第26話 妻の呼び方
「大事なものから、順番に」――あの言付けから半月、城は静かだった。
警備は倍になり、タリサの部屋は私の隣室に移され、ルティアと兄には最速の便で警告を送った。やれることは、すべてやった。それでも胸の底に、小さな棘のような不安が残り続けている。
そんな中でも、日々は進む。
和平交渉の予備折衝が始まり、私は連日、外務の卓に着いていた。祖国の交渉癖を知り尽くした「生き字引」として。塩と船板で吹っかけて、染料で本音を出す。あの国のやり口を先回りするたび、リンドヴェールの外交官たちの私を見る目が、また少し変わる。
「――以上で、本日の折衝を終える。皆、ご苦労だった」
散会の後、書類を整えていると、ラグヴァルドが卓の向こうから言った。
「妃。このあと、少しいいか」
「はい。……何か、不備でも?」
「いや」
彼は珍しく、すぐに用件を言わなかった。文官たちが出ていくのを待って、窓の外の雪景色を眺めて、それから、ようやく口を開いた。
「今日の折衝で、祖国側の書記官が君を呼んだ呼び方だが」
「……『元・第一王女殿下』ですか」
「ああ。気に入らん」
思わず、笑ってしまった。あの慇懃無礼な呼び方は、祖国流の小さな棘だ。おまえはもう捨てた駒だと、書類の呼称ひとつで刺してくる。慣れている。慣れているから、聞き流していたのに。
「この国の者は君を『妃殿下』と呼ぶ。祖国の者は『元王女』と呼ぶ。……考えてみれば、俺も『妃』としか呼んでいない」
「肩書きは、便利ですもの」
「便利なだけだ」
彼は窓辺を離れて、こちらへ歩いてきた。
「肩書きは全部、誰かが君に貼ったり剥がしたりできる。王女も、妃も、欠けた器も、守護妃も。……だが、名前は違う。名前だけは、誰にも剥がせない」
夕暮れの光が、彼の金の瞳を蜜の色にしていた。
「――リディエンヌ」
心臓が、跳ねた。
生まれて初めて呼ばれた名前のように、その音は響いた。父は「おまえ」と呼んだ。継妃は「あなた」と呼んだ。ヴィンセルは最後まで「リディエンヌ様」と、他人の距離で呼んだ。
夫と呼ばれる人から、敬称も肩書きもない、ただの名前で呼ばれたのは――二つの人生で、初めてだった。
「これからは、そう呼ぶ。構わないか」
「……はい」
声が、掠れた。
「はい。あの、では、私も……」
「ああ」
「……ラグヴァルド様」
「様は、要らん」
「っ、それは、その、追い追い……!」
「ふ」
彼が、笑った。口の端だけではなく、目元まで届く、初めて見る種類の笑い方だった。
*
その夜、私は自室で、なかなか寝つけずにいた。
リディエンヌ。
呼ばれた声が、耳の奥で何度も再生される。馬鹿みたいだ。名前を呼ばれただけで。十八にもなって。二周目まで生きて。
けれど――胸の奥のいちばん深いところで、九歳からずっと膝を抱えていた小さな私が、そっと顔を上げたのが分かった。誰にも見つけてもらえなかったあの子が、名前を呼ばれて、返事をしたのが。
「姫様あ……なんだか今夜、ずっとにやにやしてらっしゃいます」
「し、してないわ」
「してますう。あ、分かった。殿下と何かありましたね?」
「タリサ」
「だってえ」
寝支度を手伝いながら、タリサはころころ笑った。それから、ふと手を止めて、鏡越しに私を見た。
「……姫様。あたしね、今日、故郷に手紙を書いたんです」
「手紙?」
「はい。母さんと、妹たちに。――『姫様は、いま、とても幸せです。だからあたしも、とても幸せです』って」
鏡の中で、乳姉妹は、少し照れくさそうに笑った。
「祖国にいた頃は、書けなかったから。姫様が幸せだなんて嘘、母さんにはすぐばれちゃうから。……でも今は、本当のことだから、いっぱい書けました。この国のお茶が案外おいしいことも、殿下が姫様を見る目のことも、ぜーんぶ」
「……そう」
「はい!」
窓の外では、雪がやんで、大結界の銀の光が夜空に静かに揺れていた。
幸せ、という言葉を、私はこの歳になるまで、自分のものとして使ったことがなかった。今なら、少しだけ分かる。幸せとは、たぶん、こういう夜のことだ。名前を呼ばれて、誰かが隣で笑っていて、明日が来るのが怖くない、こういう夜の――
だから。
だから私は、この夜のことを、生涯忘れないのだと思う。
タリサが故郷へ宛てた手紙が王都に届くのは、十日ほど先。
彼女の母親がそれを読んで、涙をこぼして笑うのも、十日ほど先。
――その手紙が、タリサの書いた、最後の手紙になることを。
このときの私は、まだ知らない。




