第18話 刺客(前編)
階下の酒場の喧騒で眠れぬとき、俺は娼館を──イリーナを訪ねる。と言っても、毎回抱いているわけではない。ほとんどの夜、俺はイリーナに添い寝を頼んでいる。大枚をはたいて何を子どもじみたことを、と揶揄する輩もおるやもしれぬが、不思議なことによく眠れるのである。
その日も、階下で騒ぐバルドとロルフ、そして常連どものせいで眠れず、俺はふらりと宿を抜け出して、娼館を訪ねる。イリーナを指名すると、どうやら他に客はいなかったようで、さほど待たずに彼女が現れる。
イリーナは心得たもので、俺を部屋に案内するなり、どうぞ、とベッドにうながす。俺はあくびを噛み殺しながら上衣を脱いで、ベッドに飛び込むように寝転がる。
イリーナは、そんな俺を慈しむような目で見て、苦笑して──自身も肌着姿になり、隣に潜り込んでくる。彼女のやわらかい肌と、香水であろうか、ほのかな香りに誘われて、俺は眠りに落ちていく。
朝──まだ夜も明けきらぬ頃、目を覚ますと隣にイリーナはおらず──彼女はすでに起きていて、身支度を整えている。
「いつもすまんな」
俺は、あくびを噛み殺しながら、身体を起こして、イリーナに詫びる。ほんの数時間の眠りであり、眠気はいくらか残っているものの、不思議と身体の疲れは癒えている。
「いえいえ、お代はいただいてますし、ラガンの旦那のためなら──」
言いかけて、イリーナは口がすべったというように、恥ずかしそうに話題を変える。
「旦那──もしよかったら、うちで食事でもどうですか?」
「──食事?」
思わぬ誘いに、問い返す。
「ほら、前にお昼をごちそうになったじゃありませんか。そのお礼に」
「礼とは、大げさな」
イリーナに奢った炊麺は、大変にうまくはあるものの、それほど高級な料理ではない。そこらの露店で買い食いするのとさして変わらぬ程度の食事に、礼などとかしこまられるとこそばゆいものを感じるのであるが──まあ、彼女の厚意なのであろうから、素直に受け取っておくのがよかろう、とも思う。
「イリーナは、休まなくてもよいのか?」
俺は、脱ぎ捨てた上衣を拾いあげて、袖を通しながら尋ねる。
「誰かさんがゆっくり寝かせてくれるおかげで、帰って寝る必要がないんですよ」
言って、イリーナはため息をつく。
なるほど──確かに、金をもらっての仕事とはいえ、添い寝ばかりでは、イリーナが眠くならぬのも道理。もしかすると、本来寝ているはずの時間に眠れず、暇を持て余しているからこその誘いやもしれぬ──と、心中で言い訳を重ねながら、俺は彼女の誘いを受けることを決める。
俺はイリーナの仕事あがりまで延長して、二人で娼館を出る。彼女は、俺の腕をとって、胸にあてて──いたずらっぽく笑いながら歩き出す。
イリーナの語るところによると、彼女は貧民街の際のあたりに住んでいるのだという。その言のとおり、進むにつれて、通りはどんどんとうら寂しくなる。さすがに煤煙の根城たる薄闇小路ほどではないものの、女の一人歩きには向かぬ通りで──俺はイリーナの暮らしぶりがいくらか心配になる。
やがて、通りは小汚い民家に突きあたり、その角を右に折れる。人通りはさらに少なくなる──というのに、どういうことであろう、通りの隅には物乞いが座り込んでいる。何もこのようなところで物乞いをせずとも、もっと市場に近い場所の方がいくらか実入りもよかろうに──そんな俺のいぶかしむ視線に気づいたようで、物乞いはすがるように手を伸ばす。
「旦那方、どうかお恵みを──」
物乞いの背はぐにゃりと曲がり、伸ばした腕には年月による皺が深く刻まれている。身にまとったぼろ布で、しかと顔は見えぬが、おそらく老爺であろう、と思う。
「これで、温かいスープでも飲むといいよ」
イリーナは、物乞いの前で足を止めて、懐から小銭を取り出して、その手に握らせる。
俺はと言えば、知らぬふりをして通り過ぎようと思っていたのであるが──イリーナの優しさにほだされて、同じく懐から小銭を取り出して、物乞いの手に載せる。
「ありがとうございます!」
物乞いは、手のひらの小銭を、まるで神聖なものであるかのように押しいただいて──俺とイリーナが、大げさな、と顔を見あわせた──次の瞬間である。
物乞いの老爺は、老いを感じさせぬ動作で、すっくと立ちあがり──俺があっけにとられる間に、イリーナの背後に回り込み、その首筋に短剣をあてる。その姿は、赤銅色の肌こそ変わらぬものの、先までの老爺のものではない。老爺に擬態していた──壮年の戦士である。
「ラガン──ベラトールだな?」
俺の名を──しかもベラトールの姓を知るということは、ただの物乞いであろうはずがない。
「リメルスからの──追手か?」
問いながら、俺は曲刀の柄を握る。貧民街近くとはいえ、天下の往来であり、人目もある。まだ抜くわけにはいかない。
「しいて言うならば──リメルス王に雇われた刺客というのが正しかろう」
言って、物乞いは──いや、刺客は、先までとは打って変わって、抜き身の剣のごとき刺すような殺気を放つ。その研ぎ澄まされた殺気だけで、相手のただならぬ力量が知れる。
こいつは──何人もの人を殺している。俺は目の前の物騒な刺客をにらみつけて、心当たりを告げる。
「教団──か?」
「ほう」
俺の推量に、刺客は感心の声を漏らす。それは肯定と同義である。
不意に──俺は、周囲から人の姿が消えていることに気づく。偶然か、はたまた目の前の刺客による作為かは知れぬが、いつ剣を交えてもおかしくはない、一触即発の緊張が場を満たす。
「イリーナを放せ。彼女は関係ない」
俺は曲刀の柄を握ったまま、じりじりと刺客に近寄る。
「関係は──ある。何と言っても、お前の情婦なのだからな」
言って、刺客はこれ見よがしにイリーナを盾にする。イリーナの首筋にあてられた短剣、彼女の脅える顔──俺は、それ以上は前に出ることもできず、歯噛みする。
刺客は、動けぬ俺を嘲笑うように、懐から別の短剣を取り出し、俺に向けて投擲する。短剣は、俺の身体──ではなく、影を貫いて、地面に刺さる。奴の力量からすれば、この距離で外すことなど、ありえぬはずであろうに。
「さて──」
刺客は、おもむろにイリーナの首もとから短剣を離す。
好機──そうとらえて、瞬時に抜刀して、飛びかかる──つもりであった。
しかし、俺は抜刀こそしたものの、ほとんど前に踏み出すことができないでいる。なぜ、と見れば、何と先に放たれた短剣が、俺の影を地面に縫い留めているではないか。
「どういう手妻だ?」
「教えると思うか?」
俺の問いに、刺客は冷笑でもって応えて──俺は唇を噛む。その術理はとんとわからぬが、魔法とでも思うしかあるまい。奴は俺の影を地面に縫いつけて、動けぬように封じているのである。言わば、影縫いの使い手なのであろう。
おそらく、影から短剣を抜けば動けるのであろう──が、短剣を抜く間に、奴に急所を斬られるのは必至──となれば、この場より動けぬまま戦うよりほかあるまい。
「俺の自由を奪ったのだ。イリーナを人質にする必要もあるまい」
俺は、わざとらしく鼻を鳴らして、そう告げる。自由を奪い、なお人質まで必要なほどに、俺が怖いのか、と煽っているのである。
安い挑発である。刺客が乗るとも思えなかったのであるが、意外や奴はイリーナの背を押して──彼女は押される勢いのまま俺に駆け寄り、どん、とぶつかる。
「──イリーナ?」
その衝撃の後、腹に違和感と痛みを覚えて、ちら、と見れば──あろうことか、そこには懐剣が刺さっている。
「──旦那」
俺を見あげるイリーナは、悔恨にさいなまれるような、苦しそうな顔であえいでいる。
自らの腹を刺されるに至り、愚かな俺もようやく悟る。イリーナと刺客はぐるなのだ、と。




