第二十八話 後編 暗黒皇帝、死國へ渡る
皇帝が何を知っているのか、結局、教えてはもらえなかった。
海賊船の旗に見覚えがある。それだけなら、まだ分かる。でも、あんな楽しそうな笑い方をされると、安心していいのか、別の心配をした方がいいのか判断できない。
(ねえ。せめて、敵なのか味方なのかくらいは――)
『陰山さん』
肩の鼠に呼ばれ、顔を上げた。
向かいに座る鼠屋さんが、机の上の資料を揃えている。広げたままの地図を手前へ引き寄せ、その一点を指先で押さえた。
『ひと通り説明したところで、お願いがあるっス。まず、蛇神みずちさんのいる救護所へ向かってもらえないっスか』
「みづちさんのところへ?」
『そっス。出発前に、こちらから連絡を入れておくっス。あそこで前線の様子を確かめてもらって、どう動くか相談してほしいんスよ』
知っている人がいる。それだけで、少し肩の力が抜けた。いきなり、見知らぬ戦場へ送り出されるわけではないらしい。
「救護所は、安全なんですか?」
『警戒は続けてるっスけど、今のところ、敵に攻め込まれてはいないっス。護衛には、丑の隊長、牛島鉄平さんがついてるっスよ』
さっき聞いた名前だ。でも、顔も、どんな人なのかも分からない。
「牛島さんって、どういう方なんですか?」
『元自衛官で、別班にいた人っス。十年前の死國異変にも、自衛官として参戦してるっスよ。先代の白虎――虎壱さんのお父さんとは、親友だったみたいっス』
「別班って、どんなところなんですか?」
『表には出せない情報を集めたり、普通の部隊じゃ動けない任務を受け持ったりするところっス。牛島さんが何をしてたかまでは、僕も知らないっスけど』
「そんな人が、防人に……」
『意外っスか?』
「自衛隊と防人って、もっと別々に動いてるものだと思ってました」
『普段は、そうっスよ。ただ、国を守るって目的は同じっスから。互いの事情を知ってる一部の人たちとは、情報も共有するし、必要なら一緒に動くっス。十年前は、自衛隊の協力なしじゃ救えなかった人も大勢いたっスよ』
怪異と戦う人たちと、自衛隊。頭の中では別々だった二つが、ようやくつながった。
牛島さんと虎壱さんのお父さんも、そんな戦場で知り合ったのだろうか。
『ほう。十年前を知る者が、再びこの地へ赴いたか』
皇帝が、静かに口を挟んだ。
『俗物、貴様と同じで死國にまだ確かめねばならぬことがあるのやもしれぬな』
(……十年前のことで?)
『戦友の消息を、人づての話だけで済ませられぬ者もおる。己の目で見届けねば、終えられぬ戦というものもあろうよ』
そう言ったきり、皇帝は黙った。
僕には、まだ会ったこともない牛島さんが、何を思ってここへ来たのかは分からない。けれど、皇帝の声には、ただ経歴を聞いただけではない重さがあった。
『装備も、守り向きっスよ。牛島さんが着装するのは、対異災防人機甲具足《伐折羅》。隊員が使う汎用型の《金剛》より、装甲も出力も大幅に強化された専用機っス』
鼠屋さんが、資料の一枚をこちらへ向けた。
描かれていたのは、黒い鎧だった。
いや、鎧というには、関節や背中の構造が複雑すぎる。太い腕。幾重にも重なった胸の装甲。その中央に収まる、丸い部品。そして、頭の両側から張り出した、大きな角。
「うわ……!」
気づけば、机へ身を乗り出していた。
「これ、着られるんですか? 人が中に入って、本当に動かせるやつなんですか!?」
『中身は、ちゃんと牛島さんっス』
「すごい……この肩と腕の厚みで、ちゃんと肘が曲がるんだ。背中のこれ、動きを補助する機構ですか? 胸の丸いところは――」
『陰山さん。近いっス』
資料の端に、僕の指がかかっていた。
「あっ、すみません」
慌てて手を引っ込める。鼠屋さんは資料を引き戻さず、見やすいように、もう少しこちらへ寄せてくれた。
『実物を見ると、もっと迫力あるっスよ』
(これを着たまま歩いたら、どんな感じなんだろう……)
『貴様、救護所へ赴く目的を忘れておらぬか』
(忘れてないよ。ちょっと気になっただけで)
ちょっと、は嘘だった。
かなり気になっていた。
鼠屋さんは資料を戻しかけて、ふと、僕の学生服へ目を向けた。
『それで、出発前にもう一つ。陰山さんにも、防人の装備を身につけてほしいっス』
「僕も、あれを?」
反射的に角のついた鎧を指すと、鼠屋さんが首を振った。
『《伐折羅》は牛島さん専用っス。身体に合わせた調整もしてるんで、そのまま貸せるものじゃないっスよ。陰山さんには、別に身体に合う防護装備を用意するっス』
「……そうですよね」
『ちょっと残念そうっスね』
「いえ。そんな」
『その学生服のまま行ってもらうわけには、いかないっスから』
制服の袖を見下ろした。学校では当たり前に着ているものだ。それなのに、屍兵の爪や牙を防ぐものとして考えると、急に頼りなく見えた。
『着替えた学生服は、こちらの使いがご自宅へ届けるっス。そのときに、お母さんにも事情を説明させてもらうっスよ』
「……母さんに?」
制服の袖を摘まんだまま顔を上げた。
教室を出たときには、こんなことになるなんて思っていなかった。いつもどおり学校へ送り出した母さんは、僕が今、どこにいるのかも知らない。
「制服だけ持って帰ったら、びっくりしませんか。僕に何かあったんじゃないかって……」
『先に連絡を入れてから伺うっス。陰山さんが無事なことも、今どういう状況なのかも、順を追って説明するっスよ』
鼠屋さんはそこで言葉を切り、袖に隠れていた指先を机の上で揃えた。
『心配をかけずに済むとは言えないっス。でも、陰山さん一人に説明を押しつけるつもりはないっス。協力をお願いした僕たちから、きちんとお話しするっス』
「……僕からも、話しておきたいです。出発する前に」
『もちろんっス。装備の準備ができたら、連絡する時間を取るっスよ』
頷きながら、袖から手を離した。
何から話せばいいのか、まだ分からない。それでも、知らない人から制服を渡される前に、自分の声で無事だと伝えておきたかった。
『皇帝陛下がついてるとはいえ、陰山さんは一介の高校生っス。救援をお願いした挙げ句、何かあったら、防人全員、切腹ものっスよ』
「いや、そこまでは……!」
思わず顔を上げた。鼠屋さん本人は、真面目な顔で頷いている。
『殊勝な心掛けよ』
(皇帝も頷かないで! 僕が落ち着かないから!)
『貴様の身を案じておるのだ。ありがたく受け取れ』
(装備は受け取るけど、切腹までは受け取れないよ!)
肩で紙の擦れる音がした。
『じゃあ、誰も腹を切らなくて済むように、ちゃんと着てほしいっス』
「……分かりました。お願いします」
鼠屋さんが小さく頭を下げ、次の地図を差し出した。後方拠点のある島と、その向こうに横たわる大きな陸地。二つの間には海が描かれている。
『装備を用意してもらってる間に、入り方も説明するっスね』
「船で渡るんですか?」
『途中までは、そうっス。ただ、海をまっすぐ進めば着く場所じゃないっス』
鼠屋さんの指が、陸地を囲む線に沿って動いた。
『死國は、結界によって現世から隔絶された異界なんスよ。海の向こうに見えていても、こっちと同じ世界につながってるわけじゃないっス』
「見えているのに……別の世界?」
『そっス。近くに見えることと、そこへ行けることは別なんス』
窓の外に見える建物へ歩いていくようには、たどり着けない。そう考えようとしても、頭の中でうまく景色がつながらなかった。
『それに、内側にいるものを外へ出さないための仕掛けもあるっス』
鼠屋さんが、人差し指を一本立てた。
『まず、強大な力を持つ存在ほど、内側から結界へ近づけなくなるっス。禍等級に準じて、外へ出るのが難しくなるんスよ』
白虎堂で聞いた、禍等級の説明を思い出した。
微禍、怪禍、凶禍、大禍、災禍。人類にどれだけの被害をもたらすか、その危険を分けた等級だ。
あのときは、上の等級ほど危ないのだと覚えるだけで精いっぱいだった。その分類が、ここでは閉じ込めるための目安にもなっているらしい。
「近づけないって、道に迷うんですか?」
『道が合ってても、っス。まっすぐ進んでも、走っても、飛んでも、結界までの距離が縮まらないんス』
見えているのに、近づかない。どれだけ進んでも、同じ遠さの場所にある。
想像しかけて、背中がむずむずした。自分の足も、目も、何も信じられなくなりそうだった。
『これが働くのは、内側から外へ向かうときっス。外から来る者を、強いって理由で遠ざける仕組みじゃないっスよ』
『囲いへ落とした猛獣を、柵にすら触れさせぬか』
皇帝が呟いた。
『力を振るう場所まで奪う。よく考えられておる』
褒めるところなのだろうか。僕には、恐ろしい仕組みにしか思えなかった。
鼠屋さんが、二本目の指を立てる。
『もう一つは、死國に属する存在を外へ出さないことっス。こっちは、力が弱くても関係ないっス』
「死國に属する、って……住んでいるもの、ですか?」
『住んでるだけなら、違うっス。死國で生まれた怪異や、死國の力で蘇った死者。そういう、自分の存在の根っこが死國につながってるものを指すっス』
「じゃあ、僕たちが入ったからって、すぐにそうなるわけじゃ……」
『ないっス。そこは安心してほしいっス』
ようやく息を吐けた。けれど鼠屋さんは、すぐに言葉を続けた。
『ただ、外から来た人も、船を漕いで帰れるわけじゃないっスよ。行きも帰りも、世界の境を越える必要がある。そのための術が――《異界渡り》っス』
その言葉に、皇帝へ意識が向いた。
異なる世界から来た皇帝が、僕の中にいる。これまでは、僕自身に起きた、説明のつかない出来事だった。
でも今は、その言葉が、自分の帰り道に関わっている。
「それができないと、帰れないんですか?」
『だから、渡す役が必要なんス。防人の中でも、できるのは数人しかいないっス。僕も、その一人っスね』
思わず、向かいの鼠屋さんを見た。
長い前髪で目元を隠し、上着の袖へ指先を引っ込めている人。紙の鼠を通さなければ、面と向かって話すのも苦手だという人が、前線にいる大勢の帰り道を担っている。
『通信のこともあるっスけど、僕が戦線へ出られないのは、それも理由っス。僕に何かあったら、帰す手段を一つ失う。負傷者を下げるにも、物資を入れるにも困るっスから』
「……殴り合いが苦手だから、だけじゃなかったんですね」
『そっちはそっちで、本当っスよ』
即答だった。それから、肩の鼠が僕の方へ向き直る。
『で、改めて言わせてもらうと――陛下の話、相当おかしいっス』
「皇帝が、こっちに来たことですか?」
『そっス。異なる世界から、受け入れも誘導もなしで渡ってきたんスよね』
『結果としては、そうなる』
『その「結果として」で済むようなことじゃないっスよ』
鼠屋さん本人まで、少し身を乗り出していた。
『こっちは渡る場所を確かめて、向こうと道をつないで、それでようやく人を送り出せるんス。陛下が死國から出たときも、誰かが道をつないだわけじゃないんスか?』
『そのような手を借りた覚えはないな』
「しかも、流星みたいになって、途中で三回も曲がってきたんですよ……」
『……三回?』
紙の鼠が動きを止めた。向かいの鼠屋さんも止まった。
少しして、鼠だけがゆっくり首を傾ける。
『陰山さんのところへ来る途中に、進路まで変えたんスか?』
『さてな。余には、曲がった覚えなどないが』
(ぶつかられた僕の方は、しっかり覚えてるんだけど……)
『こうして無事に話しておるであろう』
(あのときの僕、無事って言っていい状態だった!?)
鼠屋さんは、僕たちのやり取りに笑わなかった。
手元の地図へ一度視線を落とし、それから、皇帝へ問い直すように顔を上げた。
『……そもそも、どうやって世界の境を越えたんスか』
皇帝は、すぐには答えなかった。
いつものように大げさに威張ることも、僕をからかうこともない。その沈黙に、鼠屋さんが袖口を握り直した。
『いえ。無理に今、聞き出すつもりはないっス。ただ、当たり前にできることじゃないって、陰山さんにも知っておいてほしいっス』
「……はい」
僕にとっては、すべての始まりだった。
空から何かが落ちてきて、僕に当たった。そのあと、頭の中に皇帝がいた。
あまりにもおかしな出来事が続いて、最初のそれがどれだけおかしいのか、考えなくなっていたのかもしれない。
鼠屋さんは、地図をそっと揃えた。
『今回は、僕が渡すっス。陰山さんを送り出す以上、帰りも含めて、ちゃんと道を確かめるっスから』
肩の鼠が、僕を見上げる。
『まずは、装備を合わせに行ってもらっていいっスか』
「お願いします」
僕は頷いて、椅子から立ち上がった。
◇
腕を下ろすたび、肩に重さがかかる。
装甲をつけた両腕を、もう一度持ち上げてみた。拳を握って開いても、指の動きは邪魔されない。それでも、肘を曲げたままにしていると、普段より腕に重みをずっしりと感じる。
頭にヘルメット、胸と背中を覆う防護装備。前腕と膝、脛にも黒い装甲がついている。その下で、身体に沿った黒い生地がぴたっと張り付く。
脱いだ学生服は、隊員さんが丁寧に畳んでくれた。約束どおり、あとで家へ届けてくれるそうだ。
あの制服が、僕より先に帰るのか。
母さんに電話をするとき、いつもどおりの声が出せるだろうか。そんなことを考えながら鏡を見ると、いかにも戦う人らしい装備が映っていた。
ヘルメットの下から覗く、見慣れた丸い顔を除けば。
(……装備は、すごく格好いいんだけど)
『何が不服だ』
(もうちょっと、こう、似合うものかと思って)
『着たばかりの鎧で、顔つきまで変わるものか』
眼鏡の位置を直してから、もう一度、腕を曲げる。
すぐ横で留め具を確認していた隊員さんが、腰のベルトを締め直してくれた。
「痛むところはありませんか」
「はい。大丈夫です。ちょっと、重いですけど……」
『それでも、かなり軽くしてあるっスよ』
装備の確認中、近くの机で待っていた紙の鼠が言った。
『対異災防人機甲具足、汎用型《金剛》の簡易装備っス。全身を覆うんじゃなくて、必要なところに必要な分だけ装甲をつけるタイプっスね』
「普通の《金剛》とは、違うんですか?」
『フル装備は、動作補助込みで使うものっス。電力が切れれば、その重さを自力で動かさなきゃならなくなるんで。充電できる場所も限られる死國で、慣れてない陰山さんに使ってもらうのは、かえって危ないっス』
確かに、重い鎧を着た状態で、いきなり補助が止まったら困る。立っているだけなら何とかなっても、転んだところへ敵が来たら。
想像して、首をすくめた。
『こっちは、補助に頼らなくても歩ける重さに抑えてあるっス。ただ、どの程度動けるかは、今のうちに確かめてほしいっスね』
言われるまま、数歩歩いてみる。膝を曲げ、片足を持ち上げ、軽く身体を捻った。
装甲同士がぶつかることはなかったが、いつもより腰に重さを感じる。でも、動ける。少なくとも、学生服で爪や牙を受け止めるよりは、ずっとましなはずだ。
「大丈夫そうです」
隊員さんが頷き、足元に置いてあったリュックを持ち上げた。
「それでは、こちらも」
両手で受け取った瞬間、思わず肘が下がった。
「……おお」
『一週間分を目安にしたレーションと水、それからサバイバルキットが入ってるっス。中身も、一緒に確認するっスよ』
「一週間……」
教室で、保健室へ行くと言って出てきた。その僕が、今は一週間分の食料を受け取っている。
リュックの重さ以上に、その事実がずしりと来た。
口を開けてもらい、小分けにされた食料や飲料水、救急用品を確かめる。ほかにもライトや保温用のシートなどが、取り出しやすいようまとめられていた。
『全部を背負って歩いてもらうわけじゃないっス。荷物は、こいつにも持たせるんで』
隊員さんが脇へよけると、その後ろから白いものが歩いてきた。
猿だった。紙でできた、猿。
ただし、机の上に乗るような大きさではない。立ち上がると、九十センチほどはあるだろうか。長い腕をぶらりと垂らし、こちらへ顔を向けている。
「鼠以外も、いるんですね……」
『役目によって、使い分けてるっス』
その隣には、同じくらいの大きさの犬がいた。鼻先を持ち上げ、ぴんと立った耳を別々の方向へ動かしている。さらに、棚の上で鳥の式神が翼を広げた。
白い翼の幅に、思わず半歩下がる。
『鳥は、上から周囲を調べる役っス。犬は鼻と耳が利くんで、地上の様子を確かめながら、安全に通れる道を探すっス。猿は荷物の運搬と、足場の悪いところでの補助っスね』
猿が近づいてきた。差し出された両手へリュックを渡すと、当然のように受け取り、背中へ回す。
紙の身体なのに、僕より安定していた。
「犬と、猿と、鳥……」
『お供には、ぴったりっスね』
「僕、きび団子は持ってないんですけど」
『食料なら、さっき渡したっスよ』
「僕の分まで、配るんですか?」
『こいつら、食べないんで大丈夫っス』
それは、ありがたい。
『鬼の棲む地へ赴くには、いささか頼りない供よな』
(桃太郎は、その三匹で勝ってるからね)
『では、貴様次第か』
(急に僕一人の責任にしないで!)
鼠が机から飛び移り、僕の腕を伝って肩へ登ってきた。襟を掴む前脚は、最初と変わらず小さい。
『僕もついてるっス。見た目より、頼りになる連中っスよ』
耳元で聞こえるのは、さっきまでと同じ鼠屋さんの声だった。本人はここに残る。それでも、この鼠がいてくれることに、少しほっとした。
装備の確認を終えると、出発前に母さんへ電話をかける時間をもらった。詳しい説明は防人の人からもしてくれることと、僕自身は怪我をしていないこと。それだけは、自分の口で伝えた。
心配をかけないようにと思うほど、言葉を選ぶのに時間がかかった。
「ほんとうに大丈夫なの?」
電話を切っても、母さんの声はしばらく耳に残っていた。
◇
桟橋で待っていた小型艇には、折り畳まれた白い紙と、長い櫂が積まれていた。
エンジンのついた船なのに、櫂まである。
気になったが、まずは足元を見て乗り込んだ。装備の分だけ身体が重い。縁を掴んで腰を下ろすまで、少しも気が抜けなかった。
犬と猿が続き、鳥は船首へとまった。
操縦する隊員さんが確認の声を上げる。ほどなく船が桟橋を離れ、天幕の並ぶ島が、少しずつ遠ざかり始めた。
海は、普通だった。
風が吹き、小さな波が立ち、船底へ水が当たる。潮の匂いも、頬へ飛んでくるしぶきも、知っている海のものだった。
その先に、死國が見える。
薄い靄をまとった、大きな陸地。最初は、曇っているせいで暗く見えるのだと思った。
でも、眺めているうちに、妙なところが目についた。
岸へ向かう白い波が、途中で折れている。
岩にぶつかったわけでもないのに、直角に向きを変え、そのまま横へ滑っていく。
海岸に並んだ木々は傾いていたが、梢は動かなかった。手前の海では、これだけ風が吹いているのに。
そして、山の斜面に見える黒い筋。
川だろうかと思って見ていると、その表面を走る光が、上へ、上へと登っていた。
「……あれ、水が流れてるんですか?」
『目に入るものを、こっちの常識だけで判断しない方がいいっスよ』
肩の鼠が答えた。
知っているものに見える。だから、よく見るまで、おかしいことに気づけない。
僕は海岸から目を離し、船の中を見た。猿の背負うリュックに、犬の折り目。それを確かめると、少し落ち着いた。
こちらも、十分おかしな光景ではあるけれど。
「鼠屋隊長。そろそろ、指定の位置です」
操縦席から声がした。
鳥の式神が飛び立つ。海面すれすれを回り、少し離れたところで上昇した。白い翼が、何度か角度を変える。
『……もう少し、右っス』
小型艇がゆっくり向きを変える。
『そこで止めてほしいっス』
エンジンの音が弱まり、やがて止まった。残った波が船腹を揺らす。
何もない海の上だった。目印の島も、浮きもない。それなのに鼠屋さんは、そこを確かめるように、しばらく黙っていた。
『……つながるっス。準備、お願いするっス』
隊員さんが白い紙を広げた。
表面には、細い墨の線が走っている。何枚も重なっていたように見えたそれが、一枚の大きな折り紙として開いていった。
持ち上げた端が、風を受けて膨らむ。
隊員さんが櫂でそっと押し出すと、紙は海へ落ち、折り目に沿って形を変えた。
先の尖った船首。浅い船底に、両側へ立ち上がる縁。
一艘の船が、小型艇の隣へ浮かんでいた。
「……これに、乗るんですか?」
『そっス』
「紙ですよね?」
『紙っスね』
そこは否定してくれなかった。
『異界渡りのために用意した船っス。踏んだくらいじゃ破れないんで、足元を確かめて移ってほしいっス』
犬が先に飛び乗った。猿も、リュックを背負ったまま続く。
船は沈まなかった。
僕は隊員さんに腕を支えてもらい、片足を移した。靴底へ伝わってきたのは、拍子抜けするほど硬い感触だった。
もう片方の足も下ろし、慎重に腰を落とす。
縁は、やはり紙だった。指で触れると繊維が分かる。それが今、装備をつけた僕と、一週間分の荷物を載せて浮かんでいる。
(……体重制限、聞いた方がよかったかな)
『今さらか?』
(鼠屋さんを信じるしかないよね)
鳥が船首へ戻ってきた。小型艇から櫂が渡され、僕はそれを両手で受け取る。
『陰山さん』
鼠屋さんの声が、少し改まった。
『送り出す前に、一つだけ。中で何かあったら、陰山さん自身の命を最優先してほしいっス』
海風が、首元を抜けた。
『危ないと思ったら、離れていいっス。誰かを助けるためでも、戻れなくなるところまで踏み込まないでほしいっス』
「……でも、助けに行くんですよね」
『そっス。だから、助ける側まで倒れないでほしいんス』
肩の鼠が、襟を握り直す。
『一度引いて、ほかの手を考えることだってできるっス。陰山さんが生きてれば』
言い返そうとして、できなかった。
正しいのだと思う。ただ、目の前で誰かが倒れそうになったとき、自分だけ離れられるのかは、まだ分からない。
『心得ておけ、俗物』
皇帝の声がした。
『己を勘定から外すな。守る者を数えるのであれば、貴様自身も、その中へ入れておけ』
(……皇帝も、そう言うんだ)
『貴様が倒れれば、余まで同じ場所へ転がるのだぞ』
(急に自分の都合が入ってきたんだけど!)
『ゆえに、余のためにも生き延びよ』
あんまりな言い方だった。でも、そのいつもの調子に、櫂を握る手から少し力が抜けた。
「……気をつけます。無理だと思ったら、ちゃんと言いますから」
『お願いするっス』
小型艇の隊員さんが、こちらを見て頷いた。僕も頷き返す。
その間に、紙の船底へ描かれた墨の線が、濡れたような艶を帯び始めた。
肩の鼠が背筋を伸ばした。
『天清く、地寧し。表裏相映じ、此岸彼岸、影をもって相結べ』
それまでの軽い口調が消えていた。
船の下へ、黒い影が広がる。
雲が太陽を隠したのかと思い、空を見上げた。何も変わっていない。影だけが、船の形を離れて広がっていた。
『我が記す道を開け。我が託す者を渡せ――急急如律令』
波の音が、止まった。
紙の船が、沈み始める。
「ちょっ……!」
腰を浮かせかけ、慌てて座り直した。
水が、船縁を越えている。でも、船の中へ流れ込んではこなかった。
黒い海面が足首の高さへ上がり、膝を通り、腰へ届く。触れたはずなのに、冷たくも、濡れた感じもしない。
『そのままっス。船から身体を出さないでほしいっスよ』
僕は櫂を抱え、両肘を身体へ寄せた。
小型艇が高くなる。いや、僕たちが下がっているのだ。
見下ろす隊員さんの姿が、海面の揺らぎで歪む。その人の向こうにあった空が細くなり、閉じた。
思わず、息を止める。
『呼吸はできるっス』
言われて、恐る恐る息を吸った。
吸えた。海の下なのに。
見上げると、頭上には黒い水面があった。船首から飛び立った鳥が、その下を滑るように進んでいく。
そして、船の横には――空があった。
見間違いではなかった。紙の縁のすぐ向こうを、雲が流れている。足元へ視線を落とすと、白い船底の向こうにまで、深い空の色が透けていた。
胃が、ひゅっと縮んだ。
(皇帝。これ、沈んでるんだよね?)
『向こうから見れば、浮かび上がっておるところであろうな』
(どっちから見ても、普通じゃないよ!)
櫂を握り直した。船底にちゃんと座っている。脚も、腕も、ここにある。
それを一つずつ確かめていると、犬が耳を立てた。猿がリュックを背負い直し、鳥が船首へ舞い戻る。
『……もうすぐっス』
頭上で、光が揺れた。
黒い水面の向こうから、灰色の明るさが広がってくる。紙の船が、そこへ持ち上がった。
頬に風が触れる。次の瞬間、ぱしゃり、と波が船腹を叩いた。
海へ戻った。
そう思って顔を上げた僕は、言葉を失った。
空の色が違う。さっきまで遠くに横たわっていた岸が、すぐ前にある。黒ずんだ岩の上に、枯れた木々が並んでいた。
その木々から伸びた影が、海面へ届いている。
波が岸へ寄せても、影だけは沖へ向かって揺れていた。岩の上の木々は、少しも動いていないのに。
『異界渡り、完了っス』
肩の鼠が言った。
僕は返事の代わりに、唾を飲み込んだ。
船の縁を握る手は、乾いたままだった。




