第22話 日記奪還(※国元・ルティア視点)
月のない夜を、ルティアは三つ数えて待った。
一つ目の闇夜は、見送った。継妃の外出が急に取り止めになったから。二つ目も、見送った。廊下の見張りが顔見知りでない女中に替わっていたから。
焦るな、とルティアは自分に言い聞かせる。姉ならそうする。急いた獣は足跡が深くなると、あの人は言った。
そして三つ目の闇夜――今夜、条件がすべて揃った。
継妃グリゼルダは観劇へ。供は四人。私室の廊下の見張りは、あの「階段の糸」の小間使い。今やこちらに給金の恩がある、名もない味方のひとり。
それから、もうひとつ。
今夜は、兄オーレリアンが「発作」を起こす手筈になっていた。
*
夜半、王太子宮から悲鳴じみた声が上がった。
「殿下が! 殿下のご容態が……! 医師を、早く医師を!」
屋敷中の灯りが、いっせいに王太子宮へ吸い寄せられていく。廊下を駆ける足音。叩き起こされる薬師。毒の芝居はもう半年続いている。日に日に窶れていく(ように化粧を施した)王太子の「発作」を、疑う者はこの屋敷にいない。
毒を盛っている側の人間たちは、なおさら疑わない。自分の毒が効いている、と思うだけだから。
――兄様、お芝居の腕を上げましたね。
ルティアは繕い物の籠を抱えて、逆方向へ歩き出した。騒ぎと反対へ向かう使用人など、誰の目にも映らない。十六年、この屋敷で「映らないこと」だけを磨いて生きてきた。今夜ほど、その十六年が頼もしい夜はなかった。
継妃の私室の錠は、蝋型から起こした合鍵で、音もなく開いた。
*
香の匂いのする部屋だった。
甘く重い、異国の香。継妃が纏うあの匂いを、ルティアは吸わないように浅く息をした。灯りは点けない。窓明かりだけで動く。
書き物机、違う。長持、違う。衣装箪笥の裏、違う。
姉と何度も文で擦り合わせた読みは、こうだ――あの女は日記を「使う」ために取ってある。使う物は、遠くには仕舞わない。手の届く場所、けれど人の手の届かない場所。
寝台脇の飾り棚。祈りの聖典が並ぶ、いちばん敬虔な顔をした一角。
その聖典の一冊が、箱だった。
中に、青い革の手帳。銀の留め金。表紙の隅に、小さな家紋の空押し。
姉から聞いた特徴と、ひとつ残らず一致していた。先の王妃エルヴィーネの日記。八年前に死んだ人の言葉が、殺した女の寝台の隣で、聖典の顔をして眠っていた。
ルティアは懐から、用意の品を出した。同じ青革、同じ銀の留め金の、偽の手帳。装丁職人に「亡き母の形見とそっくりの日記帳が欲しい」と涙ながらに頼んで作らせた、中身が白紙の双子。
本物を籠の繕い物の下へ。偽物を聖典の箱へ。
箱の角度、留め金の向き、埃の具合。指が覚えるまで姉と文で確認し合った通りに、すべてを元に戻す。あの女が次にこれを開けるのは、「使う」とき。その日が来る前に、すべてが終わっていればいい。
部屋を出て、錠を下ろした。
廊下の角を曲がった、そのとき。
「――あら」
心臓が、止まりかけた。
リュシオラが、立っていた。
夜会帰りの装いのまま、燭台を手に、こちらを見ていた。母の真珠が、蝋燭の火で鈍く光った。
「誰かと思えば。……ルティア、だったかしら」
名前を思い出すのに一拍かかる、その間合いさえ計算されている。おまえの名など覚える価値もない、という間合い。
「夜分に失礼いたします、リュシオラ様。殿下のお加減が悪く、皆さま手が足りませんで……お部屋の繕い物を、片づけておくようにと」
ルティアは籠を抱えたまま、深く頭を下げた。俯くのは得意だ。十六年、俯いて生きてきた。籠の中、繕いかけの敷布の下で、青い革の手帳が息を潜めている。
リュシオラの視線が、すっと動いた。
顔から、籠へ。
「……ふうん」
白い指が伸びてきて、籠の中の敷布を、一枚、つまみ上げた。
心臓の音が、聞こえてしまう。指の先まで血の気が引く。それでもルティアは、俯いたまま動かなかった。動いたら、終わる。姉の顔を思い浮かべた。眉ひとつ動かさずに聖水を浴びたという、あの人の顔を。
「繕い物にしては、ずいぶん上等な敷布ね」
「……継妃様のお部屋の物ですので」
「ふふ。そう。お励みなさいな」
敷布が、籠に落ちた。
燭台の灯りが遠ざかっていく。角の向こうに衣擦れの音が消えるまで、ルティアは頭を下げ続けた。
顔を上げたとき、背中は、ぐっしょりと濡れていた。
*
自室――使用人棟の隅の、寝台と葛籠しかない小部屋で、ルティアは蝋燭を一本だけ点し、青い手帳を開いた。
几帳面な、優しい筆跡が並んでいた。
薬草の配合の覚え書き。庭の花の記録。幼い王女の成長の記録――「リディが今日、初めて刺繍を完成させた」「リディの結界は、私の目にはもう、母を越えている」。
頁の合間に、あの春の日の記述があった。読み進めるほど、指が震えた。九歳の姉に起きたこと。母親だけが気づいた消えた紋様。誰にも言えない決断。インクの配合。「ごめんね」と幾度も繰り返される、母の悔い。
そして――最後の頁。
最後の頁を読んだとき、ルティアは長いあいだ、動けなかった。
これは、駄目だ。
これだけは、写しでも、暗号の文でも、伝えてはいけない。この頁は、お姉様が、自分の目で読まなければいけない。
ルティアは手帳を胸に抱いて、決めた。日記は明朝、兄に預ける。兄の手で、誰にも触れない場所に。そして裁きの日、しかるべき場所で開かれるまで、動かさない。
文机に向かい、いつもの他愛ない手紙を書く。震えの残る指で、それでも筆跡だけは崩さずに。
『お姉様へ。こちらは変わりございません。
――開かずの物置のお掃除、無事に済みました。探し物も、思ったより良い場所に仕舞ってございました。
中身は、いずれお姉様がお戻りの際に。ただ、ひとつだけ。
物置の主は、お姉様のことを、最後の最後まで書いておいででした。それだけ、先にお伝えいたします』




