第三話 後編 暗黒皇帝、軍略を示す
二時間目の英語が終わった。
休み時間を告げるチャイムと同時に、教室の空気が緩む。
椅子を引く音。
友達同士の笑い声。
廊下へ駆け出していく足音。
いつもと同じ休み時間だった。
少なくとも、僕以外にとっては。
昼休みまで、あと二時間。
その時間が来れば、僕は校舎裏へ行かなければならない。
待っているのは、菅原、藤田、村上の三人。
朝の件で完全に頭へ血が上っている菅原が、話し合いだけで帰してくれるはずがない。
(……本当に行くの?)
『無論だ』
(行ったら殴られるよ)
『行かなくとも、いずれ殴られる』
(救いがないな!)
机へ突っ伏しそうになる僕を、皇帝が鼻で笑った。
『だが、勝つ方法はある』
(僕が菅原に?)
菅原は格闘技ジムへ通っている。
身長も体重も、運動能力も、何もかも僕より上だ。
僕に勝っているものといえば、体脂肪率くらいしか思いつかない。
『誰が、拳で勝てと言った』
皇帝の声が低くなる。
『敵が三人いるなら、三人を相手にせねばならぬと考える。それが凡人の戦だ』
(じゃあ、皇帝の戦は?)
『三人を、一人にする』
僕は顔を上げた。
(そんなこと、できるの?)
『あやつらは仲間ではない』
皇帝は迷いなく断言した。
『同じ獲物を囲み、同じ場所で笑っていただけだ。利が失われれば、たちまち離れる』
(それをどうやって……)
『まず、協力者を得る』
(協力者?)
教室を見回す。
当然ながら、僕と目が合う者はいなかった。
朝、菅原に絡まれていた時と同じだ。
見えているのに、見えていないふりをする。
聞こえているのに、聞こえていないふりをする。
それを責める気にはなれなかった。
僕だって、逆の立場なら同じことをしたかもしれない。
「そんな人、いないよ」
『いる』
皇帝の返事は短かった。
『窓際を見よ』
教室の後方。
窓際の席で、一人の女子生徒が文庫本を開いていた。
艶やかな黒髪を高い位置で結んだポニーテール。
背筋を伸ばした姿勢。
桜井葵。
このクラスの学級委員で、剣道部のエース。
成績も良く、先生からの信頼も厚い。
僕とはほとんど話したことがない。
(桜井さん?)
『そうだ』
(普通に本を読んでるだけじゃない?)
『読んでおらぬ』
僕はもう一度、桜井さんを見る。
文庫本は開かれている。
視線もページへ落ちている。
けれど、皇帝に言われて気づいた。
ページが進んでいない。
さっきからずっと、同じ場所を開いている。
『あの女は、己を責めておる』
(何で分かるの?)
『人は他人へ向ける怒りより、己へ向ける失望の方を隠せぬ』
桜井さんの指が、文庫本の端を強くつまんでいる。
朝の皇帝から糾弾を気にしているのだろうか。
『行け』
(僕が?)
『ほかに誰がおる』
(無理だよ。話したこともほとんどないし)
『だから何だ』
(断られたら?)
『別の者を探す』
(気まずくなるよ)
『昼休みに殴られるよりは軽傷だ』
反論できなかった。
僕は机から立ち上がる。
足が重い。
菅原のところへ向かうよりはましなはずなのに、女子へ話しかけるというだけで心臓が落ち着かない。
桜井さんの席まで来ても、声が出なかった。
『話せ』
(今、話そうとしてる)
『貴様は先ほどから、無言で女を見下ろしておるだけだぞ』
(最悪の状況を説明しないで!)
「あ、あの」
ようやく声を出すと、桜井さんが顔を上げた。
「陰山君?」
僕の名前を知っていたことに、少し驚く。
同じクラスなのだから当然なのかもしれない。
「少し、話してもいい?」
「うん」
桜井さんは文庫本へ栞を挟み、静かに閉じた。
近くで見ると、その表情には疲れが浮かんでいた。
「あの……朝のことなんだけど」
僕が切り出すと、桜井さんの肩がわずかに強張った。
「朝は、すごかったね」
「すごかった?」
「窓が全部割れて……それに、陰山君も急に別人みたいになって」
桜井さんは周囲を気にするように声を落とす。
「皇帝って、何なの?」
(ほら! 聞かれた!)
『余は暗黒皇帝ヴァルガイアである』
(今は黙ってて!)
「えっと……好きなマンガのキャラを演じただけだよ」
『余はマンガとやらのキャラクターではない』
(説明できないんだから仕方ないだろ!)
「演じただけで、窓ガラスが割れたの?」
桜井さんの視線が鋭くなる。
当然の疑問だった。
「それは……偶然、かな」
『余の威圧を偶然で片づけるな』
(じゃあ自分で説明してよ)
『よかろう。身体を貸せ』
(絶対に嫌だ!)
僕が頭の中で皇帝と争っている間も、桜井さんは不思議そうに僕を見ていた。
「陰山君?」
「ご、ごめん。ちょっと考え事」
「朝も、誰かと話しているみたいだったけど」
「独り言だよ。癖なんだ」
『誰が独り言だ』
皇帝の抗議を無視し、僕は話を本題へ戻した。
「今日の昼休み、菅原たちに校舎裏へ呼び出されてる」
桜井さんの表情が変わった。
「行くつもりなの?」
「行かないと、たぶんもっと面倒になるから」
「先生に言った方がいいよ」
「それだけじゃ、駄目なんだ」
今まで何度も教師は見てきた。
現場を押さえられなければ、注意だけで終わる。
本人たちはふざけていただけだと言い、僕が大げさに騒いだことにされる。
また同じことが繰り返される。
『役目を伝えろ』
皇帝に促され、僕は桜井さんへ顔を近づけた。
「だから、お願いがあるんだ」
僕は声を落とし、皇帝から授けられた作戦を説明した。
すべてを聞き終えるまで、桜井さんは何も言わなかった。
ただ、膝の上に置いた文庫本を強く握っていた。
「勝算はあるの?」
「ある……らしい」
「らしい?」
『余を疑うか』
(いや、ぜんぶ説明してくれないじゃん!)
しばらくして、桜井さんは小さく息を吐いた。
「分かった。協力する」
「いいの?」
「朝、何もできなかったから」
その声は小さかった。
けれど、逃げるような響きはなかった。
「いつもね。本当は止めたかった。でも、怖くて動けなかった」
桜井さんは文庫本へ目を落とした。
「だから今度は、ちゃんと動きたい」
『やはりな』
皇帝が満足そうに呟く。
『恐怖を知る者ほど、勇気を持つ資格がある』
「ありがとう」
僕がそう言うと、桜井さんは首を振った。
「まだ何もしてないよ」
その言葉どおりだった。
本番は、これからだ。
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三時間目。
四時間目。
授業の内容は、ほとんど頭に入らなかった。
先生の声を聞きながら、僕は何度も時計を見る。
秒針が進む。
時間だけが、容赦なく昼休みへ近づいていく。
(作戦、本当にうまくいくの?)
『案ずるな』
(僕、殴られない方法を聞いてないんだけど)
『そのような方法はない』
(今さらっと大事なこと言ったよね!?)
『殴られずに勝てるなら、それに越したことはない。だが、相手は既に怒りで我を失っておる』
(じゃあどうするの?)
『殴られろ』
(嫌だよ!)
思わず声を上げそうになった。
前の席の生徒が振り返り、僕は慌てて教科書へ顔を落とす。
『ただし、無意味に殴られるな』
(意味のある殴られ方なんてある?)
『ある』
皇帝の声から、冗談めいた響きが消えた。
『敵を見よ』
(見る?)
『拳から目を逸らすな。痛みではなく、相手を見続けろ』
(それで勝てるの?)
『生き残れる』
(目標が下がってる!)
『最初から、貴様が拳で勝てるとは思っておらぬ』
正直すぎる。
けれど、不思議と怒る気にはならなかった。
皇帝は最初から、できないことをできるとは言わない。
その代わり、僕にもできる方法を探している。
昼休みのチャイムが鳴った。
心臓が、大きく跳ねた。
菅原たちは僕を見もせず、三人で教室を出ていく。
僕も少し遅れて立ち上がった。
窓際を見る。
桜井さんは、文庫本を机へ置いたところだった。
一瞬だけ目が合う。
桜井さんが、小さく頷いた。
『行け』
(怖いよ)
『恐れるなとは言わぬ』
皇帝は静かに言った。
『恐れながら歩め』
僕は教室を出た。
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校舎裏には、既に三人が待っていた。
コンクリートの壁に囲まれた、日当たりの悪い場所。
普段、生徒が立ち寄ることはほとんどない。
だからこそ、こういう場所に選ばれる。
「よく来たな、ブヒ」
壁にもたれていた菅原が、身体を起こした。
藤田は少し離れたところでスマートフォンを眺めている。
村上は二人の後ろで、落ち着かなそうに足元を見てい
た。
「逃げるかと思ったぜ」
「逃げても終わらないから」
なるべく声が震えないように答える。
菅原が鼻で笑った。
「分かってんじゃん」
ゆっくりと距離を詰めてくる。
格闘技ジムで鍛えているだけあって、僕とは身体の厚みが違う。
「朝はよくも恥かかせてくれたな」
「僕がやったわけじゃない」
「腰抜けってお前の口から出たんだろうが!」
菅原の拳が、僕の顔のすぐ横の壁へ叩きつけられた。
鈍い音。
本気ではない。
脅すための一撃だ。
それでも身体が勝手に縮こまる。
「今度は誰も助けてくれねぇぞ」
『まだだ』
皇帝が冷静に告げる。
『まず右の男を崩せ』
僕は菅原の後ろにいる藤田を見る。
ちょうどスマートフォンが震えた。
藤田は画面を確認せず、苛立ったようにポケットへ押し込む。
「藤田君」
「……なんだよ」
「さっきから、スマホ鳴ってるね」
「関係ねぇだろ」
『あやつは三人の中で最も臆病だ』
皇帝が囁く。
『力ではなく、失うものを恐れておる』
(でも、これって脅しじゃないか?)
『違う』
皇帝は即座に否定した。
『選択を与えているだけだ』
『正道へ戻るか。奈落へ進むか』
『決めるのは、あやつ自身よ』
僕は唾を飲み込んだ。
「藤田君のお父さん、市議会議員だったよね」
藤田の眉が、ぴくりと動いた。
「……だから?」
「朝、窓ガラスが割れた時のこと、誰かが撮影してたみたいだよ」
「何の話だ」
「菅原君たちと僕が揉めてるところ」
僕は藤田の目を見る。
「もうSNSに上がってるかもしれない」
藤田の表情から、わずかに余裕が消えた。
「適当なこと言うなよ」
「確認してみれば?」
スマートフォンが、また震えた。
今度は一度ではない。
短い振動が、何度も続く。
藤田は我慢できなくなったように画面を開いた。
「……何だよ、これ」
藤田の頬から血の気が引いた。
僕自身、動画がどこまで広まっているかは知らない。
朝、スマートフォンで隠し撮りしていた生徒が何人かいて、そのうち一人でも誰かに送信していれば、話は勝手に広がる。
そこから先は、皇帝の言葉どおりだった。
相手自身が、最悪の続きを想像する。
「もし動画が広まったら」
僕は静かに続ける。
「市議会議員の息子が、学校でいじめをしていたって話になるかもしれない」
「……」
「お父さんが知ったら、大変じゃない?」
「黙れ」
「学校の中だけじゃ終わらないよ」
僕の声は震えていた。
それでも、言葉を止めなかった。
「今まで僕にしてきたことも、全部調べられるかもしれない」
「おい……」
藤田が僕を見る。
さっきまでとは、まるで違う目だった。
「お前、なにがどうなってるか、どこまで知ってる?」
「知らない」
「は?」
「僕は知らない。でも、ネット民たちな君のことを調べるよ」
藤田の喉が鳴った。
『人は拳では折れぬ』
皇帝が淡々と告げる。
『未来を失う恐怖で折れる』
藤田は、もう一度スマートフォンを見る。
通知は止まらない。
画面を握る手が震えていた。
『真実など要らぬ』
皇帝は冷たく笑った。
『相手が続きを想像した時点で、勝ちだ』
「なあ、菅原」
藤田が一歩下がる。
「今日はもうやめとこうぜ」
「は?」
菅原が振り返った。
「今朝の動画とか、面倒なことになってるっぽい。今やったら、本当にまずい」
「お前が言い出したことだろうが」
「状況が変わったんだよ!」
藤田の声が裏返る。
「俺、戻るわ」
「おい、待てよ!」
藤田が校舎の方へ歩き出す。
『待て』
皇帝が告げた。
『最後の一押しだ』
「藤田君」
呼びかけると、藤田は足を止めた。
振り返りはしなかった。
「本当に菅原君の友達なら」
僕はその背中へ言う。
「今、止めた方がいいよ」
藤田の肩が動く。
「このまま続けたら、君まで終わる」
「おい、藤田!」
菅原の怒声が飛ぶ。
藤田は一度だけ菅原を見た。
けれど、その目に友情はなかった。
あったのは、自分だけは助かりたいという焦りだった。
「今日は無理だ!」
「俺は知らねぇからな!」
そう叫び、藤田は走り去った。
菅原の顔が、怒りで歪む。
『一人』
皇帝が静かに数えた。
『弱き者ほど、守るべきものが多い』
(怖い人だな……)
『皇帝とは、そういうものだ』
菅原は舌打ちし、残った村上を睨んだ。
「村上。こいつ押さえろ」
「……」
村上は動かなかった。
「おい、聞いてんのか!」
「村上」
僕は彼の名前を呼んだ。
村上が、わずかに顔を上げる。
中学の頃。
僕と村上は、毎日のように一緒にいた。
同じゲームをして。
同じ漫画を貸し借りして。
映画の公開日を調べて、二人で観に行く約束もした。
それが、いつから変わったのだろう。
「中学の時、一緒に観に行こうって約束した映画、あっただろ」
村上の表情が固まる。
「……何だよ、急に」
「結局、行けなかったよな。お前が部活で忙しくなって」
「そんな昔の話、覚えてねぇよ」
「僕は覚えてる」
声が震えた。
これは皇帝に言わされた言葉ではない。
僕自身が、ずっと胸の奥へ押し込んでいた言葉だった。
「あの時、お前、謝ってくれたんだ」
「今度、絶対に埋め合わせするって」
村上は何も言わない。
「僕の鞄を投げた時も」
喉が痛くなる。
「拾えよって言った時も」
それでも続けた。
「ずっと思ってた」
「昔のお前と、今のお前、本当に同じ人なのかなって」
「うるせぇ!」
菅原が割り込む。
「昔話なんかしてんじゃねぇよ! 村上、押さえろ!」
村上の手が動く。
けれど、僕へ伸びることはなかった。
拳を握り、苦しそうに俯いている。
「村上」
僕はもう一度呼んだ。
「本当に、お前はそっち側なの?」
沈黙が落ちた。
『くく』
皇帝が小さく笑う。
(何?)
『ようやく分かった』
(何が?)
『あやつの裏切りの値が高いのは、誰かをすぐ裏切るということではない』
皇帝の声に、奇妙な確信があった。
『己が嫌う現状を、捨て去る勇気のことでもある』
『あやつは生粋の裏切り者ではない』
『今の己を』
『今の仲間を』
『今の弱さを』
『裏切りたくて仕方がない男だ』
僕は息を飲んだ。
村上は、ずっと俯いている。
逃げたいのに逃げられず。
変わりたいのに、変わるきっかけを見つけられず。
誰かの後ろへ隠れ続けている。
「村上」
僕は手を差し出さなかった。
そんな簡単に、昔へ戻れるとは思っていない。
ただ、言葉だけを渡した。
「お前、変われるよ」
村上の肩が震える。
「まだ、今なら」
「……俺」
絞り出すような声だった。
「俺、最低だ」
「知ってる」
「即答すんなよ……」
村上の口元が、ほんの少しだけ歪んだ。
笑ったのかもしれない。
泣きそうだったのかもしれない。
「でも」
村上は菅原を見た。
「こんなこと、もう終わりにしたい」
「何言ってんだ!」
菅原が怒鳴る。
「裏切るのか!」
村上は一度、目を閉じた。
そして。
「違う」
「お前を裏切るんじゃない」
村上は、自分の胸を拳で叩いた。
「今の俺を」
菅原の顔から、言葉が消えた。
『そうだ』
皇帝が満足そうに告げる。
『人は他人を裏切る前に、まず己を裏切れ』
『弱き己を捨てること』
『それが変化というものだ』
村上は僕と目を合わせないまま、校舎の方へ歩き出した。
藤田とは違う。
逃げるような足取りではなかった。
『二人目』
(皇帝)
『何だ』
(ステータスって、こういうことまで分かるの?)
皇帝は静かに笑った。
『数字とは、結果に過ぎぬ』
『余が見ているのは魂だ』
『魂は数字より、遥かに雄弁よ』
あとに残ったのは、菅原一人だった。
「……あいつら」
低い声が震えている。
「二人とも、俺を裏切りやがった」
『終わったな』
皇帝が告げる。
(え?)
『勝負は既についておる』
(でも、菅原はまだいるよ)
『あれはもう敗軍の将だ』
菅原が僕へ顔を向けた。
その目から、理性が消えている。
「お前のせいだ」
ゆっくりと拳を握る。
「お前が余計なことを言うから」
腰を落とした構えだけは、綺麗だった。
仲間を失っても。
怒りで我を忘れても。
身体へ染みついた技術までは消えない。
「ぶっ殺す!」
菅原の拳が飛んできた。
『目を逸らすな!』
頬へ拳が叩き込まれる。
視界が横へ弾けた。
遅れて、頭の芯まで痛みが響く。
足がもつれる。
それでも、どうにか倒れずに踏みとどまった。
「な……」
菅原の方が驚いた顔をした。
『上出来だ』
(めちゃくちゃ痛いんだけど!)
『痛いだけだ』
(十分大問題だよ!)
『死んではおらぬ』
菅原がもう一度、拳を振るう。
今度は腹だった。
息が一瞬で消える。
「がっ……!」
膝が落ちる。
『立て』
(無理……)
『余は立てと言った』
地面へ手をつき、僕は震える脚を伸ばした。
菅原が顔を歪める。
「何で立ってんだよ」
「僕が、一番知りたいよ……」
次の拳が来る。
怖い。
本能が目を閉じろと叫ぶ。
けれど。
『敵を見よ』
皇帝の声が、痛みの中を貫いた。
『拳から目を逸らすな』
僕は目を開けた。
肩が動く。
腰が回る。
拳が伸びてくる。
見えた。
避けることはできなかった。
拳が頬へめり込み、鼻の奥に鉄の味が広がる。
それでも。
さっきよりは衝撃が小さかった。
受ける瞬間が分かったから、わずかに首を動かせた。
『よい』
皇帝が告げる。
『攻撃が見えておる』
(見えても当たってるよ!)
『見えぬ拳より、遥かにましだ』
菅原の蹴りが横腹へ突き刺さる。
僕は地面を転がった。
肺から空気が押し出される。
「終わりだ」
菅原の声が遠く聞こえた。
『立てぇぇぇ!』
頭の中で皇帝が怒鳴った。
全身が跳ねる。
『余の前で膝をつくな!』
(誰に殴られてると思ってるんだよ!)
『たかが貴様と同じ年の学徒一人であろうが!オーガに殴られてるわけでもあるまいに!』
痛いのに、少しだけ笑ってしまった。
(比較対象がおかしいよ)
僕はもう一度、立ち上がった。
菅原の呼吸が乱れている。
肩が大きく上下していた。
何発も全力で殴り、蹴ったせいだ。
対して僕は、全身が痛い。
足も震えている。
けれど、立っているだけならできる。
『見よ』
皇帝が囁く。
『あやつの拳は、先ほどより遅い』
菅原が殴りかかってくる。
肩が上がる。
右。
僕は身体を左へずらした。
拳が、頬の横を通過する。
風が肌を撫でた。
当たらなかった。
「……え?」
声を漏らしたのは、菅原だった。
僕自身も信じられなかった。
(避けた?)
『一度で驚くな』
菅原が追撃する。
左。
大振り。
僕は後ろへ下がる。
拳が届かない。
さらに右。
今度は頭を下げた。
拳が髪をかすめる。
「何で当たらねぇんだ!」
菅原の声に焦りが混じる。
呼吸はさらに荒くなっている。
最初の鋭さはもうなかった。
動きも大きい。
見える。
全部ではない。
それでも、さっきまで何も分からなかった拳が、今は少しだけ見える。
「どうしたの?」
息をするだけで腹が痛む。
それでも、僕は笑った。
「格闘技、やってるんじゃなかった?」
菅原のこめかみに血管が浮かぶ。
『よい挑発だ』
(本当は言いたくなかったよ!)
「調子に乗んな!」
怒りに任せた拳が飛んでくる。
僕は横へよけた。
菅原の拳が壁へぶつかる。
鈍い音とともに、菅原が顔をしかめた。
「くそっ!」
「もう、息が上がってるよ」
「黙れ!」
「三人じゃないと、僕一人も倒せないの?」
その言葉が決定打になった。
菅原が吠え、一直線に突っ込んでくる。
もう構えも何もない。
ただ怒りだけで拳を振り回している。
僕は下がる。
右へ。
左へ。
避ける。
完全には避けきれず、肩や腕を何度か殴られた。
それでも、顔や腹への直撃は減っていく。
菅原の攻撃は、目に見えて弱くなっていた。
『覚えておけ』
皇帝が静かに言う。
『倒れる者は、肉体が負けたのではない』
『心が先に地へ伏したのだ』
『心が立っている限り』
『肉体は、まだ終わらぬ』
菅原が拳を振り上げる。
けれど、その腕は途中で止まった。
呼吸が続かない。
足もふらついている。
対する僕も、立っているのがやっとだった。
それでも。
僕は倒れていない。
「……何で」
菅原が呟く。
「何で、お前なんかが」
その時だった。
「もうやめよう!」
凛とした声が、校舎裏に響いた。
桜井さんだった。
校舎の角から姿を現し、僕たちの間へ歩いてくる。
一人ではない。
その後ろには、何人もの生徒がいた。
五人。
六人。
さらにいる。
全員がスマートフォンを構えていた。
朝、教室で俯いていた生徒たち。
見て見ぬふりをしていた生徒たち。
今は誰一人、目を逸らしていない。
「何だよ、お前ら……」
菅原が周囲を見回す。
スマートフォンのカメラレンズが、すべて自分へ向いていることに気づく。
「撮ってんじゃねぇ!」
誰も止めない。
誰も逃げない。
桜井さんが僕の隣まで来た。
「陰山君、もう十分だよ」
「でも……」
「全部、撮れてるから」
桜井さんの手にあるスマートフォンも、録画中だった。
「藤田君と村上君が帰ったところも」
「菅原君が陰山君を何度も殴ったところも」
菅原の顔から血の気が引いていく。
「消せよ」
「消さない」
桜井さんは震えていた。
声も、よく聞けばわずかに震えている。
それでも、一歩も下がらなかった。
「今朝は怖くて、何もできなかった」
桜井さんは菅原をまっすぐ見る。
「でも、もう見ているだけにはしない」
「学級委員だからって、調子に乗んな!」
菅原が桜井さんへ一歩踏み出す。
僕は反射的に、その前へ出た。
足は震えている。
顔も腹も痛い。
それでも、桜井さんと菅原の間に立った。
「僕が1人が倒せないからって、今度は女の子に八つ当たり?」
自分でも驚くほど、自然に言葉が出た。
桜井さんが息を飲む。
菅原の拳が震える。
けれど、もう振り上げることはできなかった。
周囲にいる生徒全員が、その姿を撮影している。
藤田はいない。
村上もいない。
誰も菅原の隣には立っていない。
『見よ』
皇帝が静かに告げる。
『最後まで戦っているのは、あやつ一人だ』
菅原が周囲を見回す。
「おい……」
返事はない。
「何なんだよ、お前ら」
誰も笑わない。
誰も菅原を応援しない。
スマートフォンだけが、無言で向けられている。
「藤田!」
返事はない。
「村上!」
この場にもういない2人から当然、返事はなかった。
『群れの長など』
皇帝の声が、頭に冷たく響く。
『群れが消えれば』
『狩りなどできず、自らが狩られるのみよ』
菅原の拳が、ゆっくりと下がった。
「菅原君」
桜井さんが言う。
「もうやめよう」
「何がだよ……」
菅原の肩から、力が抜ける。
怒りで赤くなっていた顔が、急速に青ざめていく。
自分が一人になったことを、ようやく理解したのだ。
『終戦だ』
皇帝が告げた。
その直後。
「そこで何をしている!」
山田先生の声が響いた。
先生が息を切らしながら走ってくる。
桜井さんの指示で、別の生徒が呼びに行っていたのだろう。
先生は僕の腫れた顔を見て、次に菅原を見る。
「菅原。陰山を殴ったのか」
「違います」
菅原は反射的に否定した。
けれど、その声に力はなかった。
山田先生が周囲を見る。
「撮影していた人は?」
何人もの手が上がる。
「最初から撮っています」
「殴ったところも全部」
「藤田君と村上君がいた時からです」
言葉が次々と重なる。
言い逃れのできない証拠。
誰か一人の証言ではない。
複数の角度から残された、動かない事実。
菅原は口を開いた。
けれど、何も言えなかった。
肩を落とし、俯く。
朝、教室で僕を見下ろしていた姿とは、まるで別人だった。
「職員室へ来なさい」
山田先生が告げる。
菅原は抵抗しなかった。
その時。
僕の身体が、ほんの一瞬だけ動かなくなった。
(皇帝?)
『戦が終わったのだ』
嫌な予感がした。
(何する気?)
『決まっておろう』
皇帝が、僕の口を借りる。
背筋が勝手に伸びる。
俯いていた顔が上がる。
痛みで震えていた身体から、別人のような威圧感が放たれた。
「聞け!」
校舎裏に、僕のものではない声が響く。
全員の視線が集まる。
山田先生まで足を止めた。
「敵は疑い」
「敵は散り」
「最後に残ったは、一人の愚者のみ」
(ちょっと、長い!)
「この戦」
皇帝は大きく息を吸った。
「余らの勝利である!」
一瞬。
校舎裏が静まり返った。
やってしまった。
完全にやってしまった。
今すぐ穴を掘って埋まりたい。
けれど。
「うおおおおっ!」
誰かが声を上げた。
それをきっかけに、歓声が弾ける。
「陰山、やったな!」
「すげぇじゃん!」
「菅原の攻撃、避けてたよな!」
拍手まで起きた。
朝まで僕から目を逸らしていた生徒たちが、笑っている。
今度は僕を笑っているのではない。
僕と一緒に笑っていた。
「ちょっと待って!」
身体が自由になった瞬間、僕は顔を真っ赤にして叫んだ。
「今の僕じゃないから!」
『何を恥じる』
皇帝が不満そうに言う。
『勝者が勝ちを名乗って何が悪い』
(高校の校舎裏で「余らの勝利」とか叫ぶ方が悪いよ!)
『歓声が上がっておるではないか』
(面白がられてるだけだよ!)
僕が頭の中で抗議していると、隣から小さな笑い声が聞こえた。
桜井さんだった。
「陰山君って、やっぱり変わってるね」
「誤解だから」
「でも」
桜井さんは、僕の腫れた頬を見る。
「朝より、少しかっこよかった」
心臓が止まりそうになった。
「え?」
「攻撃を避けたところ」
「あ、そっち……」
『何を落胆しておる』
(してない!)
山田先生に連れられ、菅原が校舎裏を去っていく。
その背中は小さかった。
僕は一発も殴り返していない。
力で勝ったわけでもない。
皇帝の作戦がなければ、何もできなかった。
それでも。
藤田へ言葉を投げた。
村上へ、自分の気持ちを伝えた。
殴られても、何度も立った。
最後には、菅原の拳を避けた。
そして僕が頼んだから、桜井さんも、ほかのクラスメイトたちも動いてくれた。
「しかし驚くよ。桜井さんが声をかけてくれたとはいえよくみんな来てくれたよね」
『今朝、あの糾弾の場で、下を向いていた者どもだ』
皇帝の声が、いつもの軍略家の調子に戻る。
『罪悪感を抱く者は、二種類に分かれる』
(うん)
『目を逸らし続け、やがて忘れる者。目を逸らしたことを、いつまでも忘れられぬ者』
(忘れられない方に、声をかけたってこと?)
『左様。だが、一人へ頼めば、断られて終わるかもしれぬ』
(じゃあ、何で何人も)
『同じ罪悪感を持つ者を、何人も集めればどうなる』
(どうなるの)
『互いが、互いの背中を押す。断りにくくなる、とも言えるがな』
少しだけ、ぞっとした。
(人の心、利用しすぎだよ)
『利用ではない。あの者たちは、皆、自分の意志で頷いた』
『余がしたのは、少し背中を押しただけだ』
その言い方は、やっぱり少しずるいと思った。
『どうだ』
皇帝が得意げに尋ねる。
『これが戦というものだ』
(僕には、もう少し普通の勝ち方がよかったよ)
『贅沢を言うな』
痛む頬を押さえながら、僕は空を見上げた。
僕の最悪な学校生活は。
今日、確かに少しだけ変わった。
ただ。
『油断するな』
皇帝の声が、不意に低くなる。
(何?)
『菅原には、兄がいたな』
その一言で、胸の奥が冷たくなった。
半グレ集団の中心人物。
その名前だけで、地元の不良はおろか本職のヤクザでさえ道を譲るという男。
『弟が学校で恥をかかされたと知れば、黙ってはおるまい』
(……本当に?)
『余の勘だ』
皇帝は静かに笑った。
『そして、この手の勘は大抵当たる』
昼休みの終わりを告げるチャイムが、遠くで鳴り始める。
チャイムの音が、まるで開戦を告げる合図のようだった。




