第27話 タリサ
その日の午後は、よく晴れていた。
折衝が早めに終わり、私は久しぶりに、何の予定もない時間を手に入れた。タリサが張り切って、故郷の茶葉の最後のひと缶を開けると言い出した。
「今日はとっておきですよ。妹が摘んだ春の一番茶。……本当はね、姫様が寂しくなった日のために取っておいたんです。でも」
茶器を載せた盆を抱えて、タリサは笑った。
「もう、寂しい日なんて来そうにないですから。めでたい日に開けちゃいます」
「あら。今日は何かめでたいの?」
「姫様が名前で呼ばれてから、ちょうど半月記念です」
「タ、タリサ」
「ふふーん」
回廊には、冬の陽が長く差し込んでいた。角を曲がれば私の居室。護衛は前にふたり、後ろにふたり。警備は完璧で、平和はあまりに普通の顔をしていて――だから、誰も気づかなかった。
向かいから、洗濯物の籠を抱えた下女が歩いてくることに、何の意味も見出さなかった。
ただひとり。
使用人の世界で生きてきた目を持つ、私の乳姉妹を除いて。
「……あれ?」
タリサの足が、止まった。
「あの子、東翼の洗い場の子じゃ……籠の持ち方が、へん――」
下女の籠が、落ちた。
布の下から、鈍い色の刃が滑り出た。
まっすぐに、私へ。
結界は、張っていた。張っていたのだ、いつも通り、糸の網を体のまわりに。けれどあの言付け以来、私の糸はタリサのまわりにも張られていて、意識は二人分に割れていて――刃が私に届くより早く、タリサの体が、私の前に入った。
「――だめ」
自分の声が、遠くで聞こえた。
だめ、それはだめ、あなたはだめ、その動きを私は知っている、九年前の――違う、あの最後の夜の、あなたの最後の動きを――
鈍い音がした。
結界の糸が、一拍遅れて閉じた。刃の主は光の網に搦め捕られ、護衛たちが折り重なって取り押さえる。二撃目は、なかった。完璧に防いだ。
一撃目、だけが。
「タリサ……!」
崩れる体を、抱き留めた。
浅い傷だった。左の二の腕、掠っただけの、本当に浅い傷。なのに彼女の顔から、見ている間に色が引いていく。傷の浅さに、死の速さが釣り合っていない――その意味を、私は世界中の誰よりもよく知っていた。
「医師を! 解毒を、早く!!」
叫びながら、分かっていた。
この毒に、解毒はない。前世の最後の夜、この子と私を殺した毒。ヴァルデンツの南部にしか咲かない、鈴百合の根。
「ひ、めさま」
腕の中で、タリサが私を見上げた。
「……あぶな、かった、ですね……まにあって、よかった……」
「喋らないで。お願い、喋らないで」
「えへへ……また、まにあった……」
また。
その一言に、心臓が凍った。
まさか。あなた、覚えて――いいえ、覚えているはずがない。巻き戻りの記憶は、私とルティアだけのもの。これはただの、偶然の言葉。偶然の、はずで。
「姫様……あのね」
タリサの目の焦点が、ゆっくりと緩んでいく。
「お手紙……母さんに、もう、ついたかなあ……」
「……着いたわ。きっと、今ごろ読んでる」
「そっか……よかった……ぜんぶ、ほんとのことだから……」
姫様は幸せです。だからあたしも幸せです。
「ね、姫様……お茶、まだ……いっぱい、のこって……」
言葉は、そこで終わった。
冬の陽の差す回廊で、乳姉妹は、眠るように軽くなった。九年前、湯殿の扉の前に立って、私の秘密ごと守ってくれた子。二つの人生で二度、私と刃の間に体を入れた子。春の一番茶の香りが、割れた茶器のまわりに、湯気も立てずに広がっていた。
私は、泣かなかった。
泣けなかった、のほうが正しい。悲しみが大きすぎると、涙は間に合わないのだと、このとき知った。
*
刺客は、生きて捕えられた。
尋問より先に、身元が割れた。半年前にこの城の洗い場へ入った下女。保証人の名を辿れば、ヴァルデンツの、とある侍女に行き着いた。恋文の注文書に名を残した、あの侍女――リュシオラの、手足。
妹の言付け通りだった。
大事なものから、順番に。
あの子は、私の姉妹だ。血は繋がらなくても、同じ屋敷で育っただけのことはある。私の急所を、正確に知っている。私が誰の前でだけ淑女の面を外すか。誰の淹れた茶で息をついてきたか。誰を、絶対に死なせたくなかったか。
その夜、私はタリサの棺の傍らに、ひとりで座った。
燭台の火が、静かに揺れていた。
……ごめんなさい、は言わない。あなたはあの瞬間、自分で選んで、私の前に立った。その選択に謝るのは、あなたの一番怒ることだと知っている。だから、代わりに言うわ。
ありがとう。二度も、命を懸けて助けてくれて。
あなたの母様には、私が手紙を書く。あなたの妹たちの茶畑は、私が生涯買い上げる。あなたの名前は、この国の史書に――大公妃を守った侍女として、絶対に、残させる。
そして。
「……もう、情けはかけない」
声に出すと、それは誓いになった。
義妹に対して、心のどこかに最後まで残していたもの。同じ屋敷で育った歳月への、僅かな、本当に僅かな躊躇い。それが今夜、この棺の前で、燃え尽きて消えた。
リュシオラ。
あなたは越えてはいけない線を、越えた。
次に会うときは、法廷で。
*
夜半、扉が叩かれた。
兄からの急使が、雪と泥にまみれて立っていた。差し出された書状は、暗号ですらなかった。走り書きの、剥き出しの文字だった。
『ルティアを、そちらへ送る。頼む。
――あの子が、倒れた』




