第二十九話 後編 暗黒皇帝、狂気の信仰に遭遇す
男は、差し出した手を引っ込めなかった。
僕が立ち上がるのを待っている。
その向こうには、薄暗い部屋と、さらに奥へ続く襖があった。
「せっかくなんですけど、僕、人と待ち合わせていて……」
「ええ、ええ。長くはかかりませんよ」
男は頷いた。
断ったつもりだった。
でも、その言葉は、急いでいる理由として受け取られただけらしかった。
「すぐ、そこですから。お顔だけでも」
声は優しい。
戸を開けてくれたときと同じ、僕を気遣う声だった。
助けてもらった。そのうえ、手拭いも、水も出してもらっている。
だからといって、言われるままについていくのはおかしい。頭では分かっていた。それでも、差し出された手を前にすると、もう一度断るための言葉が出てこなかった。
(……皇帝。どうしよう)
『貴様が見ぬまま去れば、何を祀っておったかも分からずじまいだ』
(見ても大丈夫なものなの?)
『それを確かめるのであろう。気は抜くな』
大丈夫だとは、言ってくれなかった。
肩の鼠が、ヘルメットの縁から少しだけ顔を出す。
『陰山さん。僕も見てるっス。奥へ進むなら、荷物は猿に持たせたままでお願いするっス』
入口の方では、犬が立ち上がっていた。
こちらを向いた耳を見て、僕は膝の上の湯飲みへ視線を落とした。
「あの、これ……」
「ああ。お預かりします」
男はすぐに受け取った。
水が減っていないことにも、何も言わなかった。
棚へ湯飲みを置き、大切な客を迎えるように、奥へ身体を向ける。
「こちらです。足元、お気をつけください」
僕は、差し出された手には触れずに立ち上がった。
◇
襖の前で、男が一度、立ち止まった。
上着の裾を引き、襟元へ指を入れる。皺を伸ばしてから、襖の向こうへ小さく頭を下げた。
「恵比寿様。お参りの方を、お連れしましたよ」
返事はなかった。
男が襖を横に開く。
奥から流れてきた空気に、僕は息を止めた。
魚の臭い。
さっきまでは、そう思っていた。
けれど、布一枚を隔てた先に溜まっていたものは、もっと重かった。濡れたものを何日も閉じ込めて、腐るままにしておいたような臭い。鼻の奥へ貼りつき、飲み込もうとした唾まで、その臭いがする気がした。
「どうぞ」
男が、僕のために襖の横に立ち道を開けてくれている。
断るきっかけを失ったまま、襖の奥へ進むしかなかった。
奥は、小さな座敷だった。
窓は閉められている。擦りガラスを通った光が、畳の上をぼんやり照らしていた。
正面に、低い台がある。
その上に、人が座っていた。
白い着物を着て、脚を組んでいる。
お坊さんのような姿勢だった。両膝を左右へ開き、丸い腹を前へ突き出して、顔をこちらへ向けている。
僕は足を止めた。
座っているのではない。
そういう形に、据えられているのだ。
背中には古い背もたれがあった。着物と同じ白い布が脇の下を回り、背後の柱へ結びつけられている。その支えがなければ、前へ崩れてしまいそうな姿勢だった。
最初に目を引いたのは、腹だった。
着物の合わせを押し開くほど、丸く膨れている。帯の代わりに巻かれた紐が深く食い込み、その上も下も、内側から張りつめていた。
太った人の腹とは違う。
布越しにも分かる張り方をしているのに、その上の胸も、腹も、少しも上下しなかった。
顔を見た。
見なければよかったと思ったときには、もう、その形が頭に残っていた。
頬が膨れ、顎との境がなくなっていた。鼻は両側から埋まりかけ、押し上げられた唇の隙間に、歯が数本覗いている。
笑っているように見えた。
そう見えたことが、たまらなく嫌だった。
まぶたは閉じきっていない。細い隙間の奥に濁った眼があり、顔の向きのせいで、部屋へ入った僕を見据えているようだった。
額からこめかみにかけて、髪がまばらに貼りついている。耳の裏は黒ずみ、襟元には灰色とも緑ともつかない斑が広がっていた。暗い筋が、その皮膚の下を枝分かれして走っている。
両手は、開いた膝へ置かれていた。
指まで、膨れていた。
手の甲の表面が薄い袋のように浮き、手首のところで剥がれ、湿った皺になって重なっている。爪の間には黒い砂が詰まっていた。
白い袖口に、茶色い染みがあった。
その下の座布団にも。
縁から覗く台の木肌まで、同じ色に濡れている。
何も、動かなかった。
僕は無意識に、呼吸を探していた。あの腹が一度でも上下すれば、そういう病気の人なのだと考えられる気がした。
けれど、待っても、待っても、胸は動かなかった。
死体だ。
頭の中で言葉になった途端、胃がせり上がった。
口を押さえようとして、途中で手を止める。
男が、僕を見ていた。
「どうぞ。もう少し、お近くへ」
僕は首を振りかけ、どうにか堪えた。
「こ、ここで……見えます」
「そうですか」
男は気を悪くした様子もなく、台のそばへ膝をついた。
畳が、かすかに沈む。
その膝のすぐ先に、花が供えられていた。足の踏み場を避けるように瓶や皿が並び、台の両側を埋めている。
茶色く縮んだ花びら。水の濁った瓶。茎の途中から折れた一本が、台へ触れそうになっている。
男はそれを見つけ、そっと向きを直した。
さらに、横に並べられた皿へ手を伸ばす。
魚が載っていた。
丸ごとの魚が、何匹も。
裂けた腹から黒ずんだものがはみ出し、皿の底へ濁った汁が溜まっていた。乾いた眼の周りだけが白い。鱗の剥がれた胴にはぬめった光があり、開いた鰓の奥が、どろりと崩れている。
花瓶の水面を小さな虫が歩いていた。男が皿を動かすと、魚の下からも何匹か這い出した。
男は、それを払わなかった。
男は皿の縁を両手で持ち、ほんの少し、台へ近づけた。
こちらからでは分からない角度の違いを、確かめるように眺めている。
「……よし」
小さく呟いた。
その満足そうな声に、背中が冷えた。
花が枯れていることも、魚が腐っていることも、気にならないのだろうか。
いや。
気にしていない人の手つきではなかった。
男は、ひどく丁寧だった。
台の端へ落ちていた花びらを拾い、皿の脇へ置く。白い着物の袖を引き、膨れた手首が隠れるよう整えてやる。
触れた指を、拭こうともしなかった。
「浜へ、お上がりになったときはね」
男が言った。
僕は返事ができなかった。
「ずいぶん、お召し物が傷んでおられたんですよ。あちらこちら、引っかけてしまわれたんでしょうね。海の中には、いろんなものがありますから」
男が着物の肩へ掌を当てた。
首が、ほんのわずか傾いた。
僕は息を呑んだ。
男は慣れた手つきで頬へ布を添え、顔の向きを戻してやった。支えを直しただけだ。それが分かっても、心臓は速く打ったままだった。
「ですから、うちにあったものを。寸法が少し、合わなかったんですが」
腹へ渡された紐を見て、僕は喉の奥へ力を入れた。
寸法の問題じゃない。
この人は、もう。
(皇帝……これ、水死体、だよね)
『そうであろうな』
(お腹、あんなに……)
『腐敗しておる。生者の膨れ方ではない』
知識としては、聞いたことがあった。
死体が腐ると、ガスが溜まる。
でも、それが人の姿をここまで変えることを、僕は知らなかった。
ついさっきまで浜で戦っていた屍兵にも、腐った肉があった。
けれど、あちらは武器を持ち、こちらへ襲いかかってきた。逃げるか、倒すか。考えることは、少なくとも分かっていた。
ここにいる人は、何もしない。
ただ、人の形に座らされている。
その周りへ花と魚が置かれ、着物を着せられ、毎日、誰かが顔を見に来る。
それが、怖かった。
「どうです?」
男が振り返った。
頬を緩め、僕と、台の上の顔を交互に見る。
「うちの恵比寿様、いいお顔をしているでしょう?」
答えが出なかった。
半ば開いた口が、視界の端にある。
膨れた頬。濁った眼。襟元の、剥がれかけた皮膚。
そこへ、男の穏やかな声が重なっている。
「浜でお会いしたときから、そう思っていたんです。こちらへお連れして、本当によかった」
僕は唇を開いた。
何も、言えなかった。
男の笑顔が、返事を待っている。
沈黙が長くなる。
何か言わなければ。
けれど、いい顔だとは、とても思えなかった。
『陰山さん』
鼠屋さんの声が、耳元へ落ちた。
『無理に肯定しなくていいっス。でも、今は否定もしないでほしいっス』
僕は動かずに聞いた。
『この人にとっては、本当に大事なものなんス。どう受け取るか分からないんで、言葉は選んでほしいっス』
(選ぶって言われても……)
『俗物。問われたままに答えることはない』
皇帝が言った。
『顔について言えぬなら、無理に嘘をつく必要はない。話題を変えよ。』
男の手へ、目を落とした。
膨れた身体へ、白い袖を掛け直している。
着物には、畳んでしまわれていたときの折り目が残っていた。台のそばには、使い込まれた櫛と、綺麗に畳まれた布が置かれている。
この人が、用意したものだ。
魚の皿も、花の瓶も。
毎日、この顔を見ながら。
「……大切に、されているんですね」
やっと、それだけ言った。
男の顔が、ほころんだ。
「ええ」
迷いのない返事だった。
「もちろんですとも」
その声には、喜びがあった。
僕は、間違えずに答えられたのだと思った。
少なくとも、今すぐ怒らせるようなことは言わずに済んだ。
そう思って、少しだけ息を吐いた。
「分かっていただけて、嬉しいです」
男が言った。
僕は顔を上げた。
「いえ、僕は、その……」
「皆さん、最初は驚かれるんですよ」
男は、僕の言葉を遮ったつもりもなさそうだった。
台の方へ向き直り、着物の胸元を、指先で優しく撫でる。
「でも、ちゃんとお会いすれば、分かっていただけるんです」
違う。
そう言いかけて、唇を閉じた。
鼠屋さんに言われたことを思い出したからだった。
否定しない。
けれど、今の返事は、この人には何の肯定として届いたのだろう。
男は僕の言葉を嬉しそうに繰り返しながら、花瓶の下の布を直し始めた。
僕が何を見て、何を恐れているかには、気づいていなかった。
僕は、その背中を見ながら立ち尽くしていた。
帰りたい。
口にしてしまえば簡単なのに、今は、それをどう伝えるかさえ分からなかった。
肩で、紙の擦れる音がした。
『……陰山さん。少し、説明するっス』
兜の縁に隠れた鼠が、耳元へ顔を寄せていた。
『日本には昔から、海の向こうから流れ着いたものを、神様からの贈り物として大切にする土地があるんスよ』
僕は男から目を離さずに聞いた。
『海の向こうに、神様のいる世界がある。そこから届いたものなら、ただの漂流物じゃない。福をもたらしてくれるものだって、考えられてきたんス』
男の指が、布の皺を伸ばしている。
台の上の膨れた手へ、触れそうなほど近かった。
『それは、物や魚に限らないっス。クジラなんかを恵比寿様と呼ぶ土地もあるし……流れ着いた水死体を、恵比寿様として祀る信仰もあるっス』
膝の横で、指が強張った。
この家だけの話ではない。
それを知っても、目の前の光景が普通に見えてくるわけではなかった。
『水死体を引き上げて供養すれば、大漁に恵まれる。逆に、見捨てれば不漁になる。そういう言い伝えもあるんスよ』
鼠屋さんは一度、言葉を切った。
男がこちらを振り返らないことを確かめるような間だった。
『ただ、そういう信仰があることと、遺体をこの状態で家に据えておくことまで、同じにはできないっス。目の前で毎日のお世話を見せられると……やべーっス』
最後だけ、いつもの鼠屋さんだった。
その声に少しだけ救われて、僕は細く息を吐いた。
知らなかった。
水死体を祀るなんて、この町の人たちが死國に閉じ込められて、おかしくなってしまったからだと思っていた。
でも、もともと、そういう信仰もあるのなら。
男が着物を替え、花を供えているのも、この人なりの供養なのかもしれない。
知らないというだけで、怖がっているのだとしたら。
(……じゃあ、悪いものではないのかな)
『何をもって、そう思った?』
皇帝の声が返った。
(昔から、そういう信仰があるんでしょ。この人も、ちゃんと供養してるつもりなのかもしれないし……)
『この男が何を信じておるかと、実際に何を崇めておるかは、別の話だ』
僕は、台の上へ視線を戻した。
白い着物の腹は、大きく膨れたままだった。
『神を祀っておるつもりで、悪魔や邪神へ祈りを捧げる者など、珍しくもない。名を取り違えておることに、本人だけが気づかぬのよ』
(……これも、そうだってこと?)
『恐らくな』
短い答えだった。
皇帝は笑わなかった。
『この男が崇めておるものを、ただの海の福神と思うな』
着物の皺を直していた男が、満足そうに頷いた。
その顔に、悪意は見えなかった。
僕を騙してやろうという顔でも、何かを隠そうとしている顔でもない。
大切なものを見てもらえて、嬉しい。
そういう顔だった。
(この人は、知らないのかな)
『知っておっても、同じ顔をするやもしれぬ』
男が立ち上がった。
僕は慌てて、握り締めていた手を緩める。
「お待たせしました」
穏やかな声だった。
「いつもなら、この時間は二人きりですからね。今日は、恵比寿様もお喜びでしょう」
僕は台を見なかった。
今度こそ、その顔に何かを読み取ってしまいそうだった。
返事の代わりに、僕は別のことを尋ねた。皇帝に言われた通り、この町のことを知っておきたかった。少なくとも、何も分からないままでは、帰る道さえ選べない。
「あの……ほかの家でも、恵比寿様をお祀りしているんですか?」
男の顔に、また笑みが広がった。
「ええ。皆の家にも、恵比寿様がいらっしゃいますよ」
答えるのに、少しも迷わなかった。
「こちらの通りにも、向こうの通りにも。皆、大切にしております」
頭の中に、さっき走り抜けてきた町並みが浮かんだ。
閉ざされた窓。戸口に吊られた網。壁を叩いていた雨戸。
あの一軒一軒の奥に。
僕は、唾を飲み込んだ。
「どの家にも……?」
「ええ。もちろん、まだお迎えできていないお宅もありますが。そういう方は、ほかのお宅へお参りに伺うんです。うちにも、よく来てくださいますよ」
客が来ることを喜ぶ、普通の口調だった。
台の前には、僕が立っている場所とは別に、座布団が二枚重ねて置かれていた。
ここへ座る人がいる。
男と並んで、あの顔を見上げる人が。
「それに、町の真ん中には、大恵比寿様がいらっしゃいますから」
「……大恵比寿様?」
「ええ」
男が、大きく頷いた。
「神社においでなんです。私どもを、ずっとお守りくださっている。この町が今もこうして暮らしていけるのは、大恵比寿様のおかげですよ」
台の上にいるものより、大きいのだろうか。
考えかけて、やめた。
どんな姿をしているのか、今は想像したくなかった。
「信心を重ねた者は、神社で、直接お恵みをいただけるんです」
男は話しながら、上着の袖を引いた。
手首が見えた。
湿った皮膚に、深い襞が幾筋も重なっていた。袖口に押された跡ではない。襞の間だけ色が薄く、腕を捻ると、畳まれた内側がぬらりと光った。
男が指を開く。
指の付け根の皮膚が、僕の手より高い位置までつながっていた。さっき湯飲みを受け取ったときには、見えなかったところだった。
「私も、少しずつですが」
男は自分の手を眺め、嬉しそうに指を曲げた。
「ありがたいことです。本当に」
僕は、その手から目を逸らした。
(皇帝。今の、お恵みって……)
『俗物よ....』
低い声が返ってきた。
『そのまま、出口を確かめておけ』
振り向きたいのを堪えた。
入ってきた襖は、右の後ろ。
そこを抜ければ、漁具の置かれた部屋へ戻れる。その先に、木の棒で閉じられた戸がある。
犬は、どこにいる。
横目で探すと、襖隙間から白い前脚が見えた。
「もっと多くの方に、知っていただかなければいけません」
男の声へ、顔を戻した。
「海は、分け隔てをなさいませんから。どこからいらした方でも、恵比寿様はお受け入れくださいます」
男が、僕へ身体を向ける。
「あなたも、いかがですか」
「え……」
「難しいことは、ありません。一緒に、お唱えいただくだけでいいんです」
両手が、胸の前で合わされた。
湿った掌の重なる、小さな音がした。
「私のあとに、続いてください」
『唱えるな』
皇帝の声が、鋭く響いた。
肩の鼠も、襟を強く掴んだ。
『陰山さん。聞こえた言葉を、そのまま返しちゃ駄目っス』
僕は唇を閉じた。
男が、ゆっくり息を吸った。
その喉が、奇妙な形に膨らんだ。
顎の下に空気を溜めたような丸みが生まれ、首筋の襞が開く。薄い皮膚の下で何かが動き、そこから、声が出た。
「るるえ・るが・しゃっしゅ・ぼくるぐ・ふたぐん!」
聞いたことのない言葉だった。
意味は分からない。
喉の奥で水を震わせるような、濁った声だった。それなのに、音の区切りだけは妙にはっきりと耳へ残った。
僕は言葉を追いかけそうになり、奥歯を噛んだ。聞き取ろうとすれば、頭の中で同じ音を並べてしまいそうだった。
男は唱え終えると、僕へ笑いかけた。
「さあ、ご一緒に」
(……何、今の)
『呼びかけと、帰依の言葉だ。己の口で応じるな』
皇帝は、間を置かなかった。
『何へ身を委ねるかも知らず、承諾するでない。取り込まれるぞ』
口の中が、乾いていた。
男の唇が、僕を促すように動く。
最初の音を、もう一度、ゆっくりと。
僕は首を振った。
「……すみません」
男の口が止まった。
「僕は、遠慮しておきます」
掌は、合わされたままだった。
男は僕を見ていた。
その顔から、少しずつ笑みが薄れていく。
「ご存じない言葉ですからね。最初は、戸惑われるでしょう」
「いえ、その……」
「私も、そうでした。けれど、声に出してみれば、覚えられますよ」
男は、また笑おうとした。
「もう一度、私が――」
「唱えません」
自分で思っていたより、強い声が出た。
男の頬が、ぴくりと動いた。
僕は慌てて、頭を下げる。
「すみません。助けてもらったことは、本当に、感謝してます。でも、僕、もう行かないと」
返事がなかった。
頭を上げる。
男は、合掌を解いていた。
「……どうしてですか?」
小さな声だった。
「恵比寿様が、お嫌いですか?」
「そういうことじゃ、ないです」
「では、何が?」
問い詰める声ではなかった。
本当に分からなくて、尋ねているようだった。
「ここへお越しになれたんですよ。お顔も、見ていただけた。あなたにも、お導きがあったんです」
男の眼が、僕の顔を探っていた。
どう言えば伝わるのか、必死に考えている人の眼だった。
「怖がることなんて、何もありません。一人で外へ戻る方が、ずっと危ないんですから」
それは、知っている。
この人が戸を開けてくれたから、僕はここにいる。
でも。
「……待っている人たちがいるんです」
僕は半歩、後ろへ下がった。
「だから、行きます」
男の視線が、僕の足元へ落ちた。
そのまま、しばらく動かなかった。
やがて、細く息を吐いた。
「一緒に、お祀りできると思ったんですが」
残念そうな声だった。
僕は何も言えなかった。
男が、台の脇へ歩く。
道を空けてくれたのだと思い、襖へ身体を向きかけた。
『手元を見よ』
皇帝が言った。
男は、低い棚へ屈んでいた。
布の掛かった盆がある。
その布をめくり、下から銀色に光るものを取り上げる。
包丁だった。
幅のある刃が、窓の薄明かりを返した。
魚を捌くためのものだと、一目で分かった。
しかしそれがこれから魚を捌くとは思えなかった。
「……あの」
声が掠れた。
男が振り返り悲しそうな顔のまま、僕を見た。
大きな眼の下に、涙のような水が溜まっていた。男はそれを拭わず、包丁を持っていない方の手を、僕へ差し出した。
ついさっき、椅子から立つのを待っていたときと、同じように。
「でも、大丈夫です」
右手が、包丁を握り直した。
「お祀りするのが難しいなら、恵比寿様のもとへ、お送りしましょう」
背中が冷えた。
「あなたも、海へお帰りになればいいんです」
男が近づいてくる。
僕は、もう半歩下がった。
「待ってください」
聞いていなかった。
いや、聞こえてはいたのかもしれない。
男は、小さな子を宥めるように頷いた。
「怖くありませんよ」
「怖いですよ!」
叫んだ瞬間、男の足が速くなった。
「るるえ・るが・しゃっしゅ・ぼくるぐ・ふたぐん!」
包丁が、胸の高さへ突き出された。
大きな予備動作はなかった。僕へ手を貸すように腕が伸び、その先に、刃があった。
◇
《障壁》。
考えるより先に、右手が上がった。
刃先が透明な面へぶつかり、硬い音を立てる。
男の腕が止まった。
止まったのに、引かなかった。
包丁を押しつけたまま、身体ごと前へ寄せてくる。
「お迎えしていただきましょう」
障壁の向こうで、唇が動いた。
「皆で、お迎えしていただきましょう」
僕は息を詰めた。
近い。
大きな眼が、透明な面越しに、すぐそこにあった。
男は笑っていた。
厚い唇が左右へ広がり、その端から唾が糸になって垂れる。額には力が入っていない。息を荒らげてもいない。ただ、僕に刃が届かない理由を、不思議そうに確かめていた。
「るるえ・るが・しゃっしゅ・ぼくるぐ・ふたぐん!」
唱え終わる前に、包丁が引かれた。すぐに、もう一度突き出される。障壁にぶつかり、耳元で金属が鳴った。
(皇帝、この人――!)
『刃を止めた。次は退け』
左足を引く。
男が、それに合わせて踏み込んだ。
胸元が障壁へ押しつけられ、包丁の切っ先が横へ滑る。
僕は男を押し返そうとして、力を緩めた。
さっき、同じことをして屍兵を転がした。
この人を、あの台へ叩きつけてしまったら。
魔弾を撃てば、胸に穴が開く。あの身体は、屍兵のようには起き上がらないかもしれない。
僕の頬を拭くために、手拭いを差し出してくれた人だった。
『加減はせよ。だが、殺されるまで待つな!』
歯を食いしばった。
障壁を、短く押し出す。
男の上体が仰け反り、踵が畳を擦った。
その隙に、襖を開いた。
向こうでは猿が、もう荷物を背負っていた。
犬が入口へ走る。
棚から飛び立った鳥の翼が、頬のそばを掠めた。
『戸の棒を抜いてほしいっス!』
鼠屋さんの声に、入口へ向かう。
木の棒を掴んだ。
持ち上がらない。
焦って引いたせいで、受け金具へ斜めに噛み込んでいた。
「なんで……!」
『片側ずつだ』
右を少し下げ、左を持ち上げる。
外れた。
背後で、襖が大きく開く音がした。
「お待ちなさい」
男の声だった。
僕は棒を放り出し、戸へ手をかける。
「一人で行っては、いけませんよ」
肩越しに見えた男は、包丁を下ろしていなかった。
手に持った包丁と声の優しさが、どうしても結びつかなかった。
戸を開ける。
外の空気を吸い込んだ途端、喉が痛んだ。
犬が先に飛び出した。猿が続き、鳥が低く通りへ滑り出る。
僕も敷居を跨いだ。
「こちらです」
声がした。
すぐそばではなかった。
通りの向こうに、女の人が立っていた。
閉まっていたはずの戸が、その後ろで開いている。
前掛けをつけた、小柄な人だった。袖をまくった腕が濡れている。片手には、草刈りに使うような鎌があった。
「海からいらした方でしょう?」
にっこりと笑った。
その首元に、眼が吸い寄せられた。
襟の内側から顎の下まで、皮膚が細かな粒状に盛り上がっている。ざらついて見えるのに、表面は水を塗ったように光っていた。
唇の両端には、深い割れ目があった。
笑うと、そこまで口が開いた。
僕は足を止めた。
背後で、男が唱えた。
「るるえ・るが・しゃっしゅ・ぼくるぐ・ふたぐん!」
女の人の顔が、ぱっと明るくなった。
鎌を持っていない手を胸へ当て、同じ言葉を返す。
「るるえ・るが・しゃっしゅ・ぼくるぐ・ふたぐん!」
右で、戸の開く音がした。
左でも。
軒先へ、老人が出てきた。片手で柱を掴み、もう片方の手には、長い銛を持っている。
背中が大きく丸まっていた。首を前へ突き出しているためか、耳がほとんど見えない。その下で、喉だけがゆっくり上下した。
「お参りの方かね?」
「ええ。海からいらしたんですよ」
僕を助けた男が、戸口で答えた。
「まだ、お唱えになれないそうで」
「ああ、それは」
老人が、いたわるように眉を下げた。
「皆で、お手伝いして差し上げんとなあ」
向かいの家からは、魚を入れる籠を抱えた男が顔を出した。僕を見ると籠を置き、壁に立て掛けてあったツルハシを取る。
男の眼は、左右で大きさが違った。
片方だけが押し出されたように膨らみ、まぶたが縁まで下りていない。口元は、それでも普通に笑っていた。
「何だよ、これ……」
軒下から、別の声がした。
顔の分からない暗がりで、白い歯だけが動いている。
「るるえ・るが・しゃっしゅ・ぼくるぐ・ふたぐん!」
老人も唱えた。
女の人も、もう一度。
しわがれた声と、鼻にかかった高い声。その間を、喉に水が絡んだような低い声が埋めていく。
皆、同じ言葉を知っていた。
さっきまで戸を閉め、息を潜めていた町の人たちが、包丁や銛を手に、僕のために通りへ出てきている。
前掛けの女の人が、歩き始めた。
左右の膝を外へ開き、足の裏を道へ貼りつけるような歩き方だった。靴を履いていない。指の開いた幅広い足の跡が、乾いた舗装へ一つずつ残った。
「大丈夫ですよ」
笑顔のまま、鎌を持ち上げる。
「皆、最初は怖いんですから」
『陰山さん、左っス! 犬についていって!』
足を動かした。
左の路地へ向かって走る。
その入口へ、別の男が回り込んだ。
両手を広げ、僕を迎えようとする。
「そっちへ行ったら危ないですよ」
手には、金槌があった。
止まれない。
右足へ魔力を通し、《疾駆》で進む向きを変える。
銛が脇を通り過ぎた。
三又の銛の先が壁へ食い込み、古い板を裂く。男は舌打ちもせずにそれを引き抜き、また僕へ笑いかけた。
「急に動かれたら、危ないでしょう」
僕は銛の届かない側へ逃げた。肩の装甲が壁へぶつかり、削れるような音がする。
路地の向こうでも、声が上がる。
僕は《障壁》を斜めに張り、追ってきた鎌を受け流した。女の人の腕が外へ滑る。その肘の内側に、灰緑色の硬そうな皮膚が帯になっていた。
謝りそうになって、唇を噛んだ。
この人たちは僕を殺そうとしている。それなのに、親切そうな顔を見るたび、こちらが何かを間違えた気になった。
足元へ置かれた魚箱を跳び越え、猿の背負うリュックを追った。
「こちらへ!」
「そちらへ行かれましたよ!」
居場所を、知らせている。
浜の屍兵は、ただ、こちらへ向かってきた。
この人たちは違う。
僕の行く先を見て、道を塞いでくる。
(皇帝、どうすれば――!)
『まずは囲いを抜けろ。立ち止まるな』
通りの先で、犬が振り返った。
白い鳥が屋根の間を抜ける。
『次の角を右! その先、細い道があるっス!』
右へ曲がる直前、開いた戸の奥が見えた。
白い着物。横へ張り出した膝。黒ずんだ顔。
あの家にも、座っていた。
戸口の男は、その前を離れて僕を追ってくる。
僕は視線を引き剥がし、犬の背中へ向かって走った。
背後から、あの呪文が追いかけてきた。
声は揃っていなかった。
ある家では、まだ最初の音を唱えている。別の家では、老人が最後の言葉を繰り返していた。
その間に、僕を呼ぶ声が混じる。
「大丈夫ですよ」
「逃げなくても、いいんですよ」
僕は振り返らなかった。
助けを呼ぶために開いたはずの口から、荒い息しか出てこない。
この町には、人がいた。
こんなにも、たくさん。
しかし「助けて」といえる人は誰もいなかった。




