第16話 食堂(後編)
「頼もう」
言って、俺はいつぞや訪れた煤煙の根城たる酒場の前に立つ。
見張りに立っていた厳つい男が、俺を引き留めんと声をかけようして──隻眼に気づいて、引き下がる。
「ラガンの──旦那?」
「ちと用向きがあってまいった。マルムはおるか?」
俺の言を受けて、男は先触れでもするように、急ぎ酒場の中に報せに走る。
俺は、しばし店先で待つ。まったく、あの食堂の店主ときたら、他のどこから金を借りても問題はあるまいに、よりにもよって煤煙から借りるとは、料理以外はからきしの男である。
やがて、先の見張りが酒場の扉を開いて、俺を中に招き入れる。
「ラガンの旦那、これまた何用で?」
言って、俺を出迎えるのは、煤煙の顔役たるマルムである。
「ちと、頼みたいことがある」
「──頼み?」
俺の言に、マルムは露骨に嫌そうな顔を返す。またぞろ何やら断りづらいことを頼まれるとでも身構えているのであろうが──俺には俺の道理がある。
「先の仲裁、黒黥からの報酬はもらっておるが、煤煙からの報酬はもらっておらぬ」
「はあ──まあ、そう言われれば、そうなりますかねえ」
言いながらも、マルムは不満の色を隠さない。彼ら煤煙からしてみれば、黒黥との手打ち自体が報酬のようなものという認識であろうから、それもわからないではない──しかし、そうは問屋が卸さぬ。この交渉には、俺の今後の昼食がかかっているのである。
「市場の脇に、おぬしらが金を貸した食堂があろう。その店の取り立てについて話がある」
「いくらラガンの旦那でも、さすがにあっしらの商売に口出しされちゃあ、困りやすぜ」
マルムは、俺がバルドの威を借りて、借金の帳消しでも迫るものと早合点したようで、機先を制するように告げる。
「違うのだ。何も借金を帳消しにしろというのではない。普通の取り立てをしてくれというだけのことだ」
俺はマルムの誤解を解かん、と彼の見立てを否定するように、大げさに首を振ってみせる。
「旦那の──お知り合いの店なんですかい?」
「いや──」
と、否定する俺に、マルムは首を傾げてみせる。
「じゃあ、何でまた?」
「──うまいのだ」
「はあ?」
力強く断言する俺に、マルムは呆けたように問い返す。
「このまま潰れるには惜しいくらいに、うまいのだ」
おぬしらも食えばわかる、と俺は力説する。
マルムは思わぬ理由に毒気を抜かれたようで──取り立ての担当を呼び出して、件の食堂については丁重に扱うように命じる。
「旦那、こういうのはこれっきりにしてくださいよ」
「心配するな、心得ておる。これで貸し借りはなしだ」
俺は、マルムの渋面に笑顔で返して──さっそうと酒場を後にする。
次の日──迷宮に潜った翌日は、疲れを癒すためもあって、昼頃に起きる。起きると同時に腹が鳴る。いつもであれば、階下に下りて、クラウスのつくる、さしてうまくもない昼食をとるのであるが──俺の舌には、まだあの香辛料の味が残っている。俺はたまらず宿を飛び出て、足早に市場に向かう。
「あら、旦那」
と──市場に着くなり、そう声をかけてきたのは、イリーナである。いつぞやのように買い出し中のようで──夜の女である彼女にとっては、この時間帯が買い出し時なのであろう、と思う。
「よいところで会った。昼はまだか?」
「まだですよう」
俺の突然の問いに、イリーナはいくらか眠そうに返す。
「それは重畳。うまい店に連れていってやろう」
「あら、旦那からのお誘いだなんて──うれしい」
イリーナは、意外や頬を朱に染める。こうも素直に喜ばれると、こちらとしてもまんざらでもない。
俺は思い立って、イリーナの手を引いて、市場を歩く。
「旦那、あたしなんかの──娼婦なんかの手を引いて、いいですかい?」
「なあに、かまうものか」
言って、ぐいと手を引いたところで──ふと、その可能性に思い至る。
「もしかして──嫌であったか?」
「めっそうもない!」
めずらしく大声で返して、イリーナは俺の手を強く握り返す。
すれ違うものらが、時折好奇の目を向けるのであるが、気にするほどでもない。俺たちは手をつないだまま、香辛料に誘われるように市場を抜けて、食堂の扉を開く。
先日と同じく、俺たちの貸し切りであろう──と、思っていたのであるが、意外や店は客であふれている。
「──おい」
俺は、入ってすぐの席に座る、見知った顔に声をかける。
「なぜにお前らがおる?」
その席で、一心不乱に炊麺をかき込んでいるのは誰あろう、マルムと──彼をはじめとする、煤煙の連中である。
「旦那がうまいって力説するから──」
マルムは炊麺を頬張りながら、まるで俺のせいかのように返す。俺に詰問されながらも、炊麺をかき込む手を止めぬところを見るに、相当に気に入ったのであろう──であれば、わるいことではあるまい──たぶん。
俺は、イリーナを連れて、店の奥の空いた席に座り、二人分の炊麺を注文しながら、店主に詫びる。
「こんな客層になって、困ってはおらぬか?」
「客がいないよりは、ありがたいこってすよ!」
俺の問いに、店主は笑顔で返す。その笑顔は、俺には心からのものに思えて──遠く西方より、わざわざブロンダルに出店した店主にとって、多くのものに自慢の郷土料理を味わってもらえることは、何より喜ばしいことなのであろう、と思う。どうやら、ありがた迷惑とはならなかったようで、安堵の胸をなでおろす。
しばし待つ──と、俺とイリーナの前に、炊麺が供される。俺は、自らの炊麺に手を伸ばす前に──まずは、イリーナが炊麺を口に運ぶ様を、神妙に見守る。
「あら、おいしい」
「そうであろう、そうであろう」
客層への不満もどこへやら、俺はイリーナの笑顔だけで満足して──何度も何度も頷いてみせるのであった。
「食堂」完/次話「荒稼ぎ」




