第21話 はじめてのおつかい(後編)
「今の──何?」
つぶやくルシオンが振り向く前に、と俺は再び大樹に隠れる。代わりに──というわけでもあるまいが、先まで俺の足もとにまとわりついていた黒猫が、大樹の陰から飛び出して、今度はルシオンにじゃれつく。
「まさか──あなたが何かしたの?」
ルシオンは、黒猫を抱きあげて、目線をあわせて、そう尋ねる。その様は、まるで本当に黒猫と話しているようで──もちろん、猫の方から応えはないのであるが、それは彼女の年相応な姿で、見ているだけで愛らしく思う。
「あなた、片目が──」
ルシオンは、黒猫の顔をのぞき込んで、そう続ける。黒猫は、どうやら左目がつぶれているようで、その人相──いや、猫相の悪い顔は、どこかの誰かを彷彿とさせる。
「ラガン──あなたはラガンね」
ルシオンも、同じことを思ったのであろう、黒猫を抱きしめながら、そう宣言する。
俺は猫ではない、と声を大にして言いたい。
「あ、ちょっと、ラガン、くすぐったいってば!」
黒猫は、どうやらルシオンを気に入ったようで、その頬を、唇を、ぺろり、と舐める。ルシオンも、黒猫に舐められて、まんざらでもなさそうなのであるが──俺は彼女を舐めたりはしないのであるからして、訂正を要求する。
「あ、もう、ラガンったら──」
ルシオンは、やはり黒猫を俺の名で呼んで──ついには、彼女の方から口づけしてしまったのであるからして、見ているこちらが赤面してしまう。
ともあれ──これ以上、俺のせいにされてはたまらぬ。俺は、偶然を装って、大樹の陰から出ようとする──と、そのときである。
「俺の名前はラガンじゃない」
黒猫は、ルシオンの唇を一舐めして、そう声をあげたのである。
「あなた──話せるの!?」
ルシオンは、驚きのあまりであろう、黒猫を取り落として──黒猫は、ひらりと着地して、彼女を見あげて続ける。
「もちろん話せるさ」
しゃべる猫──もしかすると、魔物の類やもしれぬ──となれば、ルシオンの身が危ない。隠れている場合ではない。
「ルシオン、その猫から離れろ!」
俺は、慌てて大樹の陰から飛び出て──驚くルシオンをよそに、彼女と黒猫の間に割って入る。
「貴様──何者だ?」
「何だ、それ──魔眼か?」
俺の詰問に、しかし黒猫は答えず、逆に疑問の声をあげる。
「蛮族──だよな? よくもまあそんな大層な魔眼を持ってるもんだなあ」
「──何の話だ?」
その言の真意がわからず、俺は問い返すのであるが──黒猫はどこ吹く風。
「俺の名前はフェル──あんたらの言うところの迷宮に住んでる、言わば──迷宮猫だな」
黒猫──フェルはそう言って、にゃお、と猫らしく鳴いてみせる。
どうやら、自身の語りたいこと以外を語る気はないようで、先の俺の問いに答える気配もなく──俺はあきらめて、フェルに話をあわせる。
「その迷宮猫が、なぜにこのようなところにおる?」
「たまにこうして外をぶらついてる。散歩は大切だからな」
フェルは、ぺろりと足先を舐めながら、そううそぶく。
にわかには信じられぬ──が、そもそも、しゃべる猫というところからして信じられぬのである。このような化け猫であれば、迷宮で暮らすことも可能──なのであろうか。
「そっちのお嬢さん、気に入ったよ。きっと、真人の血が混じってるんだろうな」
よい匂いがする、と続けるフェルに、ルシオンは恥ずかしそうに自らの体臭を嗅ぐ。別に臭いという意味ではなかろうに、年頃の娘であるなあ、と思わず苦笑する。
「あんたがラガン?」
フェルの問いに、俺は頷いて応える。黒猫は、俺とルシオンの顔を交互に眺めて。
「──恋人?」
何とも猫らしからぬ顔で、いたずらっぽく尋ねる。
「兄です!!」
ルシオンは、間髪を入れずに、大声で否定する。俺の、妹だ、という答えがかき消されるほどの大声である。
「まあ、何にせよ、お嬢さんには、また会いたいな。お嬢さんは、精神衛生上、とてもよい」
そう言って、フェルはルシオンにすり寄り、恍惚とした顔で彼女の匂いを嗅いでいる。フェルのその様から察するに、真人とやらの匂いは、猫にとってのまたたびのようなものなのであろう、と思う。
フェルは、思うさまルシオンの匂いを嗅いだかと思うと──彼女はかなり嫌がっていたように思う──次の瞬間には、風のように駆けて、大樹の上までのぼっている。
「じゃあ、またな。お嬢さん」
フェルは、ルシオンにだけ別れを告げて、大樹から屋根に飛び移り、いずこかに去っていく。黒猫の言を信じるのであれば、迷宮に帰ったのであろうが──結局、こちらの疑問には一切答えることなく、飄々と去っていったところは、ある意味では猫らしいと言えるやもしれぬ。
「今の──何だったの?」
ルシオンの問いに、俺は首を振って応える。俺にもとんとわからぬゆえ、聞いてくれるなという意味である。
そうしてしばし、俺たちはフェルの去った屋根を呆然見送っていたのであるが──ルシオンは、不意にあることに気づいてしまったようで、おもむろに俺の手を取る。
「ラガン──どうしてこんなところにいるの?」
ルシオンは笑顔でそう問うのであるが、目が笑っていない。
「たまたま通りがかって──」
「ふん!」
俺の白々しい言い訳に、ルシオンは俺の手を引いて──引くと同時に、俺の腹を肘で打つ。俺は思わず膝をついて──どうやら、俺の教えた体術は、しっかりと身についているようである、と身に染みて実感する。
「お使いくらい、一人でできるんだから!」
言い放って、ルシオンは颯爽と広場を去る。残された俺は、彼女の凛々しい背中を見送るのみである。
迷宮における七不思議の一つ──迷宮を歩く猫。
俺自身は、冒険者の与太話と決めつけていたのであるが──迷宮では、まれに黒猫を見かけることがあるという。猫であれば、衛兵の監視をかいくぐって、迷宮に迷い込むこともあるかもしれず、それ自体は不思議ではないのであるが、その目撃された場所が迷宮の深層となると、話は変わってくる。
単なる猫が、魔物の跋扈する迷宮を潜り、深層にまでたどりつくというのは、さすがに無理がある。大方、どこかの魔法使いの使い魔でも見たのだろう、というのが有識者──バルドである──の見解であり、俺もそう思うことでそのときは納得していたのである。
しかし──実際にフェルに遭遇してしまっては疑う余地もなく──迷宮とは本当に訳のわからぬところであるなあ、と今さらながらに感じ入るのであった。
「はじめてのおつかい」完/次話「辻斬り」




