第25話 王女が死ねば戦争になる
グラウ商会の監視網に、獲物がかかり始めたのは、初雪の頃だった。
「――港の倉庫番が、妙な注文を受けています。『王都行きの葡萄酒樽に、人ひとり分の隙間を作ってくれ』と。人を、樽に隠して運ぶ気です」
「城の洗い場に、新入りがふたり。どちらも身元の保証人が、同じ毛織物商です」
「妃殿下の遠乗りの日程を、厩番に訊いた楽士がおりました」
執務室の卓に、報告が一枚ずつ積まれていく。ラグヴァルドと私は、地図を挟んで向かい合っていた。もう何度目になるか分からない、ふたりの軍議だった。
「……揃ってきたな」
「ええ。狙いは、私」
自分の命が的にされているというのに、声は静かに出た。この盤面は、知っている。一周目、義妹の偽装死が開戦の口実にされたように――今度は、大公妃となった王女の死こそが、ザイデルンの欲しい「火種」だ。
「妃が死ねば、祖国は黙っていない。この国が殺したことにされれば、なおさら」
「和平は砕けて、二つの国は潰し合い。ザイデルンは高みの見物、と」
「だから殺し方にも注文がつくはずだ。毒か、事故か――いずれにせよ、この国の中で、この国の落ち度で死んでもらわねば、奴らの筋書きにならん」
ラグヴァルドは地図の上で、指を組んだ。
「守りを固めるのは簡単だ。だが、それでは尻尾が切れるだけで、頭が残る。……妃。ひとつ、気に入らん策がある」
「泳がせて、釣る。餌は私」
「……なぜ先に言う」
「軍議が、二十回目ですもの」
彼は苦い顔をした。この人は、策としては最適と分かっていながら、私を餌に置くことを最後まで嫌がっていた。その渋面が、少しだけ嬉しい自分がいる。
「餌は私に決まっています。ですが殿下、餌には条件をつけさせてくださいませ。……釣り上げる日と場所は、こちらで選ぶ。それから――」
私は地図の一点を指した。城の東、冬枯れの庭園。
「網は、私の結界で張ります」
*
決行は、七日後。
「大公妃は毎週この日、東庭園を侍女ひとりだけ連れて散策する」――そういう習慣を、この一月かけて、わざと城の内外に見せつけてきた。警備の穴も、三箇所、丁寧に作っておいた。穴のうちふたつは本物そっくりの偽物で、ひとつだけ、本当に通れる。
通れる道が一本しかなければ、獲物はそこを通る。
冬の朝の東庭園を、私はゆっくりと歩いた。息が白い。供はタリサ――ではなく、タリサの外套を着た、ヘルガ将軍麾下の小柄な女兵士だ。タリサは今ごろ、城のいちばん奥の部屋で、私の外套を抱えて留守番に憤慨している。
『あたしが囮でもいいじゃないですか!』
『駄目よ。あなたは駄目』
あなたの死に顔は、一度見ている。二度は、見ない。
――風向きが、変わった。
植え込みの陰。足音を消した三人。手練れ。刃に塗られた鈍い色まで、結界の糸が教えてくれる。ああ、あの毒だ。前世の最後の夜、タリサと私を殺した、あの。
体の芯が冷えて、それから、燃えた。
「……いらっしゃい」
私は振り向かずに、指を鳴らした。
庭園全体に、銀の光が走った。
張り巡らせておいた結界の糸が、一斉に立ち上がる。植え込みを、砂利道を、噴水を囲い込んで、光の檻が組み上がっていく。学院の訓練で「堰の隙間」を広げ続けたこの数ヶ月の成果が、冬の朝日の下で牙を剥いた。
「なっ……罠――!?」
「動くな!」
潜んでいた近衛が湧き出す。刺客の一人が懐の瓶を呷ろうとして――その手首を、天から降ってきた男の剣の柄が、正確に打ち砕いた。
「死んで口を噤むのも、筋書きのうちか」
ラグヴァルド。屋根から降ってきたらしい。大公ともあろう人が。
「自害は許可しない。おまえたちには、洗いざらい歌ってもらう」
*
尋問の報告が上がったのは、その夜だった。
刺客は三人とも、グラウ商会の裏帳簿に載る「荷運び」。雇い主への繋ぎは幾重にも切られていたが、支払いの経路がひとつ、生きていた。ザイデルン領内の両替商を経て、ヴァルデンツの王都へ。王都の、とある夜会好きの貴婦人の、賭け事の負債の帳消しへ。
その貴婦人の名は、社交界の誰もが知っている。
継妃グリゼルダの、いちばんの茶飲み友達。
「……届いたな。あと一手で、黒幕の正体に届く」
報告書を置いて、ラグヴァルドが言った。それから、彼にしては珍しく、少しだけ言い淀んだ。
「妃。今日のことだが」
「はい」
「見事だった。……が、次はない。餌の策は、もう使わん」
「あら。釣果はご覧の通りですのに?」
「刃が、君の三歩内に入った」
声が、低かった。
「檻が完璧でも、近衛が優秀でも、だ。俺はあの三歩の間、生きた心地がしなかった。……戦場で陣を張るのとは、わけが違った。理屈に合わん。合わんが、そうなのだから仕方がない」
理屈に合わないと、この人が認めた。
合理と公正でできたこの人が、私に関してだけ、理屈の外に出た。
暖炉の火が爆ぜて、沈黙が落ちる。気まずさではない沈黙だった。むしろ逆の――言葉にすれば壊れそうなものを、二人してそっと囲んでいるような。
「……殿下も、ですわ」
気づけば、言っていた。
「屋根から降ってこられたとき、心臓が止まるかと思いました。大公が真っ先に飛び込むなど、理屈に合いません。合いませんけれど――」
嬉しかったのです、とまでは、言えなかった。
言えなかったけれど、たぶん、伝わった。彼がふいと窓のほうを向いて、耳の縁がわずかに赤かったから。戦神と呼ばれる男の、あんな顔を見たのは、二つの人生を合わせても初めてだった。
「……報告の続きだ」
「はい」
「継妃の周辺は、これで包囲が完成する。祖国側の証拠は君の兄が、こちら側の証拠は俺が握った。残る仕上げは――」
扉が、慌ただしく叩かれた。
入ってきた文官が、震える声で告げた。
「殿下、妃殿下。捕えた刺客の頭目が、取り調べで……妙なことを、申しております。報酬とは別に、依頼主から言付けを預かっていたと」
「言付け?」
「はい。その……『妃を仕留め損ねた場合には、必ず妃本人に伝えよ』と。……『お姉様の大事なものから、順番に』と」
部屋の温度が、下がった。
お姉様。
その呼び方をする人間は、世界にふたりしかいない。ひとりは、命を懸けて私の味方をしてくれる妹。
もうひとりは――。
私の大事なものから、順番に。
脳裏に、蜂蜜色の巻き毛が揺れた。




