表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
敵国に嫁いだ長女は振り返らない  作者: 鷹居鈴野


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
29/43

第29話 解呪

 兄が国境を越えたのは、ルティアの到着から十日後だった。


 表向き、ヴァルデンツ王太子は「長患いの療養のため、南方の湯治場に滞在中」ということになっている。毒に弱った芝居を半年続けた成果で、誰もその発表を疑わなかった。毒を盛っている側は、なおさら。


 実際の兄は、商人に変装して雪の峠をふたつ越え、供もふたりだけで大公城の裏門に立っていた。


「……ひどい顔ね、兄様」


「お互いにな」


 やつれた顔で笑い合ってから、兄は真っ先に、ルティアの寝室へ向かった。


 寝台の妹は、目を覚ましていた。兄の顔を見た瞬間、琥珀の瞳がまん丸になって、それから、くしゃりと歪んだ。


「に、兄様……どうして、こちらに……お体は……」


「おまえこそ、どうして、だ」


 兄は寝台の脇に膝をつくと、大きな手で、妹の小さな頭をそっと包んだ。


「……道中、リディエンヌの文で全部読んだ。時を戻しただの、命を焼いただの、書いてあることの半分も信じられんかった。だが、おまえのこの顔を見たら……信じるしか、ないだろう」


「ごめん、なさい……」


「謝るな」


 兄の声が、震えた。


「一周目とやらの俺は、毒で死んだんだろう。おまえはそれを、たったひとりで調べて、たったひとりで看取って……挙句、命を燃やして、俺の死ぬ前まで世界ごと戻ってきてくれた。……そういう妹に、兄が言う言葉はひとつしかない」


 ありがとうな、ルティア。


 その一言で、妹は決壊した。十五の私が聖水の前で泣けなかったぶんまで、というくらい、声を上げて泣いた。兄は不器用に、ずっと頭を撫でていた。生涯でただひとつの光だったと、あの子が言った通りの手つきで。


「――ただし、これだけは言っておく」


 泣きやんだ頃、兄は妹の額を、指で軽くこつんと突いた。


「二度と、やるな。命はな、燃やすものじゃない。お前の命を燃やしてまで助かりたいとは、俺は思わない。……次に世界がどうしようもなくなったら、燃やす前に兄を呼べ。世界のほうを殴りに行く」


「……はい」


「よし」


 それから兄は、旅嚢の底から、油布に包んだものを取り出した。


 青い革の手帳。銀の留め金。


 ――母様の、日記。


「約束通り、俺の手で運んできた。……裁きの場で開くまで、これはおまえが持っていろ、リディエンヌ」


 受け取った日記は、掌の上で、ずしりと重かった。紙の重さではない重さだった。


 頁を繰りたい衝動を、私は抑えた。証拠として使う箇所は、兄が写しを取って整理してある。それ以外を――とりわけ最後の頁を、今開くことは、なぜかしてはいけない気がした。


 ルティアが、寝台から小さく言った。


「お姉様。最後の頁だけは……全部が終わった日に、読んでください。……そういう頁、なんです」


「……ええ。分かったわ」


 約束が、またひとつ増えた。全部が終わった日のための約束が。


 *


 解呪の儀は、三日後の夜、学院の観測室で行われた。


 白い石の床の銀の環の中心に、兄が座る。周りを、モルデン翁と契約魔法の術者たちが囲む。ラグヴァルドと私は、記録係とともに壁際に立った。


「では王太子殿下。楽になさって。……ふむ、始める前に申しておきますとな」


 モルデン翁が、静かに言った。


呪詛じゅそというものは、かけるより解くほうが、ずっと痛うございます。かけた者の悪意を、一本ずつ引き抜くわけですのでな。……お覚悟を」


「構わん。九年ぶんだ。まとめて抜いてくれ」


「時に――先に申しておきますぞ」


 翁は、支度の手を止めずに続けた。


「守りの血統は呪詛を弾く、と俗に申しますがな。正しくは、守りの魔力を宿す者が弾くのです。殿下は先の王妃様の御子なれど、魔力の質は武人の型。呪いが憑けたのは、そのためですじゃ。……妃殿下だけが呪えなかった理由も、それで説明がつきまする」


 だからあの女は、呪えない私を、社会と刃で壊しに来たのだ。腑に落ちる音が、胸の奥でした。


 儀式が、始まった。


 術者たちの詠唱が重なり、環が光る。兄の輪郭に沿って、それは浮かび上がってきた――肉眼では見えなかった、煤のような黒い糸。首筋から肩へ、心臓の上へ、蜘蛛の巣のように絡みついた、他人の悪意の織物。


 あれが、うとみの呪い。


 九年間、父の目に映る兄を歪め続けてきたもの。


「……っ、ぐ……」


 黒い糸が一本引き抜かれるたび、兄の奥歯が軋んだ。それでも兄は、環の中心で微動だにしなかった。国境で武練を積んだ人の、これが背中かと思った。


 一刻あまりの後――最後の一本が、光の中で焼き切れて消えた。


「――終わりましたぞ」


 モルデン翁の声とともに、兄が大きく息を吐いた。


 その顔を見て、私は言葉を失った。


 何かが劇的に変わったわけではない。目の色も、顔立ちも、同じ兄だ。けれど――ずっとそこにあった薄い膜のようなものが、剥がれていた。ああ、この人はこんな顔をしていたのか、と思った。九年間、世界中の目と、たぶん兄自身の心にまで薄くかかっていた、あの煤色の膜が、ない。


「……妙な気分だ」


 兄は自分の掌を、開いたり閉じたりした。


「軽い。体がじゃない。……なんと言えばいいのか。ずっと背中に貼りついていた『誰かに嫌われている』という確信が、消えた。あれは、俺の性根の卑屈さだと思っていたんだが」


「性根のせいなど、あるものですか」


 声が、尖った。抑えられなかった。


「兄様は九年間、呪いを『自分のせい』だと思わされていたのよ。父様に嫌われるのは自分が出来損ないだからだと。……それがあの女の呪詛のいちばん醜いところだわ。かけられた側に、罪の意識まで背負わせる」


「……リディエンヌ」


「ごめんなさい。……取り乱しました」


「いや」


 兄は、少し笑った。膜のない、初めて見る種類の笑顔で。


「怒ってくれて、ありがとうな」


 *


「――して、収穫はこれですじゃ」


 モルデン翁が、水晶の小箱を掲げた。中には、儀式で抜き取った黒い糸が、封じられて揺れている。


「呪詛の織りには、術者の魔力の癖が残りまする。指紋のようなものですでな。……しかるべき法廷で、術者本人の魔力と照合すれば――誰がかけた呪いか、動かぬ証拠となりましょうぞ」


「王族への呪詛。貴国の法で、大逆たいぎゃく罪だ」


 ラグヴァルドが、静かに言った。


「これで訴因が三つ揃った。先の王妃の毒殺。王太子への呪詛と毒。そして――ザイデルンへの内通。……役者も証拠も揃った。あとは舞台だ」


「和平の調印式、ですわね」


「ああ。両国の目が揃う場所で、まとめて裁く。……貴国には既に、極秘の打診を始めている。国王の返答次第だが」


 父は、どう出るだろう。


 呪いが解けた今、あの人の目に、息子は、娘たちは、どう映り始めているだろう。九年ぶんの靄が晴れた目で見る景色を、あの人は直視できるだろうか。


 ――どちらでも、いい。


 父の後悔は、父のものだ。私たちの裁きは、止まらない。


「調印と法廷の日取りが決まり次第、貴国から使節団が来る」


 ラグヴァルドは、届いたばかりの外交文書の束を卓に置いた。


「先触れの名簿が、今日届いた。……リディエンヌ。目を通しておけ。知った名前が、あるはずだ」


 差し出された名簿を、上から辿る。


 外務卿。書記官長。護衛騎士団の――


 その欄で、指が止まった。


『護衛騎士 ヴィンセル・グランハルト』

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
ラグヴァルドが祖国祖国言ってんの違和感ヤバい
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ