第19話 堰き止められた力
宮廷魔導学院の観測室は、静かな部屋だった。
白い石の床に、銀の環がいくつも描かれ、その中心に椅子がひとつ。壁際には水晶の計器が並び、老学士モルデンと弟子たちが、羽根ペンを構えて待っている。
「お楽になさってくだされ、妃殿下。痛みも、触れることもございません。魔力の流れを、外から測るだけですでな」
「はい」
椅子に座る。環が淡く光り、計器の水晶に、細かな光の筋が走り始めた。
モルデン翁の白い眉が――すぐに、寄った。
「……ほう?」
ペンが走る。弟子が計器を覗き、目を見開き、隣の弟子と場所を代わる。
「これは……先生、この純度、計器の狂いでは」
「狂っておらん。三番の水晶で取り直せ。……ふうむ。ふうむ?」
翁は唸りながら、私の周りをゆっくり歩いた。
「妃殿下。率直に申し上げてよろしいかな」
「どうぞ」
「殿下の魔力は、観測史上最高純度の守護系でございます。結界の質だけならば、あの国境の『盾』を織った初代の巫女にも比肩しましょう」
観測室が、ざわめいた。
私は、黙っていた。褒め言葉を受け取り損ねたのではない。翁の顔が、褒めている顔ではなかったからだ。
「――ですが、妙ですのじゃ」
翁は、水晶のひとつを指した。光の筋が、途中で細く、細く、絞られている。
「これほどの水源を持ちながら、流れ出る量が、あまりに細い。譬えるなら……大河の水源に、岩で蓋がされておる。堰き止められておるのですよ、殿下の力は。それも、昨日今日ではない。この堰は――十年近いものです」
九年だ。
九歳の、あの春から。
「モルデン」
壁際で腕を組んで聞いていたラグヴァルドが、口を開いた。
「原因は分かるか」
「調べるまでもございませんな。古典的な、しかし今どき教本でしか見ぬ症例で……初魔力の、一方的な喪失でございます。
本来、初魔力を捧げるとは、贈るだけの行為ではございません。贈った分、相手の魔力を混ぜて受け取り、器の中でふたつを溶け合わせて、初めて完成する契約なのです。それも七割を超える大きな贈り物であれば、なおのこと。
ところが殿下は、九つの御年で、七割を超える初魔力を、ただ一方的に贈られただけ。受け取るはずだった相手の魔力は、一滴も混ざっておりませぬ。贈った分だけ、器に穴が開いたまま塞がれず――器の蓋が、開かなくなったのでございます」
翁は、痛ましげに私を見た。
「殿下。あなた様はおそらく、生まれてこのかた、ご自分の力の一割も使えたことがない」
*
一割も、使えたことがない。
その言葉が、ゆっくりと、九年ぶんの記憶に染みていった。
――地味な魔法しか使えない令嬢。
――守りの魔法? ああ、使用人の。
――王女殿下の魔力では、夜会の飾り灯りも賄えませんでしょう。
嘲笑のひとつひとつを、私は「そういうもの」として飲んできた。私は地味で、弱い。それが私という器の、生まれつきの寸法なのだと。
違った。
器は、最初から、大河を宿していた。
九歳の春、彼の命に注いだあの日から、蓋をされていただけだった。
九年の嘲りの正体は、生まれつきの寸法ではなく――人ひとりの命を救った、代償だった。
力は、ずっと私の中にあったのに。それを返すはずだった人は、九年前、私が命を救った少年だった。
「……ふ、ふふ」
気づけば、笑いが漏れていた。観測室の全員が、ぎょっとしたのが分かった。泣くところなのだろう、きっと。けれど込み上げてきたのは、涙よりも笑いだった。
だって、そうでしょう。
あの人たちは九年ものあいだ、「命の値段」を地味だと笑っていたのだ。私を欠けた器と呼んだ国は、器の中身を一度も測りもしないで。
「失礼いたしました。……モルデン様。ひとつ、伺っても」
「なんなりと」
「堰き止められた力が、それでも僅かに通うときが、あるのではありませんか。……たとえば、私の魔力を宿した相手の、そばにいるときに」
翁の眉が、跳ね上がった。
「――ご明察。共鳴でございます。贈った魔力は、相手の内で生き続けますでな。宿主の近くでは、宙に浮いた契約が半端に繋がって、堰の隙間から水が通う。……お心当たりが?」
「ええ。……少しだけ」
心当たりどころではなかった。
戦場の数ヶ月。従者の姿で彼の隣にいたあの日々、私の結界は不思議なほどよく通った。夜襲を三度止め、毒矢を二度逸らし、崩れる岩壁さえ支えた。あれは私の力が急に伸びたのではなかった。彼のそばでだけ、私は本来の私に近づけていたのだ。
なんという皮肉だろう。
私の力を封じた張本人の隣が、この世でいちばん、私が力を振るえる場所だったなんて。
「回復の道は、二つございます」
モルデン翁は、指を二本立てた。
「一つは、殿下が新たにどなたかと相互の交換を果たすこと。宙に浮いた古い契約は上書きされ、器は完成し、堰は消えまする。……ただし殿下のお国の重さで申さば、これは軽々に口にすべきことではございませんな」
翁は心得た顔で、それ以上は言わなかった。この老人にも、大公から「あの物差し」の通達が行き渡っているらしい。
「二つ目は?」
「返還でございます。贈った初魔力を、契約魔法の儀を以て、宿主から返してもらう。器は元の形に戻りまする。……もっとも、これには宿主本人の同意と立ち会いが要りますでな。その、なんと申しますか……先方は、殿下の祖国の御仁でございましょう?」
「ええ。……当分は、無理そうですわね」
彼は今ごろ、義妹との結婚に向けて支度をしている頃だろう。あなたの中に私の魔力が眠っています、返してくださいな――そんな話が通じる相手なら、そもそもこの九年は、なかった。
いい。
急がない。九年待ったのだ。あと少し待つくらい、どうということはない。
それに――返してもらう舞台なら、もう決めてある。
*
観測室を出ると、ラグヴァルドが廊下で待っていた。
「……歩くか」
並んで、回廊を歩いた。彼はしばらく黙っていて、中庭の噴水が見えるあたりで、ようやく口を開いた。
「怒っている」
「殿下が、ですか?」
「ああ。……九歳の子どもが命の恩を売られ、力を封じられ、あげく九年、その代償を『地味』と嗤われた。魔力を交換しようが、捧げようが、穢れなど、どこにもない。そんなことで人を裁くほうが、よほど馬鹿げている。……君の国は、君に謝るべきことが多すぎる。目録を作ったら、書庫がひとつ埋まるぞ」
「まあ。では、利子も付けていただかないと」
「付ける」
彼は真顔で言った。冗談を言った私のほうが、置いていかれた。
「言ったはずだ。この国が代わりに取り立てる、と。……手始めに、明日から学院に通え。モルデンが、堰の隙間を広げる訓練を組む。一割が二割になるだけでも、君の結界は軍の一個中隊に化ける」
「……ふふ。妃を兵力に数える殿方は、あなたが初めてですわ」
「戦友だからな」
当然のように、彼は言った。
夕陽が回廊に長く差して、二人分の影を石の床に伸ばしていた。影と影の距離は、この国に来た日より、拳ひとつぶん近い。
――その夜、祖国から一通の手紙が届いた。
宛先は、リンドヴェール外務官房。差出人は、匿名。
中身は、大公妃の「醜聞」を懇切丁寧に綴った――密告状だった。




