第23話 幕間・聖水の日
その夜、久しぶりに、あの夢を見た。
*
夢の中で、私は十歳になっている。
夏の盛り。侍女たちが、湯浴みの支度をしましょうと言う。汗をかいたでしょう、さあ肩を出して――伸びてくる手から、私は逃げる。結構よ、自分でやるわ、下がってちょうだい。
わがままな姫だと、陰で言われているのは知っていた。潔癖な姫。人に肌を見せない、可愛げのない姫。
本当のことを知っているのは、タリサだけ。湯殿の扉の前に立って、誰も通さないでいてくれる乳姉妹だけ。
夏がいちばん、怖かった。
汗で、にじむから。夜会で扇を持つ手が濡れるたび、袖口が肩に触れるたび、心臓が縮んだ。庭の噴水で袖を濡らした令嬢たちが、涼しげに笑い合うのを、私はいつも一歩引いて見ていた。雨の日の遠乗りを断り、湖遊びを断り、断るたびに「気位の高い姫」が出来上がっていった。
気位なんて、なかった。
あったのは、左肩の絵の具だけ。
*
夢は、進む。
十五の年の、あの日になる。
王宮の大聖堂には、その日、社交界のすべてがいた。
名目は「王女の婚儀に先立つ、清浄の祈り」。婚約者との式を控えた娘が神前で祝福を受ける、ありふれた儀式――のはずだった。祭壇の前に立たされるまで、私はそう聞かされていた。
様子がおかしいと気づいたのは、神官長の隣に、見慣れない銀の水盤が運ばれてきたときだ。
「――恐れながら、申し上げます」
列席の中から、涙声が上がった。リュシオラだった。
「お姉様の御身の潔白について、心ない噂が絶えません。わたくし、悔しくて……どうか、どうかこの場で検分の儀を賜り、噂を晴らしていただけませんでしょうか。お姉様の潔白を、皆さまの前で……!」
妹の懇願、という形をしていた。
姉を思う涙、という形をしていた。
この国の誰が、それを断れるだろう。潔白なら、受ければいいだけのこと。断れば、断ったことが答えになる。祭壇の前で、私は完璧な檻に入れられていた。
父を見た。父は、目を逸らした。
ヴィンセルを見た。彼は――心配そうな顔で、頷いた。大丈夫、というように。君の潔白を信じている、というように。
ああ。
この人は、本当に何も知らないで、私を檻の奥へ押してくれるのね。
「では――検分の儀を、執り行います」
神官の手が、私の左袖を、肩まで割り開いた。
衆目の前で肌を晒される。それだけで、この国の娘には死に等しい。誰かが息を呑む音がした。扇の陰の囁きが、さざ波のように広がる。それでも、まだ、肩には紋様があった。今朝も夜明け前に描いた、母の配合の、銀色の絵。
聖水が、柄杓で掬われた。
――逃げ場を、探さなかったと言えば嘘になる。
叫ぼうか。倒れようか。神官の手を振り払って走り出そうか。十五の私は、一瞬のうちに百通りの逃げ道を考えて、百通りすべてが「答え合わせ」にしかならないことを悟った。
だから、立っていた。
背筋を伸ばして。母に教わった姿勢で。
聖水が、肩に落ちた。
冷たさは、感じなかった。感じたのは、温度ではないものだった。十八の今でも、うまく言葉にできない。強いて言うなら――溶けていく音。六年間、二千回あまり、夜明け前に息を止めて描き続けたものが、肌の上でほどけて、鎖骨を伝って、床へ流れ落ちていく、音。
銀色の水滴が、大聖堂の白い床に、ぽた、ぽた、と落ちた。
私の六年が、床の染みになった。
「…………インク?」
誰かが、言った。
それからの大聖堂を、私は今でも、水の中の出来事のように覚えている。どよめき。悲鳴に近い囁き。「消えている」「描いていたのだ」「偽装だ」――そこへ追い打ちのように、義妹が涙ながらに「拾った」と差し出した紙束が読み上げられた。私の筆跡によく似た字で綴られた、見知らぬ男との、偽物の恋文が。「では、噂は真実」――欠けた器、と誰かが言った。欠けた器。欠けた器。言葉が壁に反響して、鐘の音みたいに頭の中で鳴り続けた。
リュシオラが泣き崩れていた。「お姉様、どうして……わたくし、信じておりましたのに……!」
完璧な涙だった。この検分を仕組んだ張本人が、いちばん美しく泣いていた。
私は――たったひとつ残った望みに、手を伸ばした。
「ヴィンセル様」
彼は、祭壇の下に立っていた。真っ青な顔で。
「聞いてください。相手は、あなたです。九歳の春、魔獣の――」
「やめてくれ」
「私と交換してくだされば、分かるのです。私の魔力があなたの中に、あなたと交換すれば、それが、証明が」
「やめてくれ!」
悲鳴のような声だった。
彼は一歩、後ずさった。私から。汚れたものから距離を取るように、一歩。
その一歩が、すべてだった。
大聖堂中の目が、その一歩を見た。婚約者に縋る「欠けた器」と、後ずさる潔白な騎士。物語は完成した。あとから何を言っても、誰の記憶からも、あの一歩は消せない。
……ずっと後になって、知った。彼が後ずさった本当の理由。彼の腕にももう紋様がないこと。恩人と信じる女に捧げてしまったこと。私と交換すれば、それが露見すること。
あの一歩は、保身だった。
愛する人を庇うためですら、なかった。
*
その夜の私を、覚えている。
離宮に戻って、泣き腫らして、それでも夜明け前に――私は、鏡台の前に座ったのだ。
乳鉢に、銀盃草の粉を三。月見草の油を一。
もう全部の人が知っているのに。描いたところで、誰も騙せないのに。それでも指が、六年の習いのままに動いた。描き終えて、鏡の中の自分を見て、自分がいちばん驚いた。
どうして描くの、と鏡の私に訊いた。
鏡の私は、答えなかった。
今なら、分かる。あれは嘘をつくためじゃなかった。あの朝の私に、紋様を描くことだけが、まだ世界と繋がっている唯一の手順だったのだ。祈りに似ていた。母様が、ごめんねと言いながら教えてくれた、たったひとつの――
*
「――姫様。姫様!」
揺り起こされて、目が覚めた。
タリサの顔。見慣れた敵国の天蓋。窓の外は、夜明け前だった。
「うなされて、いらっしゃいました……その、肩を、ずっと押さえて」
「……夢を見ていたの」
左肩に、自分の手が乗っていた。夜着の下の、何も描かれていない肩に。
私はゆっくりと手を離して、息を吐いた。大丈夫。ここはあの大聖堂ではない。聖水の水盤も、扇の陰の囁きも、後ずさる一歩も、国境の向こう。この肩はもう、誰の検分も受けない。
それでも夢は、見るのだ。
傷というものは、癒えることと、消えることが、違うから。
「タリサ。……昔、あなた、湯殿の扉の前にずっと立っていてくれたでしょう」
「え? ……はい。立ってました。姫様がお呼びになるまで、何刻でも」
「あれに、命を助けられていたのよ。……ずっと言いそびれていたわ。ありがとう」
タリサは、寝ぼけ眼を丸くして、それからくしゃりと笑った。
「変な姫様。夜明け前から、急に」
窓の外が、白み始める。
かつての私が、息を止めて筆を握っていた時刻。今の私が、ただ眠っていられる時刻。
その朝、故国から一通の手紙が届いた。いつもの他愛ない近況。開かずの物置の掃除が済んだこと。探し物が見つかったこと。
そして最後の、一文。
『物置の主は、お姉様のことを、最後の最後まで書いておいででした』
――母様が。
最後の、最後まで。
手紙を持つ手が、震えた。九年、夜明け前に止め続けた息を、私はもう一度、そっと吐き出した。
断罪の日が、また一歩、近づいた音がした。




