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敵国に嫁いだ長女は振り返らない  作者: 鷹居鈴野


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第21話 描かなくていい朝

 夜明け前に目が覚めるのは、九歳からの習い性だ。


 誰よりも早く起きる。灯りをひとつだけ点す。鏡台の前に座り、抽斗の奥から小さな木箱を出す。


 箱の中身は、乳鉢と、さじと、幾種かの薬草の粉。それから、母の形見の細筆。


 配合は、体が覚えている。銀盃草の粉を三、月見草の油を一。混ぜて、練って、艶が出たら、鏡に映した左肩へ――消えたはずの紋様を、在りし日の形のままに、描く。


 線の一本もゆるがせにはできない。本物の紋様は、体のどこよりも肌理が細かい。筆先が震えれば偽と知れる。だから夜明け前の私は、九年、息を半分止めて生きてきた。


 母が言った。『いいこと、リディ。指ではなく、呼吸で描くのよ』


 母が言った。『誰にも言ってはいけないよ。……ごめんね。ごめんなさいね』


 謝りながら筆を握らせた母の手の温度を、私はまだ、指の付け根のあたりで覚えている。


 *


 その朝も、いつも通りに木箱を開けた。


 乳鉢に銀盃草の粉を落とし、匙を取り――そこで、手が止まった。


 鏡の中の自分と、目が合ったからだ。


 ……ねえ。


 あなた、それ、誰のために描くの?


 検分は、もう来ない。この国に、検分という儀式そのものがない。私の肩がどうであろうと、法にも契約にも触れないと、この国でいちばん偉い人が評議の場で言い切った。侮辱の手紙は半刻で敵の尻尾に変わり、差出人の側が今、追われている。


 夫となった人は、すべてを知っている。知った上で、床に膝をついた。


 九歳のあの春から、この肩を偽り続けてきた理由が――この国には、ひとつも、ない。


「……姫様?」


 灯りに気づいたタリサが、寝ぼけ眼で覗きに来た。そして鏡台の木箱を見て、すぐに顔を引き締める。この子は祖国にいた頃から、朝の「支度」の見張り役だった。扉の外で、誰も来ないよう立っていてくれた。


「お手伝い、しますか」


「……いいえ」


 自分の声が、我ながら不思議なほど静かだった。


 私は乳鉢に落とした粉を、そっと壺に戻した。匙を拭い、細筆を布に包み、木箱の蓋を、閉じた。


「今日は、描かないわ」


 タリサが、大きく目を見開いた。


「……あの、それは、その……もう、ずっと、ですか?」


「ええ。もう、ずっと」


 言葉にした途端、自分の中の何かが、音もなく緩んだ。九年、息を半分止めていた誰かが、初めて肺いっぱいに息を吸ったような。


「この国では――描かなくて、いいの」


 タリサは、しばらく黙っていた。


 それから、ぼろぼろ泣いた。


「っ、ふ……うぅ……だって、姫様……あたし、ずっと、ずっと見てたんです。姫様が夜明け前に、ひとりで、鏡の前で……声をかけちゃいけない気がして、扉の外で、何度も、何度も……っ」


「タリサ」


「よかった……よかったですねえ、姫様ぁ……」


 人の分まで泣いてくれる子がいると、自分は泣かずに済む。


 私は泣きじゃくる乳姉妹の背を撫でながら、窓の外の白み始めた空を見ていた。この空の下では、私の肩は、ただの肩だ。誰の検分も受けない。誰の純潔の証でもない。九年ぶんの夜明け前を、今日からぜんぶ、眠っていい。


 ――母様。


 あなたが「ごめんね」と言いながら教えてくれた筆を、置きます。


 あなたの娘は、描かなくていい場所を、見つけました。


 *


 木箱は、捨てなかった。


 抽斗のいちばん奥に、鍵をかけて仕舞った。忘れたいものなら燃やせばいい。けれどこれは、忘れてはいけないものだ。あの国が娘たちに何をさせてきたか、その物証として、いつか役に立つ日が来るかもしれない。


 それに――ふと、指を止めて思う。


 この配合を知る人間は、世界に、もう私しかいない。


 母が独りで工夫した、母と私だけの配合。銀盃草三に、月見草の油が一。書き付けたものは、母の日記のほかには存在しない。そしてその日記は、母の死後、遺品ごと継妃けいひの手に渡ったきり――。


 ……いいえ。


 今は、そこまで。考えの先に灯りが見えかけた気がしたけれど、朝の廊下に人の気配が増え始めていた。この思考は、鍵のかかる場所に仕舞っておく。


 *


 その日の夕刻、洗濯物の籠の底から、ルティアの「香草湯の文」が届いた。


 いつもの他愛ない近況。屋敷の桜桃が実ったこと。新しい料理番の腕がいいこと。そして最後に、こう書いてあった。


『それから、お姉様。長らく失くしていた開かずの物置の鍵が、ようやく見つかりそうです。中のお掃除は、月のない夜にゆっくりと、と思っております。埃がひどいでしょうから、どうかご心配なさらず』


 開かずの物置。


 月のない夜。


 ――継妃の私室の鍵を、手に入れたのだ。あの子は。


 私は手紙を蝋燭の火にかざしながら、遠い祖国の、亜麻色の髪の妹に囁いた。


「……気をつけて、ルティア」


 母の日記が、動き出す。

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