第18話 魔獣の夜の告白
君は、何者だ。
その問いに、嘘で答える道は、いくらでもあった。
賢い妃の顔で「ただの本好きの姫です」と躱すことも。哀れな被害者の顔で泣いてみせることも。十八年の宮廷暮らしで、面の被り方なら誰より覚えた。
けれど――この人は、手の内を晒した人間を「戦友」と呼んだ人だ。
なら、私も晒そう。
言えないことは、ひとつだけ。それ以外の全部を。
「……長いお話に、なります」
「構わん。夜は長い」
ラグヴァルドは酒器を脇に押しやり、聞く姿勢をとった。戦場で斥候の報告を聞くときも、きっとこの座り方をするのだろう。
私は、話し始めた。
*
「九つの春のことです。狩猟の集いで、幼馴染の少年が、炎を吐く魔獣に襲われました」
山桜の森。雪解けのぬかるみ。焔狼の咆哮。
「気づいたら、私は少年と魔獣の間に立っていました。結界が、勝手に開いたのです。生まれて初めての、銀色の結界が。……けれど魔獣を退けたとき、少年はもう、息をしていませんでした」
「……ふむ」
「九歳の私は、何も知りませんでした。ただ、消えかけている命に、自分の中のいちばん温かいものを注げばいいと、それだけを思いました。……注ぎ方を、体が知っていたのです」
ラグヴァルドの目の色が、変わった。
この国の人間だ。九歳の子どもが何をしたのか、言い終える前に理解している。
「初魔力を、注いだのか。相互の契約もなしに、一方的に」
「はい」
「……九歳で」
「意味を知ったのは、ずっと後です。母だけが気づきました。私の肩から、紋様が消えていることに」
母の指が、消えた紋様の場所をなぞった夜のことを、今でも覚えている。母は泣かなかった。ただ私を抱きしめて、それから薬草を煮て、小さな筆を取った。
「母は言いました。『誰にも言ってはいけないよ』と。そして、消えた紋様を薬草のインクで描き直す方法を、私に教えました。……以来、私は毎朝、自分の肩に自分の純潔を描いて生きてきました。九つの歳から――実を申せば、この国に来た今も、毎朝」
部屋の蝋燭が、ぱちりと爆ぜた。
ラグヴァルドは何も言わなかった。先を促しもしなかった。ただ、卓の上で組んだ自分の手を、じっと見ていた。
「少年は助かりました。けれど目覚めた彼が最初に見たのは、私ではなく――偶然そこに居合わせた、別の少女でした。彼はその子を命の恩人だと思い込み、以来ずっと、その子を想い続けました。……最初は、話したのです。あの子を助けたのは私だ、と。けれど、誰も信じてはくれませんでした。地味な守りの魔法しか使えない娘に、魔獣から人を救えたはずがない。噂は嘘つき呼ばわりへと変わって、以来、私は二度と口にしませんでした」
「その少年が、例の――婚約者だった男か」
「はい。そして恩人と思い込まれた少女が、私の義妹です」
彼の指が、ぴくりと動いた。将棋盤の駒が繋がっていく音を、聞いた気がした。
「検分の話も、いたします」
私は続けた。声が震えないように、ゆっくりと。
「十五の年、義妹の差し金で、私は公開の検分にかけられました。聖水が肩を流れて、インクの紋様が、皆の前で溶けて落ちました。……消えていたことよりも、描いて隠していたことのほうが、罪とされました。婚約者がありながら、別の男に魔力を捧げた、ふしだらな女――それが、あの場で私に下された名でした。相手の名を仕立てた偽の恋文も、添えられておりました」
「――待て」
低い声が、遮った。
「その場に、婚約者の男はいたのか」
「おりました」
「男は、何を」
「……私は、彼に頼みました。あなたが私と交換をしてくだされば、私の魔力があなたの中にあると分かる。相手があなただと、証明できるのです、と」
「男は、断ったのだな」
「はい」
「なぜだ。命の恩人だろう、君は」
「彼はそれを知りません。それに――彼にはもう、返す初魔力がありませんでした。恩人と信じる義妹に、とうに捧げてしまっていたので」
今度こそ、はっきりと聞こえた。
ラグヴァルドが、奥歯を噛む音が。
「……つまり、こういうことか」
彼は一語ずつ、事実を積み直すように言った。
「君は九歳で、男の命に初魔力を使った。男はそれを義妹の手柄だと思い込み、義妹に自分の初魔力を捧げた。そして君が衆目で裁かれる段になると、己の消失が露見するのを恐れて口を噤み――君の消失だけを、公にした」
「公にしたのは正確には周囲ですけれど……ええ。彼は、止めませんでした。それどころか翌日、騎士団の詰所でこう言ったそうです。『あの女の潔白を信じていた自分が愚かだった』と」
「――は」
短い、乾いた音だった。笑いの形をした、まったく笑っていない音。
ラグヴァルドは立ち上がると、窓辺まで歩いて、夜の大結界を睨んだ。広い背中が、静かに怒っていた。肉親でもない人が私のために怒るのを、私は生まれて初めて見た。
「……ひとつ、確かめる」
やがて彼は、振り向かずに言った。
「君の国で、純潔、純潔と騒がれるそれは。娘たちが命より重く守らされる、その初魔力というやつは」
「はい」
「君は、それを人の命に使ったのか。九歳で。誰にも言わず、九年、ひとりで抱えて」
「…………はい」
沈黙。
それから彼は振り返り、私のところまで戻ってくると――床に、片膝をついた。
戦神と呼ばれる男が、敵国から来た妃の前に、騎士の礼をとった。
「殿下……!?」
「リンドヴェールでは、戦場で兵の命を庇った者に、階級を問わずこの礼をとる。……九歳の君に、誰かがこれをしているべきだった。九年、遅れた」
「……っ」
泣くまい、と思った。
思ったのに、視界が揺れた。
欠けた器と呼ばれた。描いて偽って生きてきた。祖国で私の九年は、恥だった。その同じ九年が、国境をひとつ越えただけで――誉れと呼ばれている。
「殿下は……お尋ねになりました。私は何者か、と」
私は、震える息を整えて、答えた。
「一度すべてを失った女です。失った人間は、次に失うものの順番を覚えます。だから私の目は、時々、先の廊下を見ているように見えるのでしょう。……今はこれが、精いっぱいの答えです」
言えないことが、まだひとつある。そう白状しているのと同じ答えだった。
ラグヴァルドは立ち上がり、頷いた。
「いいだろう。残りは、君が話したくなった日でいい」
そして彼は、卓の呼び鈴を鳴らしながら、こともなげに付け加えた。
「モルデンを呼ぶ。学院の観測に、君の魔力を掛けさせろ」
「……観測、ですか?」
「ああ。――九歳から利子のついた借りを、この国が代わりに取り立ててやる。まずは、君が本当は何を失わされてきたのか、数字で知るところからだ」




