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敵国に嫁いだ長女は振り返らない  作者: 鷹居鈴野


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第28話 時を戻した人

 ルティアは、雪の峠を越えて運ばれてきた。


 兄が寄越した最速の馬車から降ろされた妹は、私の記憶よりふたまわりも小さく見えた。亜麻色の髪は艶を失い、琥珀の瞳は熱に潤み、それでも私の顔を見つけると、あの子は真っ先に、掠れた声でこう言ったのだ。


「タリサ、さんは……間に合いません、でしたか……」


 道中で、報せを聞いたらしい。


 私が答えられずにいると、ルティアは目を閉じて、静かに泣いた。泣く力も、もうあまり残っていないようだった。


 *


「――診立てを、率直に申し上げますぞ」


 寝室の外で、モルデン翁は声を落とした。徹夜の診察を終えた老学士の顔は、これまで見たことがないほど険しかった。


「病では、ございません。毒でもない。……あれは、魔力と生命力が、焼き切れておるのです。それも尋常な使い方ではない。器の底まで、一度に、根こそぎ」


「……治せますか」


「正直に申せば、儂の知る治療では、進みを遅らせるのが精々。あの状態から人を戻した記録は、古文書にひとつだけ――契約魔法の大儀式による生命の再契約。両国の術者を束で集める、国家がかりの秘儀ですじゃ」


 翁は、そこで言葉を切って、私をじっと見た。


「妃殿下。ひとつだけ、伺いたい。あの娘の焼き切れ方は、古い伝承にある症例と、寸分違わず一致しますのじゃ。……『刻の祈り』。生涯にただ一度、時を遡らせる奇跡の、行使者の症例と」


 廊下が、静まり返った。


 隣に立つラグヴァルドが、ゆっくりと私を見たのが分かった。


 ――ああ。


 もう、隠しておける場所が、どこにもない。


「……殿下。モルデン様。長いお話が、あります」


 私は言った。


「以前、殿下に『言えないことがひとつある』と申し上げました。……それを今夜、お話しします」


 *


 すべてを、話した。


 一周目の人生。従者と入れ替わって守った夫と、腕の中の遺言。兄の毒殺。ルティアが初めて私を頼ってくれた夜と、口封じの刃。継妃けいひの告白。そして――絶望の底で妹が使った、生涯一度の奇跡のこと。


 巻き戻った世界で、私たちふたりだけが記憶を持っていたこと。


 毒杯の予告も、罠の回避も、ザイデルンの筋書きを先読みできたことも、すべて「二度目」だからだったこと。


 話し終えるまで、ラグヴァルドは一度も口を挟まなかった。


 やがて、彼は長く息を吐いて、言った。


「……得心がいった」


「お疑いに、ならないのですか。時を戻ったなどという話を」


「疑う材料より、信じる材料のほうが多い」


 彼は指を折った。


「初対面から君は、初めて来た国の作法を知っていた。起きてもいない罠を先回りした。まるで、この国の未来を知っているような目をしていた。……そして何より」


 金の瞳が、寝室の扉を見た。


「あの娘の体が、証言している。……嘘で、ああは焼き切れん」


 それから彼は、扉の向こうの小さな寝息に向かって、静かに頭を下げた。私は見た。この国でいちばん高い場所にいる人が、使用人棟育ちの少女に、深く、長く、頭を下げるのを。


「時を戻した人、か。……この世界は、あの娘の掌の上にあるわけだ。俺の国も、俺と君が出会ったことも、全部」


 *


 夜半、ルティアの容態が落ちた。


 呼吸が浅くなり、指先から体温が引いていく。医師たちが手を尽くす傍らで、私にできることは、ひとつしかなかった。


 守りの結界で、妹の命を包むこと。


 消えかけの火を、風から守る両手のように。糸を細く、細く紡いで、ほどけていく命の輪郭を、外から支え続ける。堰き止められたままの今の私では、全力は出せない。けれど蝋燭の火を守るくらいなら――何時間でも。何日でも。


「……お姉、さま」


 夜明け前、ルティアが薄く目を開けた。


「あたたかい……これ、お姉様の、結界……」


「ええ。喋らないで、いいのよ」


「ごめん、なさい……」


 熱に潤んだ琥珀の目から、涙がこぼれた。


「あたしの、せいなんです……あたしが、時を戻したから……タリサさんは、二回も……お姉様の大事な人を、あたしのわがままが、二回も殺し……」


「ルティア」


 私は、妹の手を握った。あの夜と同じように。二つの人生で、二度目の、握り直し。


「あなたのわがままは、兄様を生かしたわ。私を生かした。あなた自身を生かした。タリサはね――二度とも、自分で選んで、私の前に立ったの。あの子の誇りを、あなたの罪にしないで」


「でも……っ」


「それに、私はあなたに感謝しているのよ。……あなたが時を戻してくれたおかげで、私は」


 言いかけて、自分でも思いがけない言葉が続いた。


「――私は今度の人生で、初めて、幸せというものを知ったのだもの」


 ルティアが、泣きながら、ほんの少し笑った。


「……知ってます。半月前から、お顔がずっと、幸せそうでしたから」


「まあ、あなたまで」


 *


 妹が眠りに落ちた頃、私の膝が、揺れた。


 夜通し紡ぎ続けた結界の糸が、指先で細り始めている。堰き止められた器の、少ない水を汲み続けた代償だった。それでも糸を切るわけにはいかない。この糸が、今この瞬間も、あの子の命の輪郭を――


「――リディエンヌ」


 気づけば、隣にラグヴァルドが膝をついていた。


「限界だ。代われ……と言いたいが、守りの糸は俺の系統では紡げん。だから」


 彼は、手袋を外した。


「補給を。俺の魔力を、君に」


 息が、止まった。


 魔力を、受け取る。


 この国では、兵士同士が水筒を回すのと同じ行為。分かっている。頭では、ちゃんと。けれど私の体に染みついた祖国の重さが、その言葉を勝手に翻訳する。九歳のあの日以来、一度も――与えたことはあっても、受け取ったことは、一度もない。


 ラグヴァルドは、私の沈黙を、正確に読んだ。


「……君の国の重さで言うなら、これがどれほどの行為か、俺なりに学んだつもりだ」


 彼の声は、静かだった。


「だから、命令ではなく、聞く。この場は俺の魔力が要ると、術者としての俺が判断している。だが受け取るかどうかを決める権利は、最初から最後まで、君にある。……断っても、誰も君を責めない。俺が別の手を探す。それだけだ」


 押しつけない。急かさない。


 あなたはいつも、そうだ。


 私は――震える手を、差し出した。


「……お願い、します」


「ああ」


 大きな手が、私の手を包んだ。


 温かいものが、流れ込んできた。


 彼の魔力は、雷の系統だと聞いていた。戦場を裂く、苛烈かれつな力だと。けれど掌から伝わってくるそれは、冬の朝の陽だまりのように、ゆっくりと、静かで――私の細った糸のひとすじひとすじに、丁寧に染み込んでいった。乾いた土に、雨が入っていくように。


「……っ」


 視界が、滲んだ。


 ああ、これが。


 これが「受け取る」ということ。九歳の私が、意味も知らずに手放したもの。祖国が、閨の奥に鍵をかけて、女の一生の値札にしたもの。その正体は、こんなにも――こんなにも、ただ、温かいだけのものだったのか。


「――ほう」


 傍らで見守っていたモルデン翁が、小さく声を上げた。


「これは……馴染みますな。妃殿下の糸が、殿下の魔力を弾きもせず、澱ませもせず……まるで最初からひとつの織物のように。ふうむ。学院の観測でも数値には出ておりましたが、いやはや、ここまでとは」


「モルデン」


「おっと、失礼。……年寄りは、静かにしておりますでな」


 翁はわざとらしく咳払いをして、記録の帳面に何やら嬉しそうに書きつけた。


 夜が、明けていく。


 窓の外で大結界の銀が朝日に溶けるまで、彼は私の手を離さなかった。私の糸は張りを取り戻し、ルティアの寝息は、少しだけ深くなっていた。


「……礼を言います、殿下。妹も、私も、あなたに」


「要らん」


 彼は立ち上がり、いつもの調子で言った。


「妻の妹は、俺の妹だ。――救う」


 そして扉口で一度だけ振り返り、付け加えた。


「契約魔法の大儀式には、両国の術者と、両国の合意が要る。つまり和平の調印と、あの母娘の断罪を、前倒しにする。……戦の支度と同じだ、リディエンヌ。ここからは、速さで押し切る」

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