第16話 濡れ衣
その事件は、前世の記憶に、なかった。
輿入れから二月目の朝。大公の毒見役が、倒れた。
朝食の香茶に混ぜられていたのは、遅効性の弱い毒。命に別状はない。けれど問題は毒の種類だった――ヴァルデンツの南部でしか採れない、鈴百合の根の毒。
そして香茶の缶は、私が祖国から持参した、婚礼の品のひとつだった。
「――大公妃殿下に、伺いたいことがございます」
昼を待たず、警務卿が兵を連れて離宮に現れた。宮廷の空気が、一夜で凍りついた。ほら見ろ、と誰かの目が言っていた。あの遅れた国の姫が、やはり。和平の道具の顔をした、刺客だったのだ、と。
「姫様は、そんなことなさいません!」
タリサが真っ青になって叫ぶのを、私は手で制した。
怖くは、なかった。
ただ、頭の芯が冷えていくのが分かった。これは前世に起きなかった事件。つまり、私が未来を変えたことで生まれた、新しい盤面。記憶という武器は、ここでは使えない。
いいでしょう。
記憶がなくても、私にはまだ、勘という武器がある。物心ついてからずっと、罠の中で暮らしてきた女の勘が。
「警務卿。取り調べ、謹んでお受けいたします。――その前に、三つだけお願いが」
「……何なりと」
「一つ。私の居室と荷を、今この瞬間、あなたの手で封印なさって。私を一歩も入れずに、です。二つ。持参品の目録の写しが、外務官房に提出してございます。原本と突き合わせを。三つ――」
私は静かに息を吸った。
「検分でも尋問でも、すべて公開でお願いいたします。密室で潔白を語っても、二度目の醜聞の種になるだけですから」
警務卿が、わずかに目を見開いた。
疑われた人間は普通、封印を嫌がり、目録を渋り、公開を恐れる。逆をやる被疑者を、この官吏は初めて見たのだろう。
――前世の私は、検分の壇上で、ただ震えて立っていた。
あの日から学んだのだ。冤罪と戦う唯一の方法は、潔白を「言う」ことではない。潔白が勝手に証明されてしまう手順を、先に組んでおくことだと。
*
審理は、三日で終わった。
まず、目録が語った。婚礼の香茶は二缶。封蝋つきで持参し、うち一缶は未開封のまま保管庫に。開封済みの一缶は、給仕の記録から割り出せる残りの量より、明らかに軽かった。誰かが中身を抜き、代わりの混ぜ物をして戻した痕跡。
次に、封蝋が語った。保管庫の記録では、私の荷に最後に触れたのは、二十日前に雇い入れられた新しい下男。その下男は、事件の朝から姿を消していた。
そして、消えた下男の寝床から出てきた空の毒瓶――その封蝋に、小さな紋章が押されていた。
翼を広げた、鷲。
「……見覚えが、おありか」
証拠を検めていた大公が、ふと私に瓶を差し出した。試すような、それでいてどこか、答えを知っている者の目だった。
見覚えは、あった。
前世の死の間際、継妃の口から聞いた国の名前が、喉元まで迫り上がった。ザイデルン。けれど、それを今ここで言えば――なぜ知っている、と問われて、答えられない。
「……鷲の意匠は、ヴァルデンツの家紋にはございません」
私は、事実だけを言った。
「ですが殿下。この毒瓶の主が誰であれ、狙いは殿下のお命そのものではないと存じます」
「ほう。根拠は」
「毒が、弱すぎます。戦神と呼ばれる御方を弑するに、毒見役が倒れる程度の量は、あまりに半端。……これは殺すための毒ではなく、私に着せるための毒。祖国の姫が大公を毒殺しかけた――その一報が国境を越えるだけで、和平は砕けます」
執務室が、静まり返った。
「妃を陥れて、和平を潰す。得をするのは、両国の和を望まない者。……両国の、外に」
言えるのは、ここまで。
あとは、この聡い人が自分で辿ればいい。
ラグヴァルドは長いあいだ、毒瓶の鷲を見つめていた。それから顔を上げ、警務卿に短く命じた。
「審理は妃の潔白をもって終了。……ただし捜査は終了ではない。この鷲の出所を、洗え。国庫から金が要るだけ出せ」
「はっ」
「それから」
大公は立ち上がると、居並ぶ廷臣たちを見渡した。
「この三日、妃は自ら封印を求め、公開の審理を求め、一度も取り乱さなかった。……俺の知る限り、潔白の振る舞いとして、これ以上のものはない。以後、妃への中傷は、俺への中傷と見做す」
凍っていた宮廷の空気が、音を立てて解けていくのが分かった。
妃への中傷は、俺への中傷と見做す。この国の言葉で、それがどれほど重い庇護の宣言か――「生涯ただひとり」の国の人々は、全員が正確に理解していた。
*
その夜、私は自室の窓辺で、封をした手紙を膝に置いていた。
ルティア宛の、香草湯の文。今日の一件を、暗号で知らせる文面はもう出来ている。ただ、最後の一行を書きあぐねていた。
鷲の紋。
ザイデルンの糸が、もう、この城の中まで伸びている。前世より、早い。私が未来を変えたぶんだけ、あちらも筋書きを書き換えて、前倒しで動き始めている。
――急がなくては。
こちらの武器は記憶と、勘と、それから。
窓の外の大結界を見上げて、私は今日の彼の声を思い出していた。妃への中傷は俺への中傷と見做す、と言い切った、あの声を。
……それから、たぶん。
思っていたより、ずっと早く増えつつある――味方と。
何より、あの人は今日、見返りも求めず私を守ってくれた。それが、ただ、ありがたかった。




