの寝室へ向かった。
寝台の妹は、目を覚ましていた。兄の顔を見た瞬間、琥珀の瞳がまん丸になって、それから、くしゃりと歪んだ。
「に、兄様……どうして、こちらに……お体は……」
「おまえこそ、どうして、だ」
兄は寝台の脇に膝をつくと、大きな手で、妹の小さな頭をそっと包んだ。
「……道中、リディエンヌの文で全部読んだ。時を戻しただの、命を焼いただの、書いてあることの半分も信じられんかった。だが、おまえのこの顔を見たら……信じるしか、ないだろう」
「ごめん、なさい……」
「謝るな」
兄の声が、震えた。
「一周目とやらの俺は、毒で死んだんだろう。おまえはそれを、たったひとりで調べて、たったひとりで看取って……挙句、命を燃やして、俺の死ぬ前まで世界ごと戻ってきてくれた。……そういう妹に、兄が言う言葉はひとつしかない」
ありがとうな、ルティア。
その一言で、妹は決壊した。十五の私が聖水の前で泣けなかったぶんまで、というくらい、声を上げて泣いた。兄は不器用に、ずっと頭を撫でていた。生涯でただひとつの光だったと、あの子が言った通りの手つきで。
「――ただし、これだけは言っておく」
泣きやんだ頃、兄は妹の額を、指で軽くこつんと突いた。
「二度と、やるな。命はな、燃やすものじゃない。お前の命を燃やしてまで助かりたいとは、俺は思わない。……次に世界がどうしようもなくなったら、燃やす前に兄を呼べ。世界のほうを殴りに行く」
「……はい」
「よし」
それから兄は、旅嚢の底から、油布に包んだものを取り出した。
青い革の手帳。銀の留め金。
――母様の、日記。
「約束通り、俺の手で運んできた。……裁きの場で開くまで、これはおまえが持っていろ、リディエンヌ」
受け取った日記は、掌の上で、ずしりと重かった。紙の重さではない重さだった。
頁を繰りたい衝動を、私は抑えた。証拠として使う箇所は、兄が写しを取って整理してある。それ以外を――とりわけ最後の頁を、今開くことは、なぜかしてはいけない気がした。
ルティアが、寝台から小さく言った。
「お姉様。最後の頁だけは……全部が終わった日に、読んでください。……そういう頁、なんです」
「……ええ。分かったわ」
約束が、またひとつ増えた。全部が終わった日のための約束が。
*
解呪の儀は、三日後の夜、学院の観測室で行われた。
白い石の床の銀の環の中心に、兄が座る。周りを、モルデン翁と契約魔法の術者たちが囲む。ラグヴァルドと私は、記録係とともに壁際に立った。
「では王太子殿下。楽になさって。……ふむ、始める前に申しておきますとな」
モルデン翁が、静かに言った。
「呪詛というものは、かけるより解くほうが、ずっと痛うございます。かけた者の悪意を、一本ずつ引き抜くわけですのでな。……お覚悟を」
「構わん。九年ぶんだ。まとめて抜いてくれ」
「時に――先に申しておきますぞ」
翁は、支度の手を止めずに続けた。
「守りの血統は呪詛を弾く、と俗に申しますがな。正しくは、守りの魔力を宿す者が弾くのです。殿下は先の王妃様の御子なれど、魔力の質は武人の型。呪いが憑けたのは、そのためですじゃ。……妃殿下だけが呪えなかった理由も、それで説明がつきまする」
だからあの女は、呪えない私を、社会と刃で壊しに来たのだ。腑に落ちる音が、胸の奥でした。
儀式が、始まった。
術者たちの詠唱が重なり、環が光る。兄の輪郭に沿って、それは浮かび上がってきた――肉眼では見えなかった、煤のような黒い糸。首筋から肩へ、心臓の上へ、蜘蛛の巣のように絡みついた、他人の悪意の織物。
あれが、疎みの呪い。
九年間、父の目に映る兄を歪め続けてきたもの。
「……っ、ぐ……」
黒い糸が一本引き抜かれるたび、兄の奥歯が軋んだ。それでも兄は、環の中心で微動だにしなかった。国境で武練を積んだ人の、これが背中かと思った。
一刻あまりの後――最後の一本が、光の中で焼き切れて消えた。
「――終わりましたぞ」
モルデン翁の声とともに、兄が大きく息を吐いた。
その顔を見て、私は言葉を失った。
何かが劇的に変わったわけではない。目の色も、顔立ちも、同じ兄だ。けれど――ずっとそこにあった薄い膜のようなものが、剥がれていた。ああ、この人はこんな顔をしていたのか、と思った。九年間、世界中の目と、たぶん兄自身の心にまで薄くかかっていた、あの煤色の膜が、ない。
「……妙な気分だ」
兄は自分の掌を、開いたり閉じたりした。
「軽い。体がじゃない。……なんと言えばいいのか。ずっと背中に貼りついていた『誰かに嫌われている』という確信が、消えた。あれは、俺の性根の卑屈さだと思っていたんだが」
「性根のせいなど、あるものですか」
声が、尖った。抑えられなかった。
「兄様は九年間、呪いを『自分のせい』だと思わされていたのよ。父様に嫌われるのは自分が出来損ないだからだと。……それがあの女の呪詛のいちばん醜いところだわ。かけられた側に、罪の意識まで背負わせる」
「……リディエンヌ」
「ごめんなさい。……取り乱しました」
「いや」
兄は、少し笑った。膜のない、初めて見る種類の笑顔で。
「怒ってくれて、ありがとうな」
*
「――して、収穫はこれですじゃ」
モルデン翁が、水晶の小箱を掲げた。中には、儀式で抜き取った黒い糸が、封じられて揺れている。
「呪詛の織りには、術者の魔力の癖が残りまする。指紋のようなものですでな。……しかるべき法廷で、術者本人の魔力と照合すれば――誰がかけた呪いか、動かぬ証拠となりましょうぞ」
「王族への呪詛。貴国の法で、大逆罪だ」
ラグヴァルドが、静かに言った。
「これで訴因が三つ揃った。先の王妃の毒殺。王太子への呪詛と毒。そして――ザイデルンへの内通。……役者も証拠も揃った。あとは舞台だ」
「和平の調印式、ですわね」
「ああ。両国の目が揃う場所で、まとめて裁く。……貴国には既に、極秘の打診を始めている。国王の返答次第だが」
父は、どう出るだろう。
呪いが解けた今、あの人の目に、息子は、娘たちは、どう映り始めているだろう。九年ぶんの靄が晴れた目で見る景色を、あの人は直視できるだろうか。
――どちらでも、いい。
父の後悔は、父のものだ。私たちの裁きは、止まらない。
「調印と法廷の日取りが決まり次第、貴国から使節団が来る」
ラグヴァルドは、届いたばかりの外交文書の束を卓に置いた。
「先触れの名簿が、今日届いた。……リディエンヌ。目を通しておけ。知った名前が、あるはずだ」
差し出された名簿を、上から辿る。
外務卿。書記官長。護衛騎士団の――
その欄で、指が止まった。
『護衛騎士 ヴィンセル・グランハルト』




