第8話 迷宮街(前編)
誰かに追われているような、後ろ暗いところのあるものは、どこに隠れればよいか──ブロンダルには、うってつけの場所がある。迷宮街である。何せ、迷宮狂いの冒険者と、それを相手にする脛に疵持つものしかおらぬのである。
仮に、現時点で俺の所在がリメルスに知れていたとしても、しばらくの間、迷宮街で過ごして身を隠せば、ブロンダルから離れたと判断されるに違いあるまい。そう考えて──俺はバルドにルシオンを託して──もちろん相応の謝金は払っている──迷宮街に潜る。
「──旦那、朝ですぜ」
声をかけられて、俺は目覚める。
迷宮街の宿屋である──とはいえ、迷宮の床に布を敷いて、周囲からの視線を遮っただけの、宿とは名ばかりのつくりで──俺は朝方まで寝つけず、欠伸を噛み殺す。
「日が昇らんのに朝とは、奇妙なものだな」
「それが迷宮でさあ」
感慨深く迷宮の天井を見あげる俺に、宿の主人は何を当たり前のことを、と返す。
宿の主人──グレゴは隻眼である。俺のように戦いで失ったわけではなく、何らかの咎によって失ったということであるが──どちらも隻眼には違いないということで、意気投合した仲である。信頼できる、とまでは言わぬが、迷宮街における数少ない知人である。
俺は硬い床から起きあがり、大きく伸びをする。
「ちと、用を足してくる」
「旦那! 下流ですぜ! 下流!」
グレゴの声を背中に受けながら、俺は宿のある大部屋を出る。
一層の東には、水路がある。どこから流れてきて、どこに流れていくやら、誰も知らぬのであるが、上の都の水よりも澄んでいるというから、古代都市由来のものなのやもしれぬ、と思う。ともあれ、迷宮で清水が手に入るのである。迷宮街は、この水路ありきで成り立っていると言えよう。上流で水を汲み、下流で用を足す。間違えると大変なことになるので、そのあたりにはグレゴも厳しい。
「──ラガン殿?」
水路に向かって、心地よく放尿する俺の名を、誰かが呼ぶ。
聞き覚えのある声に振り向けば。
「マルクス殿!?」
そこには、先に用心棒を引き受けた、銀秤商会の番頭──マルクスが立っている。俺の後ろに立っているということは、用足しの順番待ちということであろうが──この場にこれほど似合わぬものもおるまい、と思う。
「かようなところで会おうとは、まさに奇遇」
俺は、本心から、そう返す。
銀秤商会の番頭ともなれば、仮に迷宮に用があったとて、冒険者くらい、いくらでも雇えるであろうに──それにもかかわらず番頭自ら足を運ぶとは、いったい何事であろう、といぶかしむ。
「いや、その──」
マルクスは、こんなところで知り合いと会いたくはなかったのであろう、何やら言いよどんで、視線をそらす。しかし──やがて、思い直したように俺を見て、仕方なさそうに告げる。
「──ラガン殿であれば、渡りに船かもしれせんな」
「断る」
マルクスが、何がしかの頼み事をしようとしているのだと察して、俺は先んじてそれを拒絶する。
「ラガン殿と私の仲ではございませんか」
言って、マルクスはわざとらしい笑顔をつくる。
こやつ──俺にリメルスからの追手がかかっていることを知っているから、と半ば脅しているのである。俺に斬られるかもしれぬという覚悟の上であることは、その額にわずかに滲んだ汗でわかる。大店の番頭ともなると、さすがに肝がすわっている。
まあ──実際のところ、ブロンダル屈指の大店の番頭を斬るわけにもいかぬ。
「わかったわかった。今回だけだぞ」
「それはもちろん、心得ております」
マルクスは、これで貸し借りはなしとばかりに、何度も頷いてみせる。
俺は、マルクスと連れ立って、宿に戻る。用を足しながら話すことでもない。グレゴに断りを入れて、ぼろ布で仕切られた狭い部屋に入り、マルクスを座らせる。
「それで──今度は何があったというのだ?」
「実は、うちの若旦那──マリス坊ちゃんは、家業を継ぐのを嫌がっておりまして──」
マルクスの語るところによると、そのマリス坊ちゃんとやらは、商会長のただ一人の息子らしく、幼い頃から甘やかされて育ったために、わがまま放題なのだという。
「商会の息子が、家業を継がず、いったい何をするというのだ」
「それが──冒険者というわけでして」
マリス坊ちゃんは、冒険者に憧れるあまり、家を飛び出して、迷宮に駆け込んでしまったというのである。もちろん一人ではなく、金で雇った冒険者を引き連れてのことだというのであるが、それにしたってずいぶんと斬新な家出である。
「旦那様からは、身内の恥をさらさぬよう、内々に片づけろとの命を受けておりまして──」
「それでマルクス殿が迷宮に──」
俺は、マルクスの境遇をあわれんで、なぐさめの言葉をかけようとするのであるが──さすがは大店の番頭である。そんなものを必要としない程度にはたくましい。
「ラガン殿が迷宮街暮らしをしていること、決して詮索はいたしませんので──」
マルクスは、俺にも事情があることは察しているぞ、と暗に告げる。まったく、商人というやつは、少しでも弱みを見せようものなら、商機とばかりに食いついてくるのであるからして、油断も隙もない。
「その若旦那とやらを探せばよいのだな?」
俺は、溜息をつきながらも、マルクスの依頼を引き受けることを決める。
「まあ──駆け出しの冒険者なら、二層より下には潜るまい」




