第12話 婚約発表の夜会
大広間の千の蝋燭が、いっせいに燃えていた。
国中の貴族が集うヴァルデンツ王家の大夜会。今宵の演目が「第一王女の婚約解消の儀」であることは、もう誰もが知っている。皆、悲劇を見に来た顔をしていた。捨てられる王女の顔を、一目見ようと。
入場の刻限、回廊で私は独りだった。
本来、王女をエスコートすべき婚約者は――回廊の先で、菫色のドレスの義妹に腕を貸していた。最後の夜くらい取り繕うかとも思ったが、彼はそれすらしなかった。あるいは、それが彼なりの「誠実」なのか。
「ヴィンセル・グランハルト侯爵令息、ならびにリュシオラ王女殿下の、ご入場です」
扉が開き、拍手と、密やかなどよめきが漏れ聞こえる。
さて。
前世のこの瞬間、私は一人で入場した。千の視線に晒され、千の憐れみに刺されながら。今夜も一人――のはずだった。
「――遅くなった」
回廊の向こうから、鎧の音が近づいてきた。
旅装のまま、外套の雪も払わずに、大股でやってくる長身。母譲りの銀髪を短く刈った、菫色の瞳の武人。
「……兄様」
「父上から書状が来た。『武練の成果を直々に問う』とな。二年ぶりだぞ、あの人が俺を王都に呼ぶなど。……おまえの仕込みだろう、リディエンヌ」
オーレリアン兄様は、埃だらけの外套を脱ぎ捨てると、私の前で騎士の礼をとった。
「道中ずっと考えていた。毒のこと、手紙のこと、聞きたいことは山ほどある。だが、まずは……」
兄は顔を上げ、にっと笑った。前世の棺の中で、二度と見られなかった顔で。
「妹のエスコートが先だ。……行くか、姫」
「……ええ、喜んで」
差し出された腕に、手を添える。
扉が、開いた。
「オーレリアン王太子殿下、ならびに――リディエンヌ王女殿下の、ご入場です」
広間が、揺れた。
二年ぶりに公の場へ現れた「疎まれた王太子」と、今宵捨てられるはずの第一王女。悲劇を見に来た千の目が、予想外の絵に戸惑っている。壇上の父の顔にも、玉座の隣の継妃の顔にも、はっきりと動揺が走った。
いいえ、継妃様。お芝居はこれからですわ。
*
儀は、粛々と進んだ。
書記官が読み上げる。グランハルト侯爵令息の嘆願。勲一等の恩賞の返上。封地の返還。継承順位の白紙。それらと引き換えの、婚約解消と――リュシオラ王女との、新たな婚約。
「両者、異存なきか」
「ございません」
ヴィンセルの声は、誇らしげですらあった。全てを捨てて愛を選ぶ騎士の物語。その主役の顔で、彼は宣誓の署名をした。
「リディエンヌ王女。異存なきか」
「ございません」
私も、署名した。
インクが乾くその数秒の静寂で、広間の憐れみが熟れていくのが分かった。ああ、お可哀想に。全部奪われて。妹に、何もかも――
「――続いて」
私は、書記官より先に、声を発した。
「陛下のお許しを得て、私からひとつ、皆さまにご報告がございます」
千の目が、こちらを向く。
「先日、リンドヴェール大公国より、両国和平の証として、王女の輿入れを求める親書が届きました。……その打診に対し、三日前、私は陛下に願い出ております。――この身を、私自身の意志で、大公国へ嫁がせていただきたい、と」
一拍。
広間が、爆ぜた。
「三日前……!?」
「では、婚約解消を願い出る前から……」
「グランハルト様の嘆願は……え、では、何のために……?」
そう。何のために?
答えは簡単。何のためにも、ならなかったの。
彼が勲章と封地と継承権と引き換えに願った「私との婚約の解消」は、三日前の時点で、とっくに叶っていた。私自身が、この国を出ると決めていたのだから。
つまり彼は、頼まなくても手に入るものに、全財産を支払ったのだ。誰も競っていない競りで、たったひとり、値を吊り上げ続けて。
もちろん、王家に、それを止めてやる義理などない。勲章も、封地も、継承権も差し出すと言うのなら、黙って受け取るだけのこと。無駄だと、誰も教えてはやらなかった。
振り返らなくても、ヴィンセルの顔は分かった。署名を終えたばかりの羽根ペンを持ったまま、彼は彫像のように固まっていた。
「リディエンヌ様……あなた、は……なぜ……敵国に、自ら志願なさったのですか……」
「あら。ふしぎなことを仰るのね」
私は微笑んで、彼の願いの言葉をそっくり返した。
「ある方に教わったのです。想ってくれない相手との結婚は、時間の無駄だと」
彼の目が、揺れた。
「良い教えでしたわ。おかげで私、無駄にせずに済みましたの」
*
「――お、お待ちください!」
甲高い声が、広間を裂いた。
リュシオラだった。青ざめて、それでも空色の目だけは炯々と燃えて、壇の下へ進み出る。
「皆さま、騙されてはいけませんわ。お姉様が敵国へ行かれるのは、和平のためなんかじゃありません。輿入れの前に、想い人のもとへ駆け落ちなさるおつもりなのです! 現に、ここに、お姉様が殿方と交わした恋文が――それに、あの検分で穢れたお体で、敵国に嫁げるはずがございません」
袖から、紙の束が翻った。
来た。
前世で私を殺した紙の刃。偽の恋文。あの夜と同じ筆跡、同じ封蝋、同じ毒。
広間が凍りつく中、私はただ、扇を一度だけ揺らした。合図。
「――その文について、証言の用意がございます」
広間の後方から、初老の男が進み出た。地味な外套。インクに汚れた指。
リュシオラの顔から、音を立てて血の気が引いた。
「王都三番街にて代筆業を営みます、しがない筆でございます。その恋文の束……手前が書きました。ご依頼主は――」
男は、油紙の包みを掲げた。
「こちらの注文書のとおり。リュシオラ王女殿下の侍女様にございます。三年前より計十七通。……なお、先日『新しい文』のご注文もいただいておりますが、そちらはまだ、納品前で」
静寂。
完全な、静寂。
それから広間は、今度こそ本当に爆ぜた。憐れみが、驚愕が、そして嫌悪が――ドレスの一件、競売の一件と、この数日で少しずつ向きを変えていた社交界の風が、今、完全に反転して義妹に吹きつけた。
「ち、違……違います、わたくし、知らな……」
「リュシオラ」
継妃が娘の腕を掴んだ。その声だけは、まだ完璧に冷静だった。「下がりなさい。……病み上がりで、錯乱しているのです、この子は」
母娘が退がっていく。菫色の裾が、母の真珠が、逃げるように遠ざかる。
私は、追わない。
断罪は今夜じゃない。今夜はただの、開幕の口上。
「……お騒がせいたしました、皆さま」
私は広間の中央で、深く、優雅に、淑女の礼をした。
「敵国と呼ばれた国へ、和平のために参ります。あちらでは、女の紋様がどうであれ、誰も吊るさないそうですわ。――ずいぶんと、野蛮な国ですこと」
広間のあちこちで、笑い声が弾けた。だが一拍遅れて、皆、自分が何に笑ったのかに気づき、顔から血の気を引かせていく。結構。この皮肉を、忘れないでいらっしゃい。
踵を返すとき、視界の端に彼が映った。
ヴィンセル・グランハルト。
勲章と封地と継承権を差し出して、彼が今夜手に入れたのは――恋文を捏造していた新しい婚約者と、社交界中の冷たい視線だけ。昨日まで「すべてを捨てて愛を貫く騎士」だった男は、たった一晩で「何もかも騙し取られた愚かな男」になった。
彼はまだ壇の下に立ち尽くして、署名済みの婚約書を――全てと引き換えた紙切れを、見下ろしていた。
からん、と。
彼の手から落ちた羽根ペンの音が、静まり返った大広間に、ひどく大きく響いた。




