第13話 国境の向こう
出立の朝は、よく晴れていた。
見送りの列は、驚くほど短かった。父は公務を理由に現れず、継妃は体調を理由に現れず、社交界は夜会の一件以来、どちらの味方をすべきか決めかねて息を潜めている。
それでいい。見送ってほしい人は、最初から三人だけだった。
「――荷の目録、写しはこちらに。母様の遺品は、全部で二十七点。一点でも欠ければ分かるようにしてあります」
ルティアが、旅装の私にだけ聞こえる声で言った。
首飾りは、すでに回収させた。競売の記録は、そのまま残る。グランハルト家に残るのは、真珠の代わりに――返らぬ金貨三百五十枚の穴だけ。
「屋敷のことは、任せたわ。……無理はしないで。あなたの仕事は探ることじゃなく、見ていることよ。見て、覚えて、月に二度、香草湯に見せかけた便りをちょうだい」
「はい。……お姉様も、どうか」
ルティアは言葉を探すように少し黙って、それから、ぎこちなく私の袖の端を握った。
「どうか、お元気で。手紙、必ず書きます」
前世では言葉すら交わさなかった妹と、私はもう、手紙の暗号を共有している。それだけで、この二周目は前世よりずっと豊かだ。
「ああ、それからルティア。三番街の代筆屋の隣に、小さな薬種屋があるでしょう。あそこの店主に、月々の払いを届けてほしいの。……ヤニクという従者の、母親の療養代よ」
「グランハルト家の、従者の?」
「ええ。理由は聞かないで。――昔、とても世話になった人なの」
まだ、なっていないけれど。
あの人が私に体を貸してくれる未来は、もう来ない。来ないようにしたのは私だ。だから恩だけが、私の中に宙ぶらりんで残っている。返す宛てのない恩ほど、落ち着かないものはないから、勝手に返させてもらう。
いつか彼が「なぜ」と気づく日が来たら――そのときは、あちら側にひとり、こちらに義理のある男がいるということ。それはそれで、いい。
*
「本当に、行くんだな」
兄は、馬上から国境の方角を睨んで言った。王都の外れまで、護衛と称してついてきたのだ。
「もう何度目ですの、それ」
「言わせろ。……俺は今でも、代わりに俺が交渉に立つべきだと思っている」
「兄様は王都で倒れていてください」
「おい」
「毒に蝕まれた哀れな王太子のまま、でいてくださいという意味です。ベルガの目の前では、湯を飲むふりをして、日に日に顔色を悪くして、時々執務を休む。……体の中に毒がないのなら、あとはただのお芝居でしょう?」
兄は苦い顔で笑った。
「おまえ、本当に容赦がなくなったな」
「ええ。妹ふたりの分まで、生きていていただきますから」
兄の役目は三つ。死んだふりならぬ「弱ったふり」でベルガと継妃を油断させること。母様の毒殺当時の帳簿と人の出入りを、静かに洗うこと。そして――生きていること。
「……リディエンヌ」
別れ際、兄は少しだけ迷って、言った。
「向こうで、辛くなったら書け。暗号でもなんでもいい。兄は必ず読む」
「はい」
「あと、その、あれだ。戦神だか何だか知らんが、おまえを泣かせたら、和平だろうが構わず殴り込む」
「まあ」
私は笑ってしまった。和平を蹴飛ばしかねない物騒な台詞なのに――こんなにまっすぐに心配される日が来るなんて、前世では思いもしなかったから。
*
国境までは、馬車で六日。
タリサは道中ずっと張り切っていた。「姫様の敵地に、あたしが行かないでどうするんです」と、志願して随行してくれた乳姉妹は、荷物の半分に故郷の茶葉を詰め込んでいる。
「あちらのお茶が口に合わなかったら大変ですから!」
「タリサ、あなたね……」
この子を連れて行くべきか、最後まで迷った。
前世の記憶が、囁き続けている。あの最後の夜、この子は毒の刃から私を庇って死んだ。私が狙われる限り、いちばん近くにいるこの子から、いちばん先に巻き込まれる。連れて行くことは、この子を私の危険のそばに置き続けることでもある。
けれど残していけば、王宮に残るのは、継妃の庭で無防備なタリサだ。私という主を失った乳姉妹を、あの母娘が放っておくとは思えない。
だから、連れて行く。連れて行って、今度こそ守る。前世で私を庇って流れた血を、私はもう、一滴も繰り返させるつもりはない。
――六日目の朝、国境が見えた。
「姫様、あれ……!」
タリサが窓に張りついた。
丘陵の稜線に沿って、空の色がわずかに違って見える帯があった。近づくほどに、それは光の壁になった。高さは雲に届き、幅は地平の果てまで。無数の銀の糸を撚り合わせたような、巨大な、巨大な結界。
リンドヴェールの国境大結界――通称『盾』。
戦神の武名と並ぶ、この国のもうひとつの伝説。
馬車が光の壁をくぐる、その一瞬。
肌が、ざわりと粟立った。恐怖ではない。もっと奇妙な感覚だった。譬えるなら――ずっと外国語だけで暮らしてきた人間が、雑踏の中で、ふいに母語を聞いたような。
この結界は、私の魔法と同じ言葉でできている。
「……ようこそ、というわけね」
地味な魔法。使用人の魔法。祖国でずっと侮られ続けた私の力と同じものが、この国では国を守る誇りとして、空を覆っている。
*
大公城は、黒曜石と白銀の城だった。
謁見の間に、玉座はなかった。代わりに長い黒檀の卓があり、その向こうに、その人は立っていた。
夜色の黒髪。金の瞳。左頬から首筋へ走る古い戦傷。噂に聞いた通りの、そして噂よりずっと静かな威圧を纏った長身の男――リンドヴェール大公、ラグヴァルド。
二度目の人生で、私の夫になる人。
「――遠路、ご苦労だった」
声は低く、短かった。
「先に言っておく。この婚姻は和平の道具だ。俺は貴国を信用していないし、貴国の王家の姫を歓迎する理由も、今のところ持ち合わせていない」
側近らしき文官が、ぎょっとした顔で大公を見た。外交辞令の欠片もない。けれど私は、この率直さが嫌いではなかった。三日三晩、美辞麗句で塗り固めた祖国の夜会より、よほど呼吸がしやすい。
「歓迎はしない。だが――公正には、扱う」
金の瞳が、まっすぐに私を見た。値踏みではなかった。観察だった。こちらの出方を、一切の予断なく測る目。
ならば、こちらも。
「十分でございます、大公殿下」
私は、祖国式の淑女の礼ではなく、この国の作法である胸に手を当てる略礼をとった。道中の馬車の中で、タリサと練習してきた略礼を。
「公正こそ、私が生まれてから今日まで、いちばん恵まれなかったものですので。――ぜひ、その公正とやらを、私にも味わわせてくださいませ」
大公の眉が、ほんのわずかに、動いた。




