第15話 先進国の窓
リンドヴェールの宮廷は、私の知る「宮廷」ではなかった。
まず、廊下を歩く軍装の半分が女性だった。国境警備の第三軍団長ヘルガ将軍は、大公の軍議で平然と上座に着く。宮廷魔導学院の筆頭は白髭の老学士モルデンだが、その弟子の半分も娘たちだ。
夜会は少なく、会議は多い。着飾る金があるなら橋を直す、というのがこの国の気風らしい。
「……ここでは、女が意見を言っても、扇の陰で笑われないのですね」
ある日、思わずそう漏らした私に、案内役の女官長は不思議そうな顔をした。
「意見に男も女もございませんでしょう。使えるか、使えないか、それだけで」
使えるか、使えないか。
なんて風通しのいい、なんて容赦のない国だろう。
そして、その容赦のなさは、当然ながら私にも向けられていた。
*
「大公妃殿下は、刺繍がお得意だそうで」
宮廷の昼餐で、若い文官が言った。丁寧な言葉に、丁寧に棘が包んであった。
「ヴァルデンツの姫君は、皆さまそうして育たれるとか。歌と、刺繍と、お茶会と。……ああ、それから『検分』の作法も?」
卓の何人かが、笑いを噛み殺した。
私の「醜聞」は、とっくにこの宮廷に知れ渡っている。祖国が親切にも輸出してくれたのだろう。もっとも、この国では「交換済み」自体は醜聞にならない。彼らが冷ややかに見ているのは、女にだけ古い戒律を課して縛る、時代遅れの祖国のほうだ――そして、その古びた檻から来た妃も、どうせ檻の外では何もできまいと、そう値踏みされている。
和平の道具。刺繍しかできない姫。戦神に宛がわれた、哀れな異国の娘。
値踏みの視線は、祖国の社交界と同じ。違うのは、こちらの値踏みには「使えるか、使えないか」という、明確な物差しがあることだった。
――なら、話は早い。
「ええ、刺繍は得意ですのよ」
私は微笑んで、葡萄酒の杯を置いた。
「たとえば――今朝の軍議で問題になっていた、北西国境の補給路。あの峠道は、冬の三ヶ月、祖国側の雪崩で必ず塞がります。私、五年分の封鎖の日付を刺繍の下絵帳に控えておりますの。物資を廻すなら、峠ではなく旧河港の道。祖国の関税台帳では、あちらの道の商隊が冬でも月に六十輌は通っておりますから」
卓が、静まった。
「……なぜ、大公妃殿下がそのような数字を」
「刺繍の合間は、退屈ですもの」
退屈だったのは本当だ。誰にも相手にされない王女には、書庫の帳簿を読む時間だけは、たっぷりあった。前世と今世、合わせて二回分。
「よろしければ、続きもいかが? 祖国が和平交渉で必ず値切ってくる項目は三つ。塩、船板、それから軍馬の飼葉。逆に、絶対に譲れないのが染料の販路――理由は、王家の姻族が染料組合を握っているから。……このあたり、交渉の卓に着かれる方には、退屈な刺繍話ではないと思いますけれど」
昼餐の後、若い文官は顔色を変えて上官の元へ走っていった。
三日後、私の元に外務の官房から「非公式の茶会」の招きが届いた。茶会という名の、聞き取りだった。私は問われたことに、正直に答えた。祖国を売る気はない。ただ、両国が騙し合いをやめるための情報なら、いくらでも出す。騙し合いの先にある未来を、私はもう一度見てきたのだから。
「――おい。あの姫、何者だ」
廊下ですれ違いざま、ヘルガ将軍が副官に囁くのが聞こえた。
「刺繍の下絵帳に関税台帳を写す姫君なんぞ、四十年軍にいて初めて見たぞ。……腹が据わってるというか、何というか」
将軍。それはですね。
一度死んで、開き直った女は、大抵のことが怖くなくなるだけですのよ。
*
夜、自室に戻ると、タリサが目を輝かせて待っていた。
「姫様、聞いてください! 厨房の子たちがね、『妃様の峠の話、うちの兄の隊が助かった』って。それでね、これ、お礼だそうです」
卓の上に、素朴な焼き菓子の包み。
それから――洗濯物の籠の底に、故郷からの手紙が二通。
一通目は、ルティアの「香草湯の文」。読み解けば――兄様は今日も湯を「いただいて」おり、顔色の悪いお芝居は上々。ベルガは月に二度、王都の同じ質屋に通う。質屋の裏の家守は、ルティアの息のかかった味方になった。
二通目は、フェルゼン侯爵未亡人から。表向きは輿入れを寿ぐ長い長い世間話。その中に、こんな一節があった。
『先だっての婚儀の後、グランハルト様御夫妻を、夜会でお見かけしましたの。仲睦まじいご様子を、と皆さま噂しておりましたけれど……いいえ、とても。殿方は杯を重ねるばかりで、姫君は壁際にお一人。仲の良い夫婦がどんなものか、この歳になれば、ひと目で分かりますのよ』
壁際に、お一人。
それでいい。恋のために全部を捨てた騎士と、恋に落ちた義妹――二人が手に入れたはずの幸福が、こんなにも早く色褪せているのなら。
選んだ代償を、いちばん先に味わっているのは、あの二人自身なのだ。
……ふふ。
それにしても、あの老婦人。品よく書いて、言うべきことは全部言っている。大好きだ。
「タリサ。お返事を書くわ。墨の用意をしてちょうだい」
「はい!」
窓の外には、銀の大結界がうっすらと夜空を染めている。
敵国、と呼ばれていた場所で。
私は生まれて初めて、「使える女」として卓に着いていた。
罠も棘もない、ただ淡々と夜が更けていくだけの毎日。祖国にいた頃より、よほど穏やかな日々だった。




