第三話 前編 暗黒皇帝、糾弾す
ガラスの破片が、雨のように教室へ降り注いだ。
窓際の生徒たちは悲鳴を上げ、机の下へ潜り込む。
吹き込んだ風がカーテンを大きくはためかせ、床へ落ちたプリントを教室中へ撒き散らした。
誰もが混乱していた。
ただ一人。
僕の身体を〇・一パーセントだけ支配している、頭の中の皇帝を除いて。
『ふむ』
皇帝は、割れた窓を眺めるように呟いた。
『この器でも、多少の威圧は放てるようだな』
(多少で教室の窓を全部割るな!)
『余が本来の身体であれば、威圧だけでこの学舎ごと跡形もなく消し飛んでおる』
(比較対象がおかしいんだよ!)
僕の叫びは、もちろん誰にも聞こえない。
教室にいる全員が、僕を見ていた。
正確には、暗黒皇帝ヴァルガイアに口と喉を奪われている僕を。
さっきまで僕の胸ぐらをつかんでいた菅原は、数歩離れた場所で固まっている。
藤田は顔色を失いながらも、ポケットの中へ手を入れていた。
おそらくスマートフォンを操作している。
こんな状況でも録画するつもりなのか。
村上は、口を半開きにしたまま僕を見ていた。
その顔には恐怖と困惑が入り混じっている。
たぶん、僕も同じ顔をしている。
教壇では、担任の山田先生が出席簿を抱えたまま動けずにいた。
山田先生は、たしか五十代後半。
教師生活は三十年くらいになるはずだ。
その長い教師人生の中でも、生徒が突然低い声で暗黒皇帝を名乗り、教室中の窓を吹き飛ばす事件は、今日が初めてだと思う。
たぶん最後でもある。
そうであってほしい。
「み、みんな……落ち着け」
山田先生が、ようやく声を絞り出した。
「窓から離れなさい。ガラスで怪我をした人はいないか?」
生徒たちが互いの様子を確認し始める。
幸い、割れたガラスはほとんど教室の外側へ吹き飛んでいた。
床に落ちた破片も、細かく砕けたものばかりだ。
どうやら、皇帝なりに加減はしていたらしい。
(加減できるなら、最初から割るなよ)
『威厳を示すには、相応の演出が必要なのだ』
(演出で修理費を発生させるな!)
山田先生は菅原たちへ視線を向けた。
「菅原、藤田、村上。陰山から離れて、自分の席に戻りなさい」
「先生、でもこいつが」
菅原が言い返そうとする。
「いいから座りなさい!」
山田先生が、珍しく強い声を出した。
菅原は舌打ちした。
それでも、一度は従うつもりなのか、ゆっくり僕から離れていく。
その時だった。
僕の口が、再び勝手に開いた。
「そこな男」
凛とした低い声が、教室へ響く。
山田先生の肩が跳ねた。
「……私か?」
「他に誰がおる」
(先生、本当にごめんなさい)
僕は心の中で手を合わせた。
でも口は止まらない。
皇帝が、僕の身体を通して教壇を見据える。
「貴様は、この者らへ物を教える立場であろう」
「き、君は一体……」
「問われたことへ答えよ。貴様は師であるな」
声は静かだった。
怒鳴っているわけではない。
それなのに、窓ガラスを割った時よりも、ずっと教室を圧倒していた。
「……そうだ」
山田先生が小さく答えた。
「ならば問う」
僕の背筋が、皇帝の意思で真っ直ぐ伸びる。
「何故、見て見ぬふりをした」
教室中が静まり返った。
遠くで鳴る運動部の掛け声が、やけにはっきり聞こえる。
「な、何のことだ」
「戯けるな」
皇帝の声が、わずかに低くなる。
「先ほど、あの男が余の器の頬を叩いていた。貴様の立つ場所から見えぬはずはない」
山田先生の顔が強張った。
菅原が椅子を引く音がした。
「ただの小競り合いであれば、ある程度の黙認を是とする時もあるやもしれぬ」
皇帝は続ける。
「若者同士が互いの力を測り、時に拳を交える。余も、それ自体を全て否定するほど狭量ではない」
(学校では普通、拳を交えないんだよ)
『今は黙っておれ』
(僕の口なのに!)
「だが」
教室の空気が、再び重くなる。
「あやつらが行っているのは、戯れでも小競り合いでもない」
ヴァルガイアの視線が、菅原、藤田、村上を順番に捉える。
三人とも、今度は目を逸らした。
「暴行」
ひとつ。
「恐喝」
ふたつ。
「強要」
みっつ。
「脅迫」
よっつ。
「尊厳を弄び、その様を記録し、さらに辱めの材料とする」
藤田のポケットの中で、スマートフォンの画面が小さく光った。
皇帝は、それすら見逃さなかった。
「これは犯罪だ」
教室が凍りつく。
「貴様も、それを知っておるのであろう」
山田先生は答えなかった。
いや、答えられなかった。
目が泳ぎ、唇だけが僅かに動く。
たぶん先生にも、先生なりの事情がある。
菅原の兄のこと。
藤田の父親のこと。
問題を大きくすれば、自分の立場が危うくなること。
僕だって分かっている。
だからこそ、先生を責めることはできなかった。
今までは。
(ごめんなさい、山田先生)
心の中で呟く。
(でも、全部本当なんだ)
「師とは」
皇帝の声が、少しだけ柔らかくなった。
「教え子が争えば諫める者ではないのか」
山田先生が顔を上げた。
「子が泣けば、守る者ではないのか」
「……」
「力のない者が踏みにじられた時、その前へ立つ者ではないのか」
先生の手の中で、出席簿が震えていた。
「それとも」
皇帝は問いかける。
「この学舎では、違うのか」
答える者はいなかった。
山田先生は、やがて小さく頭を下げた。
「……私の対応が、十分ではなかった」
教室がざわつく。
僕も驚いた。
山田先生がこんなことを言うとは思わなかった。
「だが、今はまず安全を確保する。陰山も、それでいいな」
『よかろう』
「よかろう」
僕の口から、皇帝の許可が出た。
(何様だよ!)
『皇帝だ』
(知ってるよ!)
山田先生が一瞬、何とも言えない顔をした。
たぶん教師生活三十年で、生徒から「よかろう」と許可されたのも初めてだ。
本当にごめんなさい。
けれど、皇帝の糾弾は終わっていなかった。
「そして、貴様らも貴様らだ」
僕の身体がゆっくり教室を見回す。
生徒たちが一斉に目を逸らした。
「笑う者」
数人の肩が揺れる。
「目を逸らす者」
顔を伏せる者が増える。
「黙り続ける者」
誰も僕を見なくなった。
「全員、同罪だ」
(いや、それは言いすぎじゃない?)
『何がだ』
(助けたくても怖くて助けられない人もいるんだよ)
『だから何だ』
「貴様らは、学友が卑劣かつ不当な目に遭っているというのに、ただ傍観するだけか」
皇帝の声が響く。
「この矮小な三人より、ここにいる貴様らの方が圧倒的に数が多いのだぞ」
菅原の顔が歪んだ。
矮小と言われたのが気に入らなかったらしい。
「何だと」
「黙れ。今は貴様に発言を許しておらぬ」
菅原が唇を噛む。
皇帝の一言で、本当に黙った。
教室の中に、小さな衝撃が走る。
いつもなら、菅原へ正面からそんなことを言える人間はいない。
それが僕の口から出た。
正確には僕ではないけれど、みんなには分からない。
「たった三人が怖いか」
誰も答えない。
「数では十倍以上」
皇帝の目が、教室全体を射抜く。
「それでも、一人を見捨てる」
僕は何も返せなかった。
みんな、自分が次に狙われるのが怖いだけなんだと、心のどこかで分かっていたから。
『ならば、その恐怖へ全員で立ち向かえばよい』
(簡単に言うなよ)
『簡単ではない』
皇帝の返事は、意外にも静かだった。
『だが、難しいことと、やらぬことは別だ』
僕は何も返せなかった。
皇帝は生徒たちへ言葉を続ける。
「恐怖を抱くことを恥じる必要はない」
その一言で、何人かが顔を上げた。
「恐怖を抱きながら、それでも立つ者を勇者と呼ぶ」
皇帝が勇者という言葉を使ったのが、少し意外だった。
「だが、恐怖を言い訳に、踏みにじられる者を笑う者は」
その声が冷たくなる。
「ただの腰抜けだ」
痛いほどの沈黙が落ちる。
僕には、とても言えない言葉だった。
誰かへ嫌われることを覚悟しなければ、こんなことは言えない。
でも皇帝は、嫌われることなど一切恐れていない。
それどころか。
『気に入らぬ』
(何が?)
『この学舎にいる者どもがだ』
(全員?)
『全員とは言わぬ。だが大半は気に入らぬ』
(辛口すぎる)
「だから余は」
僕の口が開く。
「貴様らのような腰抜けが嫌いだ」
(本当に言った!)
教室のあちこちで息を呑む音がした。
その時。
「待ってよ」
藤田が席から立ち上がった。
いつもの柔らかな笑顔を作っている。
けれど、口元が僅かに引きつっていた。
「今は誰かを責めるより、まず怪我人がいないか確認する方が先じゃないかな」
もっともらしい言葉だった。
「陰山も昨日、事故に遭って混乱しているんだと思う。みんなも、陰山を責めるのはやめよう」
周囲の生徒が、少しずつ頷く。
さすが藤田だ。
いつもこうやって場を作る。
自分が責められる側になりそうなら、話題をずらす。
自分は冷静で善良な人間だと見せかける。
「先生、陰山を保健室へ連れていった方がいいんじゃないですか?」
一瞬、皇帝の意識が止まった気がした。
まるで、言葉の裏側を透かし見るように。
優しさにしては、間の取り方が正確すぎる。
視線の配り方が、教師と生徒、両方の反応を同時に確かめているように見える。
僕でさえ、その違和感に今さら気付いた。
皇帝が低く笑った。
「笑止」
藤田の笑顔が止まる。
「な、何が?」
「最も腐っておるのは、貴様だ」
教室がざわめく。
藤田の目が細くなった。
「僕は、みんなの安全を考えて」
「黙れ」
皇帝が言葉を遮った。
「暴力を振るう者は分かりやすい。己の愚かさを、拳で周囲へ晒しておるからな」
菅原が睨む。
だが、口は挟まない。
「だが貴様は、他者を使い、自らの手を汚さず、人を貶める」
藤田のポケットに入った手が止まった。
「今も、記録しておるな」
教室中の視線が、藤田のポケットへ集まる。
「してないよ」
「ならば、その手を出せ」
「……」
「出せぬのか」
藤田はゆっくりポケットから手を出した。
握られていたスマートフォンの画面には、録画中を示す赤い印が光っている。
教室がざわついた。
「違う。これは証拠を残すためで」
「そうやって言葉を飾り、自らを正当化する」
皇帝の声が冷たく落ちる。
「正義を語る資格はない」
藤田の顔から、ついに笑顔が消えた。
「最初に裁くべきは、貴様かもしれぬな」
(裁くって何する気だよ)
『案ずるな。今は魔力が乏しい』
(今はって言った?)
その時、山田先生が手を叩いた。
「もういい! 全員、自分の席へ戻りなさい!」
今度こそ教師らしい強い声だった。
「窓際の席の者は反対側へ移動。保健委員は怪我人の確認。私は職員室へ連絡する」
生徒たちが、おずおずと動き始める。
藤田は無言で席へ戻った。
村上も僕を見ないまま、その後へ続く。
最後に菅原が僕の横を通り過ぎた。
一度はそのまま離れるかと思った。
けれど僕の耳元で足を止める。
「昼休み」
小さな声。
「校舎裏に来い」
菅原の目には、さっきまでの恐怖はなかった。
代わりに、燃えるような怒りがある。
「絶対に逃げんなよ」
そう囁き、菅原は僕の肩を強く押して離れていった。
(終わった)
『何がだ』
(校舎裏に呼び出された)
『だから何だ』
(だから何だじゃないよ! 絶対殴られる!)
『殴り返せ』
(できるなら悩んでない!)
皇帝は不満そうに鼻を鳴らした。
教室を制圧したのは、皇帝の言葉だった。
でも、昼休みに待っているのは、言葉じゃ済まない何かだ。
さっきの静けさとは、たぶん種類が違う戦いになる。
そんな予感が、胸の奥でざわついていた。
ーーーーーーーーーーーーーー
一時間目。
数学。
黒板に並ぶ数字が、全部暗号に見えた。
ただでさえ数学は苦手なのに、昼休みに校舎裏で処刑される予定が入っている状態で、二次関数に集中できるわけがない。
『まずいな』
突然、皇帝が呟いた。
(何が?)
『魔力が尽きた』
僕の思考が止まった。
(……今、何て?)
『魔力が尽きたと言った』
(え?)
『先ほどの窓硝子を破壊した魔力放出で、この肉体に残っていた魔力を使い切った』
(全部?)
『全部だ』
(全部ぇぇぇぇぇ!?)
思わず椅子から立ち上がりそうになり、慌てて机へしがみつく。
教師がこちらを見た。
「陰山、どうした」
「な、何でもありません」
教室の視線が僕へ集まる。
すぐに俯いた。
(どうするんだよ! 昼休みまであと二時間しかないんだぞ!)
『何を慌てておる』
(魔力ゼロなんだろ!)
『左様』
(菅原は格闘技やってるんだよ! 僕なんて一発で終わりだ!)
『案ずるな』
皇帝の声は、妙に落ち着いていた。
『この程度の状況、ワルプギスの丘の戦いに比べれば、窮地のうちに微塵も入らぬ』
(何、それ)
『知らぬのか』
(知らないよ)
『世界史にも記されておらぬか』
(この世界の世界史に、あんたの戦争が載ってるわけないだろ)
『嘆かわしい世界だ』
(世界のせいにするな)
『あの戦いでは、余と三千の精鋭が本隊から分断され、魔力の補給も断たれた』
(うん)
『敵は三十万』
(桁がおかしい)
『魔力を失った状態で、七日七晩戦い続けた』
(どうやって生き残ったの?)
『簡単だ』
(絶対簡単じゃない)
『敵の補給部隊を襲い、奪った食料と武器を利用し、夜襲と偽装撤退を繰り返した。三日目には敵将の一人を捕らえて偽命令書を書かせ、敵軍同士を争わせた』
(えげつないな)
『戦とは、正々堂々と行う競技ではない。最後に立っていた者が勝者だ』
(それで勝ったの?)
『うむ』
(それって、部下に裏切られた話と同じ?)
『違う。あれは、もっと後の話だ』
(じゃあ、あんた戦争に何回巻き込まれてるの)
『数えるのも面倒なほどだ』
(じゃあ、何で最終的に部下に負けたの?)
『今はその話をしておらぬ!』
そこは絶対に触れられたくないらしい。
『まず、貴様と敵の力を正確に把握する』
(どうやって?)
『視覚を借りる』
(え?)
次の瞬間。
視界の隅に、半透明の板のようなものが浮かび上がった。
青白い文字が空中へ並んでいる。
(うわっ)
『騒ぐな』
(これ、何?)
『貴様の記憶にあるゲームとやらを参考にした。すてーたす、と呼ぶのであろう』
(本当にゲームに寄せてきた)
板の中央には、僕の名前が表示されていた。
【陰山シュウ】
年齢 十六
腕力 八
耐久 三十八
敏捷 五
知力 十二
精神 十八
魔力 〇
幸運 二
支配率 〇・一パーセント
(低っ)
『知っておる』
(知力十二って普通なの?)
『余の基準では低い』
(余計な一言を足すな)
『耐久だけは多少あるな』
(太ってるから?)
『脂肪の鎧のおかげだ』
(言い方!)
皇帝は、前の席に座る菅原へ意識を向けた。
視界の板が切り替わる。
【菅原龍二】
腕力 四十七
耐久 四十一
敏捷 三十二
知力 十八
精神 十四
喧嘩 五十二
(僕の腕力の六倍近いんだけど)
『大したことはない』
(あんた基準で話すな)
次は藤田。
【藤田玲】
腕力 十五
耐久 十三
敏捷 十七
知力 四十三
精神 三十二
交渉 三十一
悪知恵 六十八
(悪知恵って正式な能力なの?)
『目立った資質を、分かりやすく表示しただけだ』
(かなり高いな)
『あやつが最も厄介だ』
最後に村上。
【村上健太朗】
腕力 二十一
耐久 二十
敏捷 十八
知力 二十三
精神 九
追従 三十四
裏切り 九百九十九
(最後おかしいだろ!)
『正確だ』
(そんな数値あるわけない!)
『余の見立てでは、まだ上がる余地がある』
(成長させるな)
視界の板が消える。
(現状、まともに戦ったら絶対勝てないじゃん)
『そうだな』
(そこは否定してよ)
『事実を歪める指揮官は、部下を死なせる』
皇帝の声が急に真面目になる。
『貴様が正面から三人と戦えば、十中八九負ける』
(残り二割は?)
『運よく逃げられる』
(勝利じゃないんだ)
『だから正面から戦わぬ』
(何か手があるの?)
『戯け!』
いきなり怒鳴られた。
(何で怒るんだよ)
『貴様の首から上についているものは、ただの飾りか』
(ひどい)
『こういう時こそ、その空っぽの頭を回転させるのだ』
(空っぽって言った)
『貴様はゲームが好きなのであろう』
(好きだけど)
『ならば、レベル1の者がレベル10の敵へ勝つ方法を知っておるはずだ』
(レベルを上げる)
『昼までにか』
(無理だね)
『強い装備を手に入れる』
(どこで?)
『知らぬ』
(そっちが聞いたんだろ)
『正面から勝てぬなら、勝てる戦場を作る』
皇帝の声が、静かに変わる。
さっきまでの尊大な暴君ではない。
戦場で何万人もの兵を動かしてきた、冷静か軍略家の声だった。
『敵の性格を利用せよ』
(性格?)
『菅原は力を誇示したい。藤田は自らの立場を守りたい。村上は強い側へ付いていたい』
その分析は、驚くほど的確だった。
『三人は仲間ではない』
(いつも一緒にいるよ)
『それは利害が一致しているだけだ』
皇帝が笑う。
『利害が崩れれば、群れは割れる』
(どうやって?)
『搦手だ』
(からめて?)
『罠、心理、虚勢、誘導。使えるものは全て使え』
(でも僕、そういうの得意じゃない)
『案ずるな』
皇帝の声が、いやに楽しそうになる。
『余が作戦を授けてやる』
(本当に勝てるの?)
『勝てる』
(魔力ゼロなのに?)
『魔力がなくとも、戦はできる』
(僕は喧嘩したこともないよ)
『貴様が拳を振るう必要はない』
(え?)
皇帝が、僕の頭の中で作戦を囁いた。
最初の一言を聞いた瞬間。
僕は思わず机から立ち上がりかけた。
(えぇぇぇ!?)
教師がこちらを見る。
「陰山。今日は本当にどうした」
「な、何でもありません!」
僕は慌てて座り直した。
(そんなの無理だよ!)
『可能だ』
(絶対バレるって!)
『バレても構わぬ』
(構うよ!)
『勝利には、多少の危険が伴う』
(多少じゃない!)
『安心せよ』
(その言葉、最近全然安心できない)
『余は一度たりとも敗北したことがない』
(世界を統べる直前に部下に負けたって言ってたよね)
皇帝が黙った。
(言ってたよね?)
『……あれは敗北ではない』
(じゃあ何?)
『戦略的転移だ』
(肉体を置き去りにして?)
『授業へ集中せよ、俗物!』
(逃げた!)
皇帝の怒鳴り声が、頭の中へ響き渡る。
でも。
僕は少しだけ笑っていた。
昼休みは怖い。
校舎裏へ行きたくない。
できるなら、今すぐ学校から逃げたい。
それでも昨日までとは、何かが違う。
僕の中には今、世界を支配した、、、直前までいった暗黒皇帝がいる。
魔力は空っぽ。
作戦は無茶苦茶。
本人は敗北を認めない。
それでも。
一人ではない。
机の上の時計を見る。
昼休みまで、あと一時間三十二分。
『覚悟を決めよ、シュウ』
皇帝が、初めて僕の名前を呼んだ。
『今日、貴様は豚をやめる』
胸の奥が、小さく震える。
『牙を持つのだ』




