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第二十八話 前編 暗黒皇帝、死國の群雄を知る

『鼠よ』


 皇帝の声に、肩の鼠が顔を上げた。


『まずは現状を説明せよ。敵の勢力、判明しておる戦力、そしてこちらが動かせる兵。順に聞かせてもらおう』


『鼠じゃなくて鼠屋っス。了解っス。ここだと衛生班の処置の邪魔になるんで、少し移動してもらっていいっスか』


 鼠屋さん自身は小さく頭を下げるだけで、やはり口を開かなかった。


 その背を追い、担架を運ぶ人たちとすれ違いながら天幕の端へ向かう。布で仕切られた一角には、折り畳みの机と、椅子が数脚置かれていた。


 鼠屋さんは机に広げられた地図を整え、僕へ椅子を勧める。自分は向かいに腰を下ろすと、袖から新しい紙の鼠を取り出した。


 机へ降ろされた鼠が、ちょこんとお辞儀をする。


『それじゃ、ここからはこっちで説明するっス』


 肩にいた鼠も、僕の腕を伝って机へ降りた。


 二匹並ぶと、どちらを見ればいいのか分からない。


『まず、ここは死國の手前の島に設けた後方拠点っス。正確には死國の中ではないっス。

前線から下げた負傷者の治療と、さっきみたいな症状が出た隊員の隔離を担当してるっス』


 さっきの隊員の、赤い目が浮かんだ。


 気づかないうちに、膝の上で手を握っていた。


『次に、死國方面へ出てる防人の戦力っスね。四方神将からは二名――《白虎》菅原虎壱と、《青龍》龍造寺大河』


「四方神将が、二人も……」


 虎壱さん一人でも、僕からすればとんでもない人なのだ。その人と同格の存在が、もう一人いる。


 それでも、あの救援要請が来た。


『十二支将隊からは、子、丑、寅、巳、申、戌、亥の七隊。その隊長と副隊長が来てるっス。四方神将直属の二隊と合わせて九部隊、隊員は各隊約百名ずつっスね』


 鼠屋さんの指が、地図に置かれた印を一つずつ辿っていく。


 阿仁丸さんに、エマさん。みづちさんと、猿飛さんもいる。


 知っている顔を思い浮かべるほど、かえって状況の悪さが分からなくなった。


「それだけ集まってても、厳しいんですか?」


『……厳しいっスね』


 紙の鼠は、すぐには言葉を続けなかった。


 向かいの鼠屋さんが、膝へ視線を落とす。


『先に、誤解のないように言っておくっス。みんな、普段ならちゃんと頼れる隊員っス。副隊長だって、そこらの怪異相手に後れを取る人たちじゃないっスよ』


 机の上で、鼠の尻尾がゆっくり動いた。


『ただ、今の相手に対しては……副隊長以下を、そのまま戦力として数えるのは難しいっス』


『なぜだ』


 皇帝が、短く問う。


『それは、これから説明する相手だからっス』


 鼠屋さんが、地図の向こう側へ指を置いた。


『今、防人が相対してるのは、死國でも一、二を争う勢力の主―屍《しかばね》たちの皇帝―屍皇帝《しこうてい》、嬴政《えんせい》っス』


 屍皇帝。



挿絵(By みてみん)


 その物騒な呼び名より、続いて告げられた名前が引っかかった。


「え……それって、秦の始皇帝?」


 思わず、机へ身を乗り出す。


「あの、春秋戦国時代を終わらせて、中国を初めて統一した……?」


『ほう。貴様、他国の皇帝の事績は、すらすらと出てくるのだな』


(歴史の授業で習うくらい、ふつーに有名な人だからね)


『余の名を聞いたときとは、随分な違いではないか』


(皇帝の名前は、こっちの教科書に載ってないんだって!)


『載せるべきであろう。今からでも遅くはない』


(教科書の改訂まで要求しないでよ!)


 向かいで、鼠屋さんが口元を袖で隠した。けれど、机の鼠から返ってきた声は慎重だった。


『ただ、その始皇帝と、同じ存在かどうかは断定できないっス。陰山さん、こっちの世界の始皇帝が、不老不死を求めてたって話は知ってるっスか?』


「あ、それなら……徐福の話とかですよね」


 ゲームや漫画で拾った知識を、頭の中で探す。


「海の向こうに仙人の住む山があって、不老不死の薬を探しに行かせたとか。徐福が日本に渡ってきたっていう伝説も、聞いたことがあります。あとは、水銀を薬として飲んでたって話も……」


『死を免れんとして毒を飲むか。難儀な話よ』


(当時は、そういうものだって分からなかったんだと思うよ)


『望む効能より先に、身へ何を及ぼすかを確かめるべきであろう』


(その確認ができる時代なら、苦労してないって)


『その辺の話を踏まえると、分かりやすいっス』


 鼠屋さんの指先が、地図から離れた。


『死國にいる屍皇帝は、異世界で、本当に不死を手に入れた皇帝――そう考えられてるっス』


「……手に入れた?」


『もっとも、不老不死の仙人になったって話じゃないっスよ。不死身というか……吸血鬼になった、っていうのが有力な説っス』


 机の下で、足先が冷えた。


 吸血鬼。


 言葉だけなら、よく知っている。映画にも、漫画にも、ゲームにも出てくる。


 でも、ついさっきまで、すぐそばで隊員が仲間へ噛みつこうとしていた。


「じゃあ、あの人も……」


『屍皇帝本人に噛まれたわけじゃないっス。敵の屍兵と交戦して、負傷した隊員っスね。発症までの時間も症状もばらつきがあるんで、原因や条件は調べてる最中っス』


 分かっていることだけを選ぶように、鼠屋さんは言葉を区切った。


『傷を負った全員が、ああなるわけじゃないっス。ただ、見た目で大丈夫って判断して前線へ戻すわけにもいかないんスよ』


 あの数のベッドが必要な理由を、少しだけ理解した。


『屍皇帝の配下には、数万規模の屍兵がいるっス。ありきたりな言い方をすれば、ゾンビの軍勢っスね』


「数、万……?」


『今、確認できてる範囲で、っス』


 防人の戦力は、約九百人。


 さっきまでは、すごい数だと思っていた。


 けれど、その何十倍もの敵がいる。しかも、戦って傷を負えば、あちら側へ変わってしまうかもしれない。


『屍兵一体一体は、隊員でも対処できるっス。問題は、数が多い上に、普通の人間なら倒れる傷でも動き続けることっスね。倒しきるのに時間をかければ、次が来る。囲まれれば、無傷で抜けるのは難しいっス』


『兵を削るより、兵を疲れさせるに適した軍か』


『その認識で合ってるっス』


 紙の鼠が頷く。


『で、本当にまずいのは、その屍兵を率いてる武将たちっス』


 鼠屋さんが、机の端へ寄せてあった資料に手を置いた。


『伝説や史書に名前が残ってる、様々な時代の中華の武将。そういう連中が、吸血鬼になって屍皇帝に従ってるっス。

屍皇帝直属の吸血武将――《屍牙将》たちっス。』


挿絵(By みてみん)


「……ちょっと待ってください」


 嫌な想像が、頭に浮かんだ。


「始皇帝の時代の武将だけ、じゃないんですか?」


『違うっス。時代は、ばらばらっスね』


(なにそれ。歴代武将の最強軍団みたいなやつ……?)


『名のある将を時代の隔てなく集められるのであれば、悪くない手ではある』


(集められるのであれば、で済ませないでよ!)


 強い武将が、吸血鬼になっている。


 生前の時点で伝説になっているような人が、さらに人間をやめて、数万のゾンビを引き連れてくるのだ。


 ゲームだったら、終盤の敵勢力にしか思えない。


『副隊長以下を当てられぬというのは、その将どもか』


『そうっス。屍兵の処理をしてるところへ割り込まれると、持ちこたえられない。隊長が引き受ければ対抗できるっスけど、その間に別の場所へ屍兵を押し込まれるっス』


 どこかを守れば、別の場所が危なくなる。


 その結果が、仕切りの向こうに並んでいたベッドなのだろう。


 僕は机の地図へ目を落とした。


(……皇帝。これ、どうなの)


『何がだ』


(その、屍皇帝って。勝てそうな相手なの?)


 問いかけてから、ずいぶん情けない聞き方をしたと思った。


 けれど皇帝は、笑わなかった。


『不死を得たという一点でさえ、すでに侮ってよい相手ではない。数万の兵を従え名のある将を使い、現にこちらへ損害を強いておる。国を率いるだけの器量はあるのであろうよ』


 意外だった。


 自分以外が皇帝を名乗っていると聞けば、もっと怒るかと思っていた。


『だが、不死を得たことと、敗れぬことは別だ』


 声が、低くなる。


『首を落としても死なぬのであれば、首を落とすだけでは足りぬということ。砕かれた肉が戻るのであれば、何を糧として戻るのかを見極める。血か、魔力か、あるいは外に隠した核か――仕組みを知れば、攻めようはある』


(……吸血鬼って、そんなに種類があるの?)


『余の世界でも、一括りにはできぬ。陽光に焼かれるものもおれば、日中の戦場を平然と駆けるものもおった。心臓を潰せば滅ぶものも、潰した心臓を囮として笑うものもな』


(後半、すごく嫌なんだけど)


『ゆえに、貴様の知る物語の作法を、そのまま当てはめるな』


 にんにくと、十字架と、心臓に打ち込む杭。


 頭に浮かびかけたものを、まとめて引っ込めた。


『鼠よ。敵将の姿形、交戦時刻、受けた傷と、その後の動き。些細なことでもよい。記録はあるか』


『各隊から上がった報告なら、まとめてあるっス。ただ、伝聞も混じってるんで、確実なものとは分けて――』


『それでよい。倒したと思った敵が再び現れた例、こちらの術が特に効いた例があれば、そちらを優先せよ』


『……了解っス』


 鼠屋さんの背が、少し伸びた。


 必要なものを示された途端、手元の資料を分ける動きに迷いがなくなる。


『屍兵の方も、ただ死肉が動いておるのか、何者かに操られておるのかで扱いは変わる。将を潰せば止まるのであれば、数万すべてを相手取る必要はない』


(そう都合よくいくかな……)


『都合がよいかを調べるのであろうが。戦う前から、最も面倒な手順を選んでどうする』


 もっともだった。


 僕はもう、九百人で何万体ものゾンビを一体ずつ倒すところまで想像していた。


『安心せよ、俗物。余は吸血の種族とも、幾度となく相対してきた。死なぬと豪語した輩の始末にも、心得はある』


(安心できる言い方と、できない言い方が一緒に来たんだけど)


『此度も学ぶがよい。不死を誇る者ほど、死を遠ざけるための備えには熱心なものよ』


(参考にする機会、一生いらないよ!)


 机の上で、紙の鼠が小さく揺れた。


 向かいを見ると、鼠屋さんが口元を袖で隠している。


『……頼もしいっスね。正直、そこまで落ち着いて吸血鬼の話をしてくれる人、今はありがたいっス』


『怯えたところで、敵の数が減るわけでもあるまい』


『そっスね』


 鼠屋さんは一度頷き、分け終えた資料をこちらへ差し出した。


 皇帝が続きを促そうとしたところで、ふと、低い声を漏らす。


『しかし、屍皇帝か』


(……何?)


『不死を得て、幾万の死兵を従えようと、皇帝を名乗るに足るかは別の話よ』


 やっぱり、気になっていたらしい。


(そこは今、置いとこうよ)


『置いておる。ゆえに、先に戦況を聞いてやったのであろう』


(最後まで置いといて!)


 いつものように突っ込んでから、僕は資料へ目を落とした。


 指先には、まだ少し震えが残っている。


 けれど、分からないまま怖がっていたさっきとは違った。


 何が起きていて、何を調べればいいのか。その輪郭が、ようやく見え始めている。


 仕切りの向こうから、担架を呼ぶ声がした。


 僕は紙の端を押さえ、鼠屋さんへ顔を上げた。


「……その武将たちのこと、もう少し教えてください。分かってるだけで、どんな人がいるんですか?」


 鼠屋さんは手元の資料を確かめ、そのうちの一枚を机の中央へ置いた。


『実際に防人が交戦して、名乗りや装備、使う技なんかから名前が挙がってるのは――呂布、趙雲、白起。それと、女将軍の花木蘭っスね』


「…………」


 聞き覚えのある名前に、かえって言葉が出なかった。


 呂布に、趙雲。


 ゲームだったら、味方に引けるまで何度もやり直したくなるような武将だ。それが二人とも敵で、しかも吸血鬼になっている。


『まず、呂布。長柄の戟を使う武将っス。こいつは、とにかく正面から来るっスね』


 鼠屋さんが、資料に描かれた人影を指した。荒い線で描かれたその手には、穂先の脇に刃を備えた、長い武器が握られている。


『迎え撃とうが、守りを固めようが、お構いなしっス。隊列ごと押し潰すつもりで踏み込んでくる。隊長が前に出て止めないと、後ろの隊員までまとめて持っていかれるっス』


「……いかにも、呂布って感じですね」


『名前を知ってる人は、だいたいそう言うっス。ただ、力任せなだけなら、まだ対処のしようはあったんスけどね』


 その言い方が引っかかった。けれど、尋ねる前に、鼠屋さんの指が次の記述へ移る。


『趙雲は、長槍を使う武将っス。こっちは、呂布とは違う意味でヤベー相手っスね』


「違う意味?」


『こいつ、猿飛さんと互角か、それ以上の速さで動くらしいっス。しかも、その速さで長槍を自在に操ってくる。猿飛さんが止めに入っても、抜かれたら後ろの隊員がやられるんで、一瞬も気を抜けないって言ってたっス』


 猿飛さんと、互角以上。


 あの人の動きを、まともに目で追えなかったことを思い出す。


 姿を見失った次の瞬間には、槍が届いている。


 そんな相手から、負傷者を守りながら戦うのだ。背中に、冷たい汗が滲んだ。


 自分を守ってくれる人の後ろにいても、安全ではないのだ。


『次は白起。こっちの史実でも、長平の戦いで降伏した兵を大量に生き埋めにしたって伝わってる、やべー奴っス。そいつが今は、死体を兵として使う側にいるんスよ』


 降伏しても、助からない。

 

 死んだあとまで、兵として使われる。


 机に置かれた白起の資料から、思わず目を逸らした。


 鼠屋さんが地図へ手を伸ばし、小さな印を二つ、少し離して置いた。


『屍兵の扱いが厄介なんっス。押してきた屍兵を退けると、ちゃんと下がるんスよ。だから、こっちも押し返せると思う。ところが追えば横から別の群れが来る。助けに出れば、今度はそっちの退路を塞がれるっス』


「……ゾンビなのに、そんな戦い方をするんですか?」


『させる奴がいる、ってことっスね。向こうは、屍兵が何体潰れても構わないんス。こっちが仲間を助けようとすることまで、計算に入れて動かしてくるっス』


 鼠屋さんは最後の資料を手前へ引き寄せた。


『さいごに花木蘭《ファムーラン》は、剣と弓を使う女将軍っス。離れてる間は弓で牽制して、近づけば剣に持ち替える。どっちかが不得手ってわけでもないんで、距離を詰めれば有利になるとは限らないっス』


「花木蘭って……ムーラン? あの、アニメ映画の主人公になった人ですか?」


『その木蘭っス。ただ、こっちの物語と同じ人物なのかは、まだ分からないっスよ』


 映画の名前なら、知っている。けれど、その主人公が吸血鬼になって、こちらへ剣を向けてくるなんて、想像したこともなかった。


「その人も、屍兵を率いてるんですか?」


『そっス。しかも、自分だけ前へ出てこないんスよ。屍兵と一緒に動いて、こっちがそいつらを倒そうとしたところへ攻撃を重ねてくる。本人ばかり見てると囲まれるし、周りに気を取られると、あの人を見失うっス』


 四人。


 まだ四人の説明を聞いただけなのに、こちらが勝つところを、うまく想像できない。


『もちろん、全員本人だって証明できたわけじゃないっス。こっちの歴史や伝承に出てくる人物と、どこまで同じなのかも分かってないっスね。ただ――』


 鼠屋さんが、並べた資料の端を揃えた。


『その名前に見合うだけの強さがあることは、交戦した隊長たちが確認してるっス』


 冗談であってほしいという、わずかな期待まで消えた。


「……実際に戦った隊長たちは、何て言ってるんですか?」


『強いっス』


 即答だった。


 あまりに簡潔な返事に、僕は続きを待った。紙の鼠は、こちらを見上げたまま言葉を重ねる。


『普通の古代中華の武将だったら、恐らくなんとかなったと思うっス。もちろん、とんでもない達人なんでしょうけど、こっちだって術を使えるし、隊長たちには怪異と戦ってきた経験もあるんで』


 そこで一度、声が途切れた。


 鼠屋さん本人の指先が、資料の角をぎゅっと押さえる。


『でも、そいつら、不死身の吸血鬼になってるんスよ』


「……はい」


『人間だった頃より力も速さも上がって、斬られても治る。その上、長く生きてる間、ずっと武の修業を続けてるんス』


 思わず、顔を上げた。


『生前の時点で伝説になるような連中が、身体の衰えも寿命も気にせず、何百年も、それ以上かもしれない時間を鍛錬に使ってるっス。技を磨いて、実戦で試して、生き残った相手の戦い方まで覚えていくんスよ』


 僕の頭の中にあった、ゲームの武将の姿が遠のいていく。


 知っている名前だからといって、知っている強さで止まっているわけじゃない。


『ヤベーっス。チートっス』


 軽い言葉なのに、少しも笑えなかった。


(……皇帝。これ、本当に大丈夫なの?)


『先ほどより、よほど厄介な話になったな』


(安心させてくれる流れじゃなかった!?)


『不死の肉体を得て、修練まで怠らぬのであれば、警戒して当然であろう。敵が勤勉であることまで、余に責任を求めるな』


 正論だけれど、今は聞きたくなかった。


 皇帝は鼠屋さんへ問いかける。


『再生を頼みに力任せで押してくるか。それとも、傷を負わぬよう立ち回るか』


『……少なくとも、木蘭と趙雲は後者っスね。攻撃を受けても治るくせに、そもそも、なかなか当てさせてくれないっス』


『であろうな』


 妙に納得した声だった。


『長く技を磨いた者が、容易く斬られる間合いへ身を置くものか。不死だからと、剣まで鈍るわけではない』


(倒しても起きるだけじゃなくて、倒すところまでが大変ってこと……?)


『ようやく分かったか』


(分かりたくなかったよ!)


 机の上の鼠が、深々と頷いた。


『現場の総意っス』


「……隊長たちは、今、どこにいるんですか?」


 あの人たちが集まっている場所へ行けば、少なくとも、何をすればいいのかは分かるかもしれない。


 そう思って尋ねたのに、机の鼠はすぐには答えなかった。


 向かいの鼠屋さんが、資料へ目を落とす。


『それが……あんまり良い状況じゃないっス』


 式神から聞こえた声には、さっきまでの軽さがなかった。


『死國では、ときどき地形が変わるんスよ。通ってきた道がなくなったり、離れてたはずの場所がつながったり。それだけでも厄介なんスけど、今回は敵の術まで重なって、各隊が分断されてるっス』


「地形が変わるって……地図は、どうなるんですか?」


『変わったところを確認するたびに、描き直してるっス』


 鼠屋さんが、机に広げられた地図の端を押さえた。いくつもの線が引き直され、その脇へ小さな文字が書き込まれている。


 ただの進軍用の地図だと思っていた。それを作ること自体が、もう一つの戦いらしい。


『巳の隊長、蛇神みづちさんは、死國内の救護施設にいるっス。護衛には丑の隊長の牛島鉄平さんがついてるっスね』


「みづちさんが、救護施設に……」


『あの方を頼りに運ばれてくる負傷者も多いんで、簡単には動かせないっス。牛島さんにも、施設の守りをお願いしてるっス』


 この拠点へ下げられる前に、向こうで処置を受ける人たちがいるのだろう。


 それなら、守る人が必要なのも分かる。


『猿飛忍さん、犬塚さん、それから白虎の菅原虎壱さん。この御三方はいっしょに死國内で敵と交戦中っス。位置は追ってるっスけど、合流できる状況じゃないっスね』


「阿仁丸さんと、エマさんは?」


『虎頭さんとエマさんは、屍兵が増えてる原因を確かめるために潜伏中っス。敵がどこで、どうやってあの数を用意してるのか。そこを押さえないと、倒しても倒してもきりがないんで』


 救護と、護衛と、交戦と、潜入。

それぞれの役割をしっかり隊長たちは果たしているのだろう。


『青龍の龍造寺さんについても、今、最新の位置を確認してるところっス』


 鼠屋さんの説明が途切れる。


 皇帝は地図を見渡すように、しばらく黙っていた。


『ただでさえ寡兵であろうに、それをさらに分けたか。悪手よな』


(好きで分かれたわけじゃないでしょ。敵の術で分断されたって、今、聞いたばかりだよ)


『分かっておる。敵に悪手を取らされたということだ。こちらが守らねばならぬ場所を作り、動ける将を縛り、残りを引き離しておる』


(……そこまで説明してから言ってよ)


『貴様も少しは考えよ』


 地図の印へ、もう一度目を向けた。


 一つの印が、一人の隊長だけを示しているわけじゃない。その周りには隊員がいて、守らなければならない負傷者もいる。


 強い人を一ヶ所へ集めれば済むほど、簡単な話ではなかった。


「その……屍皇帝以外にも、敵の勢力はあるんですか?」


『あるっス』


 鼠屋さんが別の資料を引き寄せる。


『まず、鬼王・温羅が率いる鬼の軍勢っスね』


「鬼まで……」


『ただ、こっちは以前、虎壱さんが温羅に深手を負わせたんで、今は大人しくしてるっぽいっス。少なくとも、大きく動いたって報告は来てないっスね』


 鬼の王に深手を負わせる。


 さらりと聞き流しかけたけれど、虎壱さんも相当おかしなことをしている。


『次が、死國の海岸沿いを根城にしてる、正体不明の宗教団体っス』


「宗教団体?」


『恵比寿様、恵比寿様って言ってる、やべーやつらっス』


 急に説明が雑になった。


「え、恵比寿様って、あの……釣り竿を持って、鯛を抱えてる?」


『こっちで知られてる恵比寿様と同じものを拝んでるのかは、分からないっス。近づいて話を聞けるような相手でもないんで』


 商売繁盛の、にこにこした神様が頭に浮かぶ。


 どう考えても、死國の海岸に集まった怪しい人たちとは結びつかなかった。けれど、その結びつかなさが、妙に気持ち悪い。


『詳しい規模や、屍皇帝との関係も調査中っス。今のところ、むやみに接触しないよう伝えてるっスね』


「……まだ、あるんですか?」


『またいくつかあるんですけど...

あっ!勢力って呼んでいいのかも分からないっスけど――死國の上空で、謎の海賊船が目撃されてるっス』


「上空?」


 海岸の話をしていたせいで、一瞬、聞き間違えたのかと思った。


「海賊船が、空を飛んでるんですか?」


『そっス。船が丸ごと、空を』


(もう海賊じゃなくて、空賊じゃ――)


『待て』


 皇帝の声に、考えかけたことが止まった。


 さっきまでとは、明らかに調子が違う。


『その船、旗は掲げておらなんだか』


『旗っスか?』


『海賊旗だ。何が描かれておった』


 机の鼠が首を傾ける。その向こうで、鼠屋さん本人も同じように首を傾けた。


『自分が見たわけじゃないっスけど……報告だと、骸骨と鳥が描かれてたとか、なんとか』


 皇帝が黙った。


 僕は続きを待ったけれど、訂正も、質問も来ない。


(……皇帝?)


『クククク……』


 頭の奥で、笑い声がした。


 低く、愉快そうな声だった。さっきまで地図を前に戦況を吟味していた人と、同じとは思えない。


(何? その笑い方。心当たりがあるの?)


 返事の代わりに、笑いが深くなる。


 何か、ものすごく嫌な予感がした。


『安心しろ、鼠よ』


『鼠じゃねーっス。鼠屋っス』


 訂正は、驚くほど早かった。


『もしくは、小夜ちゃんと呼んでくれてもいいっスよ』


 鼠屋さん本人は、前髪の奥からこちらを窺っている。口元まで引き上げた袖が、ほんの少し揺れた。


 あの顔で、自分から「小夜ちゃん」を提案しているのか。


『では鼠屋。その船について新たな報告が入れば、直ちに余へ伝えよ』


『……了解っス。で、何を安心すればいいんスか?』


(そうだよ。いちばん大事なところ、まだ何も聞いてないんだけど)


 皇帝は、なおも楽しげだった。


 まるで、遠い旅先で、見覚えのある悪友の落書きでも見つけたように。


『安心せよ。その旗を掲げる船であれば――少なくとも、退屈はさせぬ』


(安心させる気、あるーーーーーー!?)


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