第二十九話 前編 暗黒皇帝、死國に上陸す
船の縁を握る手は、乾いたままだった。
それなのに、頬へ吹きつける風には、さっきまでとは違う冷たさがあった。潮の匂いの奥に、長い間閉め切っていた物置のような、湿った臭いが混じっている。
僕は櫂を持ち直し、目の前の岸を見た。
黒い岩の間に、砂利の溜まった細い浜がある。波も穏やかで、あそこなら船を寄せられそうだった。
『その先の入り江っス。岩の間を抜ければ、上がれる場所があるっスよ』
「……分かりました」
返事をしてから、櫂を水へ差し入れる。
水を押す手応えは、思ったより重かった。腕だけで動かそうとして肩を引かれ、慌てて握り直す。船首にいた犬の式神が、心配そうにこちらを振り返った。
(そんな目で見ないで。ボートなんて、ほとんど乗ったことないんだから)
『犬に言い訳してどうする』
(皇帝に言ったんだよ!)
『であれば、櫂を動かせ。口ほどには働いておらぬぞ』
口は動かしていない。
そう言い返す余裕もなく、今度は身体ごと捻るようにして水を押した。紙の船がゆっくり向きを変え、岩に挟まれた岸へ近づいていく。
白い鳥が頭上を横切った。犬が船首へ前脚をかけ、猿は背負ったリュックを押さえている。
どうにか、着けそうだ。
そう思ったとき、櫂の先へ、こつりと硬い感触が伝わった。
「……浅い?」
覗き込むと、水の下に灰色の石が見えた。
もう岸に近いのだから、当然だろう。櫂を引き抜き、次にどこへ足を置けばいいか探した。
肩の鼠が、襟を強く引いた。
『待ってほしいっス』
「え?」
船首で、犬の耳が伏せられる。
『岸から離れて! 今、そこへ上がっちゃ駄目っス!』
声の鋭さに、腰が浮いた。
紙の船が傾き、猿の長い腕が反対側の縁を掴む。
『座れ!』
皇帝の一喝に、身体が勝手に縮こまった。
『舟を転覆させてどうする。櫂を離すな』
「で、でも、岸が――」
目の前の岩が、揺れていた。
波に合わせて見え方が変わっているのではない。岩の輪郭だけが、指で擦った鉛筆の線のようにぼやけている。
その向こうに生えていた枯れ木が、幹の途中から横へずれた。
折れる音はしなかった。上半分だけが滑り、何もないところへ枝を広げている。残された幹の奥には、別の木立が透けていた。
「何、これ……」
『《地替わり》っス。身体を低くして、そのまま待ってほしいっス!』
櫂を握る手に力が入る。
さっきまで先端に触れていた石がない。水の下を探しても、灰色だった海底は、底の見えない黒へ変わっていた。
岸で砕けていた波の音が、ふっと途切れた。
すぐに、背後で同じ音がする。
振り返ろうとした僕の肩へ、鼠がしがみついた。
『今は動かないでほしいっス』
目の前の岸が遠ざかっていく。
船が流されているようには感じなかった。縁に浮かぶ泡は、さっきから同じところにある。それなのに、上がろうとしていた砂利の浜だけが、岩ごと奥へ引き込まれていった。
その途中へ、見知らぬ石段が重なった。
海へ下りる、苔のついた石段。
枯れ木の枝が段の中を通り抜け、黒い岩肌には、赤茶けた鳥居の柱が滲み出した。石の表面を木目が走り、太い注連縄が岩を貫いたまま揺れている。
その下を、波とは違う速さで、白い砂の道が横切った。
何が手前にあり、何が奥にあるのか分からない。別々の場所を無理やり重ねて、透かして見せられているようだった。
眼鏡がずれたのかと思い、直そうとした。
でも、櫂から手を離せなかった。
(皇帝……)
『舟の内を見よ』
低い声が、頭の奥へ届いた。
『貴様の足は、まだそこにある。供もおる。変わっておらぬものを確かめよ』
視線を落とした。
黒い膝の装甲。櫂を握った自分の手。船底に踏ん張る猿の脚。
犬もいる。肩には鼠がいる。白い鳥も船縁へ戻り、翼を畳んでいた。
一つずつ確かめているうちに、船の下を擦る感触がした。
ざり、と砂を引っ掻く音がする。
顔を上げると、岩も、鳥居も、石段も消えていた。
代わりに、見知らぬ浜があった。
◇
しばらく、誰も何も言わなかった。
船は、砂浜の縁へ半ば乗り上げていた。
さっきまで両側にあった黒い岩は、どちらにも見当たらない。浜の先には低い防波堤が延び、その向こうへ、家らしい建物の屋根が重なっている。
港町、だろうか。
錆びた鉄塔と、傾いた電柱。岸へ引き上げられた小舟のそばには、青い網が丸まっていた。
人の暮らす場所に見えることが、かえって怖かった。
「あの……」
喉が乾いて、声が掠れた。
「ここ、予定してた場所じゃないですよね?」
『違うっス。今、位置を確かめてるっス』
鳥の式神が大きく旋回していく。
僕はその白い翼を目で追いながら、返事を待った。
鼠屋さんは、すぐには続きを言わなかった。
その間が嫌だった。
「鼠屋さん?」
『……救護所から、かなり離れたっス』
「かなりって、どのくらいですか」
『途中の道も調べないといけないっスけど、少なくとも、一日で着ける距離じゃないっスね』
「一日で、着けない……」
自分の声なのに、妙に平らに聞こえた。
救護所へ行く。みづちさんに会って、話を聞く。
そのつもりで舟に乗った。歩く距離はあるのだろうと思っていたけれど、まさか、着く前に夜を越すことになるとは考えていなかった。
「……元の場所へ、戻れないんですか?」
『周りのつながりが変わってるっス。さっきの岸が、どこへ移ったかも、まだ――』
(皇帝、どうしよう)
『まずは上がれ』
(えっ)
『いつまで舟に収まっておるつもりだ。もう着いておるぞ』
足元を見る。
確かに船底は、砂に乗っていた。
「いや、でも……一日じゃ着かないって」
『座っておれば、二日あっても着かぬ』
(それはそうだけど!)
『陰山さん。慌てなくて大丈夫っス。連絡は取れてるし、食料もあるっス。道も、僕が調べるっスから』
肩の鼠が、顔のそばへ前脚を伸ばした。
『まず、船から降りる。それから周りを確かめるっス。一つずつ、お願いするっス』
慰められている。
犬と猿にも見守られながら。
情けないと思ったけれど、少し呼吸が楽になった。
「……はい」
櫂を浜へ置き、船縁へ手をついた。足を下ろすと、砂利が靴底で鳴る。
膝が少し震えたが、立てた。
猿が荷物を背負ったまま降り、犬がその隣を抜けていく。
僕が船を岸へ引き上げようとしたとき、犬が止まった。
鼻先が、海とは反対を向いていた。
立てた耳が別々の方向へ動く。次いで、前脚を開き、低く身を沈めた。
「……どうしたの?」
『静かにしろ』
皇帝が言った。
僕は口を閉じた。
波の音に混じって、何かを引きずる音がする。
浜の奥には、コンクリートの壁があった。崩れた部分から道路らしいものが覗き、そこへ、人影が現れた。
古びた鎧をつけた男だった。
片足を引きずり、手には刃の欠けた長い武器を握っている。その後ろから、別の男が身体を押し出してきた。
「あの人たち――」
『屍兵っス』
鼠屋さんの声が、短く告げた。
先頭の男が顔を上げる。
頬の肉が削げ、唇のない口から歯が覗いていた。顎の下には、喉の奥まで見えそうな裂け目がある。
そこから漏れた音は、声ではなかった。
湿った布を、無理やり絞ったような音。
胸も肩も、息を吸うためには動いていない。それなのに、濁った赤い眼が僕を捉えた途端、引きずっていた足が速くなった。
反射的に足が半歩下がり、背後の船縁へぶつかる。
(こっち、海……!)
『左だ。舟から離れよ』
言われるまま、横へ動く。
屍兵が長柄の武器を持ち上げた。錆びた刃の向こうに、乾いた海藻のような髪が揺れる。
指先へ魔力を集め、胸の中央を狙った。
魔弾が鎧を穿つ。
鈍い破裂音とともに男の身体が仰け反り、背中から黒い飛沫が散った。
けれど、倒れなかった。
胸に穴を開けたまま踏み込み、刃を振り下ろしてくる。
「うそ……!」
横へ跳んだ。すぐそばで砂が抉れ、頬へ細かな粒が当たる。
『狼狽えるな! 精神世界で相手にした腐肉と骨の群れを思い出せ!』
皇帝の声に、歯を食いしばった。
覚えている。
折れた腕で掴みかかってきたゾンビも、胸を砕かれてなお剣を振るったスケルトンも。
そもそも、息をしていない。痛みを与えても怯まない。人間の急所を、そのまま当てはめてはいけない。
分かっていたはずなのに。
目の前で腐った顎が動き、口の奥から腐臭が押し寄せてくると、覚えていたことまで遠のいてしまう。
『動きを断て。考えるのは、その後だ』
刃が引き抜かれるより先に、右手を下げた。
次の魔弾が膝を砕く。男が片側へ崩れ、武器の柄を砂へ突き立てた。
それでも、こちらへ腕を伸ばしてくる。
その指を見ないようにして、頭へもう一発を撃ち込んだ。
兜がひしゃげ、身体が砂の上へ倒れる。
今度は、起き上がらなかった。
息を吐こうとしたところへ、二体目が来た。
遅いものばかりではなかった。
曲がった剣を横へ振り、ほとんど駆けるように距離を詰めてくる。
『止まるな』
足へ魔力を巡らせた。
《疾駆》。
踏み込む一歩を短く、強く。
剣が届く直前に、その脇を抜けた。頬のそばを刃が通り、追いついてきた腐臭に胃が縮む。
相手はまだ、僕がいた場所へ剣を振っていた。
背中を向けた身体へ、今度はこちらから近づく。
右の拳を握り、魔力を重ねた。
《剛拳》。
脇腹へ叩き込んだ一撃が、鎧ごと胴を潰した。
手応えが、骨にも肉にも似ていない。朽ちた木箱を殴り抜いたような感触とともに、男が横へ折れ、隣に迫っていた屍兵へぶつかる。
二体が絡んで倒れた。
追撃のために腕を上げかけ、右側から迫る影に気づく。
槍だ。
反射的に《障壁》を張った。
透明な面へ穂先が突き当たり、硬い音を立てて滑る。僕は障壁を押し広げ、槍ごと相手の上体を外へ弾いた。
できた隙間へ、魔弾を撃ち込む。
膝、もう片方の脚。倒れたところへ頭。
崩れ落ちる姿を最後まで見届ける前に、次の相手へ向き直った。
手は震えている。
でも、動く。
目で追えなかった一花さんの刀に比べれば、剣も槍も、どこから来るかが見える。
飛び込んでくる刃を避け、踏み込み、殴る。近づきたくなければ脚を撃ち抜き、距離を保つ。
怖いからと足を止めるより、動いていた方が、まだ息ができた。
壁の切れ目から出てきた三体を、続けて倒した。
一体は頭を砕き、一体は足元へ潜って脚を払う。残る一体が振り上げた斧は、こちらが避けたせいで、倒れた仲間の肩へ食い込んだ。
引き抜こうとしているところへ、横から《剛拳》を叩き込む。
男は壁へ飛ばされ、古いコンクリートの表面が剥がれ落ちた。
僕の拳には、前腕の装甲にも、傷はない。
やれる。
一体ずつなら、倒せる。
そう思った途端、壁の向こうから、幾つもの頭が現れた。
数えようとして、やめた。
奥にいるものが前の身体を押し、崩れた壁へ引っかかった屍兵を、後ろから来たものが踏み越える。
肩が外れても、脚が妙な方向へ折れても、構わずこちらへ進んでくる。
その足元で、さっき倒した男の手が動いた。
脚を払っただけの一体だ。
砂の上を這い、僕の足首へ指をかける。
「っ!」
脛の装甲を、爪が擦った。
嫌な音に、身体が跳ねる。
足を引きながら見下ろすと、乾いた歯が、靴の縁を探すように噛み合わされていた。
『退け』
皇帝の声に合わせ、《疾駆》で距離を取った。
さっきまで立っていた場所へ、槍が突き立つ。
穂先は、足元の屍兵の背中を貫いていた。それを握る男も、貫かれた方も、何の反応も示さない。
僕だけを見ている。
口を開け、武器を持ち上げ、動かなくなった仲間の上から手を伸ばしてくる。
魔弾を放った。
一体の頭が砕け、そのすぐ後ろの顔が見えた。
もう一発。
また、別の顔。
倒した身体が壁の切れ目へ積もり始めても、群れの奥は途切れなかった。
「何体、いるんだよ……!」
『陰山さん。海沿いに左へ抜けるっス』
鼠屋さんの声がした。
僕は答えず、迫っていた剣へ障壁を合わせた。
弾かれた刃が、持ち主の額へ跳ね返る。その横から別の腕が伸びてくる。
拳を振る。
手首を砕く。
相手は潰れた手を引っ込めることさえせず、肘まで寄せて掴みかかってきた。
『全部は相手にしなくていいっス!』
「でも、まだ――」
次の一体へ、右手を向ける。
その袖を、鼠が引いた。
『俗物』
皇帝の声が低くなった。
『一花との戦いで、何を学んだ』
指先へ集めかけた魔力が揺れた。
『目の前の刃だけ追って、逃げる場所まで奪われたであろう』
背筋が冷えた。
一花さんの刀を見ていた。
目で追うだけで精いっぱいになって、どう避けるかしか考えられなくなった。
足を止めてしまった、その後のことまで、身体が覚えていた。
『周りを見よ』
視線を上げる。
壁の切れ目だけではない。
右の斜面にも屍兵がいた。浜へ下りてくる足元から、小石が転がっている。
前には、折り重なる死体と、その向こうから迫る群れ。
後ろは海。
左には、まだ道があった。
さっきより、狭くなっていた。
『倒せることと、付き合ってやることは別だ。貴様の用は無駄に魔力を消耗し、ここで倒した死兵を数えることか?』
(……違う)
みづちさんのところへ行く。
ここで、倒せる相手を倒し続けるために来たのではない。
『ならば、足を使え』
「……犬の方へ、行けばいいんですね」
『そっス。犬に退路を案内させるっス。陰山さんは、正面の連中を一度だけ押し返してほしいっス!』
犬が海沿いを駆け、猿が続いた。
僕は両足を踏ん張り、前へ両手を向けた。
障壁を張る。
いつものように刃一本を受ける大きさではなく、目の前の数体をまとめて隔てる幅へ。
槍と剣と、剥き出しの指が透明な面を叩いた。
腕へ重みがかかる。
押し寄せる身体の数だけ、足元の砂がずれた。
歯を食いしばり、障壁を前へ押し出す。
先頭の屍兵が仰け反り、後ろのものへ重なった。すぐには倒れない。それでも、前へ出ようとする脚が絡んだ。
その一瞬でよかった。
僕は手を下ろし、犬の白い背中へ向かって走った。
◇
機甲具足《金剛》の簡易装備とはいえ、鎧を着たまま走るのは、思っていた以上に大変だった。
さっきは動けていた。
魔力を使えば、短い間なら、足も腕も軽くなる。
けれど、戦っている間から速くなっていた呼吸は、逃げ始めても戻らなかった。足を取る砂利の上で《疾駆》を繰り返すのも怖い。
まずは転ばず走る。
そう決めても、踏ん張るたびに脛の装甲の重さを感じ、腕を振る肩が熱くなった。
「はっ……は、ぁ……!」
『呼吸を止めるな。肩を上げすぎだ』
(今、それ……言われても……!)
『だから今、言うておる』
言い返す息が惜しかった。
背後では、まだ武器の触れ合う音がしている。足を引きずるものばかりではない。時折、駆ける足音が混じるたび、背中が強張った。
でも、振り返らなかった。
目の前の犬が通った場所へ足を置く。猿が避けた大きな石を、僕も避ける。
防波堤の切れ目で、犬が振り返った。
『そこから道へ上がるっス。鳥から見えてる範囲なら、先は空いてるっスよ』
短い坂を駆け上がり、舗装された道へ出た。
前方に家並みがある。
港町だった。
ほとんどの家は、窓も戸も閉ざしていた。軒先には網や浮きが吊られ、路肩に積まれた箱から魚の臭いがする。
開いたままの雨戸が、風に押されて壁を叩いた。
その音に、危うく足が止まりかける。
人が暮らしているのか。それとも、道具だけが残っているのか。
確かめる余裕もなく、狭い通りへ入った。
鳥が先の角を回り、犬がそちらへ向かう。
『陰山さん、右の路地――』
「こっちだ!」
鼠屋さんの声に、別の声が重なった。
すぐ横の戸が、細く開いていた。
隙間から、男が手を振っている。
「早く、中へ!」
反射的に足が向いた。
けれど、戸へ辿り着く手前で、一瞬だけ躊躇した。
知らない人だ。
死國で会った、知らない人。
男は僕の背後を見た。慌てた様子もなく、戸をもう少し大きく開く。
『……入れ』
皇帝が言った。
『入口で立ち止まるな』
僕は身体を横にして、戸の隙間へ滑り込んだ。
犬と猿が続き、引き返してきた鳥が低く飛び込む。
最後の白い翼が通り抜けたところで、男が戸を閉めた。
木の棒が差し込まれ、重い音がする。
「奥へ。外から見えないところに」
腕を引かれ、薄暗い部屋へ入った。
膝が抜けそうになり、手近な柱へ掴まる。
喉が痛い。吸い込む息が胸を擦り、口を閉じることもできなかった。
外を、幾つもの足音が通り過ぎていく。
一つが戸の前で止まった。
僕は柱を握ったまま、息を詰めた。
戸の隙間に、影が落ちている。
男は声を出さず、僕へ手のひらを向けた。
じっとしていろ、ということらしかった。
やがて、何かを引きずる音が遠ざかる。
それでも男は、もうしばらく戸のそばを離れなかった。
◇
「……行ったようですね」
男が戻ってきたとき、僕はようやく柱から手を離せた。
年は、四十代くらいだろうか。
日に焼けた顔に、くたびれた上着。袖口は綺麗に折り返されていたが、履物の先には濡れた砂がついていた。
眼の大きな人だった。
こちらを見るたび、黒目の下まで白い部分が見える。驚いているのかと思ったけれど、目元には穏やかな笑みが浮かんでいた。
「顔を拭いて。ずいぶん走ってきたんでしょう」
「あ……ありがとうございます」
差し出された手拭いを取ろうとして、指がうまく開かなかった。
男は急かさなかった。僕が掴める高さへ手を下げ、そのまま待ってくれる。
白い手拭いからは、洗った布の匂いがした。
「怪我はありませんか」
「たぶん……してないです」
「それならよかった。座れますか」
勧められた丸椅子へ、そっと腰を下ろした。
猿が隣へしゃがみ、リュックを床へ置く。犬は入口に耳を向け、鳥は低い棚へとまった。
『そのまま、少し息を整えてほしいっス』
肩の鼠が、耳元で囁く。
僕は小さく頷いた。
部屋には漁具らしいものがまとめられていた。壁に掛けられた縄と、古い木製の棚。天井から下がる電灯は、明るさが足りないのか、隅までは照らしていない。
魚の臭いがする。
外に積まれていた箱と似た臭いだったが、こちらの方が少し濃い。奥にあるのれんの向こうへ、魚でも保管しているのかもしれなかった。
男は僕の腕や脚の装甲を見て、それから、式神たちへ目を移した。
「海の向こうから、いらした方ですか」
「えっと……人に会いに。途中で道に迷ってしまって……」
「ああ。それは、難儀でしたね」
驚いた様子はなかった。
今日の天気でも聞いたように頷き、棚から湯飲みを取り出す。
助かったのだ。
知らない場所へ飛ばされて、死体に追われて、それでも、人に会えた。
濡れた砂をつけたこの人の手が、あのとき戸を開けてくれなければ、まだ通りを走っていたかもしれない。
「ありがとうございます。本当に……助かりました」
「いえいえ。お礼なら、恵比寿様に」
男がゆっくり首を振った。
「ここへ辿り着けたのも、きっとお導きですよ」
顔を拭こうとしていた手が止まった。
恵比寿様。
普通なら、縁起のいい名前のはずだった。
七福神の一柱で、商売繁盛や大漁をもたらしてくれる神様。釣り竿を持ち、鯛を抱えた、にこにこ顔の恰幅のいいおじさん。
少なくとも、名前を聞いた途端に逃げ出したくなる相手ではない。
けれど、鼠屋さんは言っていた。
恵比寿様、恵比寿様と口にする、やべーやつら。
むやみに接触しない方がいい、とも。
その人たちに僕は今、助けられているのかもしれない。
(……皇帝)
『顔に出すな』
手拭いを握り締めかけた指を、ゆっくり緩めた。
男は笑みを浮かべ、僕を見ている。
「そう、なんですね……」
どうにか、それだけ答えた。
声が変になっていなかったか、気になった。男は特に不審がる様子もなく、湯飲みへ水を注いでいる。
(この人、鼠屋さんが言ってた教団の人ってことだよね。それって、敵なの……?)
『まだ決めつけるな。この男の手引きで、無駄な戦闘を避けられたのは事実だ』
皇帝の声は落ち着いていた。
『言葉が通じるのであれば、まずは話を聞け。この土地のことも、ここに棲む者のことも、貴様は知らぬ』
(じゃあ、今は安心しても……)
『屍兵どもの獲物を、横から攫ったという見方もあるがな』
(その獲物って僕のことだよね!?)
『ほかに何がおる』
安心しかけた分まで、背筋が冷えた。
(もう少し、言い方ってないの……)
『どちらであるかを確かめよ、と言うておる。礼を失する必要も、気を許す必要もない』
男が振り返り、湯飲みを差し出した。
「水です。ゆっくり飲んでくださいね」
「あ、ありがとうございます」
両手で受け取ると、指先がわずかに触れた。
冷たい手だった。
皮膚がしっとりしていて、指の腹には、ふやけたような柔らかさがある。
海辺で仕事をしていたのだから、濡れていてもおかしくない。
そう考えたのに、男が手を引いたあとも、その感触が指に残った。
男は向かいの木箱へ腰を下ろした。
僕は湯飲みを口元へ運ぶふりをして、そっと顔を窺う。
大きな眼の、まぶたの縁が赤かった。少し張り出した眼球を、薄い皮膚がぎりぎり覆っているように見える。
鼻の横から口元にかけては艶があり、厚い唇の端に、小さな水滴が残っていた。
さっき、水を飲んでいただろうか。
思い返している間も、その人は瞬きをしなかった。
「……あの。この町に、住んでいらっしゃるんですか?」
「ええ。生まれも育ちも、ここです」
穏やかな返事だった。
「じゃあ、四国が……こうなる前から?」
「ええ。ずっとですよ。家もありますし、海の仕事もありますから」
引っ越す予定を尋ねただけのような口調だった。
外には屍兵が歩いている。
さっきまであった岸が消えて、知らない浜へつながってしまう。そんな場所に、家があるから住んでいると言われると、何と返せばいいのか分からなかった。
「ほかにも、人がいるんですか?」
「おりますよ。この通りにも、向こうの通りにも。今は戸を閉めておりますが、皆、暮らしております」
男が壁の向こうを指した。
耳を澄ませると、どこかで何かを叩く音がした。少し間を置いて、また二度、硬い音が響く。
空っぽの町ではない。
その事実にほっとしかけてから、僕は肩の鼠へ、ほんの少し顔を寄せた。
小さな前脚が、襟を押さえている。
鼠屋さんも聞いている。
そう思い、次の言葉を探した。
「ここは……危なくないんですか? さっき、あんなにたくさん、屍兵がいたのに」
「危ないですよ」
あっさりとした返事だった。
僕が顔を上げると、男はゆっくり頷いた。
「ですから、ああして戸を閉めるんです。外へ出るときも、一人では遠くへ行かないようにしております」
「逃げようとは、思わないんですか?」
「どこへ?」
男が首を傾けた。
責めるような声ではなかった。ただ、聞き慣れないことを言われ、意味を確かめようとしている顔だった。
「どこへって……もっと、安全なところへ」
「私は、この町のことしか知りませんのでね。知らないところへ行くよりは、皆とここにいた方が安心です」
そう言って、男は笑った。
おかしな理屈ではないのかもしれない。
僕だって、知っている人のいる救護所へ向かうと聞いて安心した。知らない場所を一人で歩くより、顔見知りと一緒にいたい。
でも、この人の言う「安心」と、僕が考えるものは、どこか違う気がした。
男の履物の周りが、黒く湿っている。
濡れた砂が落ちたのだろう。
そう思っていたのに、その染みは、木箱へ腰を下ろしたときより少し広くなっていた。
上着は濡れていない。床へ雫が落ちる音も聞いていなかった。
僕は湯飲みの水面へ目を落とした。
喉は、まだ渇いていた。
でも、口をつける気にはなれなかった。
(……皇帝。もう、出た方がよくない?)
『焦るな。外の様子を確かめず、再び追い立てられるつもりか』
戸の方を見る。
犬の式神は、入口へ耳を向けていた。
猿はリュックのそばを離れず、鳥も棚の上で翼を畳んでいる。
小さく息を吐くと、男がこちらへ身を傾けた。
「苦しいですか」
「い、いえ。大丈夫です」
「無理はなさらないで。ここで、休んでいってください」
優しい声だった。
僕の顔色を気にかけ、椅子から落ちないかと手まで差し出しかけてくれる。
助けてもらったのに、怖がっている。
そのことへの後ろめたさまで、胸に溜まっていった。
「この町には、恵比寿様がおられますから」
男が言った。
「どうぞ、ご安心ください」
その名前を口にするときだけ、声が少し柔らかくなる。
僕は膝の上へ湯飲みを下ろし、慎重に尋ねた。
「あの……その、恵比寿様って、どんな神様なんですか?」
男の表情が変わった。
それまでも愛想のいい人だった。質問には答えてくれたし、笑ってもいた。
でも、今度は違った。
大きな眼がさらに開き、膝の上に置かれていた両手が、木箱の縁を掴む。
「ご存じないんですか」
「名前くらいなら、知ってますけど……」
「そうですか。それは、よかった」
何がよかったのだろう。
尋ねるより先に、男が身を乗り出した。
「海からお越しになるんです」
声が弾んでいた。
「遠いところから、波に運ばれて、この浜へお上がりになる。私どもは、それをお迎えするんです。浜へ出て、御身体をお運びして、綺麗にして差し上げてね」
「……御身体?」
「ええ。皆で大切に、お祀りするんですよ」
男は頷いた。
一度ではなかった。
何かを思い出すように、ゆっくり、何度も。
「昔から、そうしてきたんです。海がくださったものを、粗末にしてはいけません。寒い思いも、寂しい思いも、もうなさらなくていいように。屋根のあるところへお連れして、毎日、お供えをして」
男の声には、説明しようとする以上の熱があった。
僕が分かっているかを確かめる間もなく、言葉が続いていく。
「お着物も、替えて差し上げるんですよ。そのままでは、お気の毒でしょう。皆で手をお貸しして。ええ、皆でね」
そこで、ふっと声が途切れた。
男が部屋の奥へ顔を向ける。
薄暗い入口に、のれんが掛かっていた。
その前には、履物が揃えて置かれている。誰かが奥にいるのだろうかと思ったけれど、物音はしなかった。
見つめる男の頬が緩んだ。
少し口を開き、細く息を吐く。
好きなものを思い出している人の顔だった。
僕には見えない何かを、心から愛おしんでいる。
「……本当に、ありがたいことです」
その声は、ほとんど吐息だった。
首筋に冷たいものが走った。
何を祀っているのか、まだ聞けていない。
どんな姿なのかも、何をしてくれる神様なのかも。
それでも、この人がどれだけ大切に思っているかだけは、嫌というほど伝わってきた。
男がこちらへ向き直った。
「外からいらした方にも、分かっていただきたかったんです」
「え……」
「皆さん、先を急がれますのでね。なかなか、お話を聞いてくださらないものですから」
笑顔は崩れなかった。
僕は、湯飲みを置く場所を探した。
近くに机はない。
床へ置くのも失礼な気がして、そのまま膝の上で握り直す。
男の視線が、僕の手元まで下りた。
水を飲んでいない。
そう気づかれたのではないかと思い、喉が詰まった。
けれど男は、それについて何も言わなかった。
ただ、また僕の顔を見た。
その眼を、僕の方から先に逸らした。
『陰山さん。十中八九この人、教団の信者っス。刺激しないように返事は無理に急がなくていいっス』
鼠屋さんの声が、耳元へ落ちた。
鼠が兜の縁へ身体を寄せ、外からは見えにくいところへ収まっている。
僕は頷くことさえできなかった。
「せっかく、こうしてお越しになったんです」
男が立ち上がった。
木箱が床を擦る音に、身体が強張る。
「うちの恵比寿様を、ぜひ拝んでいってください」
差し出された手は、さっきと同じだった。
僕を屍兵から逃がし、清潔な手拭いを渡してくれた手。
なのに今は、その手を取れば、戻れなくなるような気がした。
男は待っていた。
大きな眼を輝かせ、嬉しそうに、僕が立ち上がるのを待っている。
断ったらどうなるのか。
考えかけて、違うと気づいた。
この人は、僕が断ることを考えていない。
喜んでついてくると、疑っていないのだ。
その曇りのない笑顔を前にして、僕は初めて、はっきりと、狂気を感じた。




