第24話 綻び(※国元・ヴィンセル視点)
婚約とは、こういうものではなかったはずだ。
ヴィンセル・グランハルトは、晩餐の卓の向かいに座る婚約者を見ながら、最近いつもそう思う。
リュシオラは、今夜も美しい。蜂蜜色の巻き毛。大きな空色の瞳。九歳のあの日から、彼の世界の中心にあり続けた顔。念願かなって婚約者にした、命の恩人。
なのに――卓の上の沈黙が、やけに重い。
「……ねえ、あなた。聞いていらして?」
「あ、ああ。すまない。何の話だった?」
「ですから、南の別邸の件です。今の屋敷は手狭ですし、社交の季節の前に……」
「別邸は、無理だ」
言ってから、自分の声が思ったより硬いことに気づいた。
「分かっているだろう。恩賞は返上した。封地も減った。首飾りは没収されたというのに、支払った金は慈善競売だからと一枚も戻らない。今は、家のすべてを絞っても……」
「まあ」
リュシオラの目が、すっと細くなった。
「わたくしのせいだと、仰りたいの?」
「そうは言っていない」
「言っていらっしゃるわ。あなたのために全部捨てた、と。……ご立派ですこと」
衣擦れの音を残して、婚約者は食堂を出て行った。
ヴィンセルは、手つかずの皿を前に、ひとり残された。
――おかしい。
最近、こういうことが増えた。彼女の言葉が、以前のように胸に染みてこない。あれほど愛おしかった仕草の一つひとつが、時々、たまらなく憎らしく見える瞬間がある。
愛が冷めたのか? まさか。九年想い続けた人だ。すべてを引き換えにした人だ。ここで愛が冷めたら、俺の九年は、俺の払ったものは、何になる。
そうだ。疲れているだけだ。
あの夜会からずっと、何もかもが上手くいかないから。
*
あの夜会以来、グランハルト侯爵家への風当たりは、日ごとに冷たさを増していた。
社交界は残酷だ。「すべてを捨てて愛を貫いた騎士」は、一夜で「何もかも騙し取られた愚か者」になった。夜会の招待状は減り、父からは毎日叱責が飛び、かつての戦友たちは、すれ違いざまに気の毒そうな目をする。
極めつけが、あの手紙だった。
敵国の大公が、外務府に寄越したという返書。たった一行の。
『貴国の姫の価値を、貴国だけが知らないと見える』
社交界は、その一行を三日で暗唱した。捨てられた姫を嗤っていた口が、手のひらを返して、捨てた側を嗤い始めた。戦神と名高いリンドヴェール大公が「価値」と言い切った女を、全財産を払って手放した男は誰だ?――俺だ。
「……くそ」
なぜだ。
なぜ、あの女は、あちらで上手くやっている。
地味で、可愛げがなくて、紋様を偽っていた、あの欠けた……。
そこまで考えて、ヴィンセルは自分の思考に、小さな引っかかりを覚えた。最近、あの女のことを考えるとき、昔のような憎しみが、うまく燃えないのだ。代わりに残るのは、燃えかすに似た、灰色の、落ち着かない何か。
夜会での、あの微笑。
『ある方に教わったのです。想ってくれない相手との結婚は、時間の無駄だと』
もし今、この言葉をリュシオラに聞かせたら、彼女はどんな顔をするだろう。きっと美しく眉を寄せて、俺を抱きしめ、「大丈夫ですわ」と囁くだろう。……だが、それだけだ。次の一手も、答えも、何も出てはこない。
リディエンヌなら、違った。あの女はいつも、涙の代わりに数字を、慰めの代わりに次の一手を差し出した。
――俺は、あの女に、慰められたことなど一度もなかった。ただ、助けられていただけだ。
あの言葉を、なぜか、俺はどこかで――
「旦那様。商会の方が、お約束の品を」
従者のヤニクが、遠慮がちに扉から顔を出した。
*
客間で待っていたのは、東方交易を扱う商人だった。減った収入を補うため、最近は領地の羊毛を直接売る算段をしている。その商談の席で――商人は、世間話のつもりで、それを口にした。
「いやはや、それにしても、リンドヴェールの景気のよいこと。何しろ近頃あちらでは、大公妃様の話題で持ちきりでございますからな」
「……大公妃の?」
「はい。宮廷魔導学院が観測したところ、妃殿下の結界の魔力は観測史上最高の純度だったとか。国境の『盾』を織った初代の巫女の再来だと、もっぱらの評判で。……銀の光の守護妃、なんて呼ばれ始めておりますよ」
銀の光。
その三文字が、耳の奥で、妙な音を立てた。
「あちらの兵士たちまで縁起を担いで、『銀の光に守られますように』とお祈りするそうで。ははは、ヴァルデンツの姫君があちらの守り神とは、時代も変わ――」
「――待て」
自分でも驚くほど、低い声が出た。
「銀の光、と言ったか。あの女の……大公妃の結界が、銀?」
「は、はあ。それはもう、月の光のような銀色だと。学院の観測記録にも」
そんなはずはない。
銀の光の結界は、あの人のものだ。九歳の春、炎と煙の向こうで俺を包んだ、あの銀色は、リュシオラの――
――本当に?
初めて、その二文字が、頭の中で音になった。
おまえは、あの光の主の顔を、見たのか?
見ていない。煙と、炎と、銀の光。目が覚めたとき、そこに立っていたのはリュシオラだった。だから。だから、ずっと。
「旦那様? お顔の色が」
「……なんでもない。商談を続けてくれ」
ヴィンセルは、胸元に手をやった。
九年間、肌身離さず提げてきたお守り。焼け焦げた跡のある、小さな銀の髪飾り。恩人の形見。これがあれば、何も揺らがないはずだった。
なのに、指先が。
お守りに触れた指先が、なぜか今夜は、ひどく冷たかった。
「銀の光……なぜ、あの女が……」




