第14話 相性を見よう
婚儀は、到着から十日目に執り行われた。
驚いたことに、この国の婚儀には、聖堂も祭壇もなかった。
あるのは一枚の契約書と、立会いの魔導学士たち。夫婦になるふたりが誓いの言葉を述べ、契約の魔法で結ぶ。それだけ。花も音楽も、飾りらしい飾りもない。
けれど、誓いの言葉を聞いて、私は認識を改めた。
「――リンドヴェール大公ラグヴァルドは、リディエンヌを生涯唯一の伴侶とし、その名誉を我が名誉として守ることを、魔力に懸けて契約する」
生涯、唯一の。
この国の婚姻は一度きり。側室も愛妾も、大公であろうと許されない。祖国でなら、地位ある男が複数の妻を持つのは当たり前のことだったのに。紋様がなくとも、誰にどれだけ魔力を捧げていようと、この国は驚くほど寛容だ。けれど、ひとたび誓いを交わした相手を裏切ることにだけは、指一本の容赦もない。男でも女でも、伴侶を裏切った者こそが断罪され、軽蔑される。誓いは契約の魔法で縛られ、破れば魔力ごと信用を失う。だからこの国の人間は、結婚を人生で何より重んじる。
祖国の婚儀を思い出す。花で埋まった大聖堂、三日続く宴、美しい誓いの言葉――そして王宮の奥に並ぶ、側室たちの部屋。
飾りが多いのは、中身が軽いからだ。
「リディエンヌは、ラグヴァルドを生涯唯一の伴侶とし――」
私も、誓った。
言葉が契約の魔法に縫い取られていく、その静かな重みを、肌で感じながら。
前世で挙げた婚儀に、この重みはあっただろうか。なかった。あの日の誓いは、言った端から風に消えていく、ただの音だった。
*
事件は、婚儀の三日後に起きた。
場所は大公の執務室。同席は魔導学士が二名。議題は「大公妃の魔力の登録」という、この国では出生届に等しい事務手続きだった。
「では、これで登録の書付は終いだ」
ラグヴァルドは書類を置くと、事務の続きと寸分違わぬ調子で、こう言った。
「あとは相性を見よう。妃、手を」
「……相性、とは」
「軽く通わせるだけだ。一割ほど。互いの質を知っておけば、有事に補い合える。学士の立会いもある。すぐ済む」
――手が、動かなかった。
一割でも、紋様は揺らぐ。祖国ではそれだけで、社交界から消される。
頭では、分かっていた。この国では通わせるのは日常の技術。挨拶の次に軽い行為。学士達の顔にも、含むところなど何ひとつない。書類仕事の続きの、ただの確認作業。
それでも。
聖水が肩を伝う感触を、体が覚えていた。衆目の中で、インクの紋様が流れ落ちていく、あの永遠のような数十秒を。欠けた器、と誰かが囁いた声を。父が目を逸らした、あの角度を。
「妃?」
「…………申し訳、ございません」
声が、掠れた。長年、完璧に被り続けた淑女の面が、こんな事務手続きひとつで割れかけている。自分がいちばん、驚いていた。
「少し……時間を、いただけますか」
沈黙が落ちた。
学士たちが、戸惑い顔を見合わせる。異国の妃は通わせるひとつ渋るのか、と書かれた顔で。違う、そうではないの、と言い訳する言葉を、私はまだこの国の言葉で持っていない――
「――全員、出ろ」
低い声が言った。
学士たちが慌ただしく退出し、扉が閉まる。二人きりの執務室で、ラグヴァルドは椅子の背にもたれ、しばらく黙って私を見ていた。責める色は、なかった。観察の目でもなかった。強いて言えば、それは――自分の失策を数えている目だった。
「……ひとつ、確かめたい」
やがて彼は言った。
「貴国では、魔力交換は――軽いものではないな?」
「…………はい」
「どの程度、重い」
どの程度。
それを説明する言葉を、私は探した。探して、結局、いちばん裸の言葉しか見つからなかった。
「――生涯に、ただ一度。夫婦の閨でだけ許されるものです。婚前の娘は、『未交換』であることが純潔と呼ばれ、紋様がその証とされます。紋様を失った女は……」
「失った女は?」
「『欠けた器』と呼ばれます。……人前で検分にかけられ、社交界から葬られます。男は、咎められませんけれど」
言い終える前に、彼が短く息を吐いたのが分かった。溜息というより、何かを呑み込む音だった。
「なるほどな。……つまり俺は今、貴国の物差しで言えば」
彼は自分の言葉を確かめるように、ゆっくり言った。
「婚儀の三日後に、書類仕事のついでに、閨の話をしたわけだ。学士を二人、立ち会わせて」
「……この国の物差しでは、何の非礼でもないと、理解しております」
「理解と、体は別だろう。手が止まっていた」
見られていた。
当然だ。この人は戦神と呼ばれる男で、戦場で人の挙動を読み違えれば死ぬ側の人間だ。
ラグヴァルドは立ち上がると、卓を回って私の前に来た。そして、およそ戦神らしくない、慎重な――地雷原を歩くような速度で、言葉を選んだ。
「登録に交換は必須ではない。今日のことは忘れろ。……いや、違うな」
彼は言い直した。
「俺が、覚えておく。この件に関して、俺は貴国の物差しを使う。君の国の重さで、扱うと約束する」
「…………」
「返事は要らん。事務は終いだ。下がって休め」
私は一礼して、扉へ向かった。
把手に手をかけたところで、どうしても、ひとつだけ確かめたくなった。
「……大公殿下。おかしいと、お思いにならないのですか。挨拶ほどの軽さのものを、一生に一度と崇める国を。……古臭い、遅れた考えだと、お笑いにならないのですか」
この国の人々が、陰でそう笑っているのを、私はもう知っていた。
「笑わん」
即答だった。
彼は書類を置いて、まっすぐにこちらを見た。
「育った国が違えば、重いものも違う。君は生まれてからずっと、その重さの中で生きてきた。国境を越えた日から心まで軽くなれというのは、無茶な注文だろう」
「……では、私はこの国に、慣れなくてもよいと?」
「慣れてくれたら、嬉しい」
それは飾りのない、ただの本音の声だった。
「だが、急かさん。慣れるまでの間、この国の当たり前を君に押しつけるつもりもない。分からないことがあれば俺が説明する。君を笑う者がいれば、俺に言え。――君は君の速さで、この国を知っていけばいい。それだけの話だ」
――この人は。
扉を閉めて、廊下を歩きながら、私は自分の鼓動が少しだけ速いことに気がついた。
警戒しなければ、と思った。優しさに似たものには、二度と騙されないと決めたのだから。
……それでも。
「君の国の重さで扱う」と言ったあの声が、生涯ただひとりと誓ったあの契約の重さと、同じ質量で胸に残っていた。




