第二十七話 後編 暗黒皇帝、死國の入口に立つ
やばい。どう考えても、やばい。
虎壱さんから、緊急の救援要請。エマさんと阿仁丸さんが向かったばかりなのに、僕たちまで呼ばれるということは、あの二人が加わっても厳しい状況なのだろうか。
先生の声が、急に遠くなった。
(……放っておいたら、日本まで危ないってこと?)
『詳しい話を聞かねば分からぬ。だが、悠長に構えてよい要請ではあるまい』
掌の上では、紙の鼠がこちらを見上げている。
行かなきゃいけない。それは分かるけれど、死國へ行って、今日の夕方には帰ってこられるとは思えなかった。
一日か、二日か。それとも一週間。もっと長引いて、ひと月も戻れなかったら。
(……僕、留年しない?)
『貴様、まだそちらを案じておったのか』
(だって、これ以上休んだら、本当にまずいんだよ!)
『国が滅びれば、学校も学友も無事では済まぬ。出席を数えておる場合か』
正論すぎて、何も言い返せない。
それでも目の前には、黒板があった。先生がいて、教科書をめくるクラスメイトがいて、窓からはグラウンドの笛の音まで聞こえてくる。
(分かってるよ。ただ、そんな大変なことが起きてるって、まだ実感が……)
『たわけ!』
低い一喝に、背筋が伸びた。
『貴様の暮らす国が危うくなれば、母君も、あの桜井という娘も危ういのだぞ。ここで普段どおりに座っておれば、その暮らしが続くと思うな』
思わず、桜井さんの席へ目が向いた。
彼女は黒板を見ながら、ノートを取っている。朝、ようやく挨拶ができた。その続きだって、まだ話せていない。
『まずは使いの案内に従え。案ずるにしても、事情を聞いてからだ』
(……うん。分かった)
紙の鼠へ、そっと意識を向ける。
(教室を出ます。案内してもらえますか)
『了解っス。廊下で待ってるっス』
鼠が掌から机へ降りる。僕はペンを置き、手を挙げた。
「先生、すみません」
黒板へ向いていた先生が、こちらを見る。
「どうした、陰山」
「少し、体調が悪くて……保健室へ行ってもいいですか」
先生はチョークを置いた。
「一人で行けるか?」
「はい。大丈夫です」
「無理はするなよ。つらいようなら、誰かに付き添ってもらいなさい」
椅子を引くと、近くの席から声が飛んできた。
「皇帝、大丈夫か?」
「午後の体育までには戻ってこいよー」
「お前、自分のチームの心配してるだけだろ」
小さな笑い声に、先生が「静かに」と注意する。
僕は曖昧に頷き、机の横を抜けた。何でもないように歩いているつもりなのに、桜井さんと目が合うと、胸が詰まった。
彼女は眉を寄せ、僕の顔色を確かめるように見ている。
大丈夫、と伝えるつもりで小さく頷いたけれど、うまく笑えたかは分からない。
廊下へ出る直前、足元で白いものが動いた。紙の鼠が、先に戸口を抜けていく。
あんなものが歩いているのに、誰も反応しない。先生も、生徒たちも、鼠へ目を向けることさえなかった。
(……この子、ほかの人には見えてないの?)
『その辺も込みで、お仕事してるっス』
頼もしい返事とともに、鼠が壁際を駆け出した。
僕は後ろ手に戸を閉め、小さな背中を追った。紙の身体が、床へ差し込む日なたと影を交互に抜けていく。思ったより速く、すぐに小走りになった。
保健室は反対側だ。気になって一度振り返ったけれど、廊下には誰もいなかった。
『こっちっス』
鼠が角を曲がり、階段を下りていく。追いつこうと踊り場へ足を踏み入れたところで、僕は立ち止まった。
「……え?」
壁に、絵が描かれていた。
淡い墨の霞に、幾重にも重なる山の稜線。その間を縫う細い道が、奥へ奥へと続いている。
白い壁へ直接描かれた、水墨画。こんなもの、昨日まではなかったはずだ。
見覚えのある景色に目を奪われていると、足元へ戻ってきた鼠が、僕のズボンへ飛びついた。
「わっ……」
紙の足が布を伝い、脇腹から袖へと上がってくる。肩へちょこんと収まったところで、得意そうな声が響いた。
『この僕の画から、防人の拠点へ飛べるっス』
「白虎堂にあった、水墨画みたいですね……」
周りを確かめ、小声で答える。
『あー、知ってくれてるんスね。あれ、僕の芸術作品っス』
「鼠屋さんが描いたんですか?」
『そっス。移動手段としても、鑑賞用としても優秀っスよ』
白虎堂で見たときは、まさか作者とこんな形で話すことになるとは思わなかった。
「絵も式神も作れるなんて、すごいですね」
『お、分かってくれるっスか。制作の苦労なんかも、ぜひ――』
『後にせよ』
皇帝が割って入ると、肩の鼠がぴんと背を伸ばした。
『了解っス。先に、一つだけ注意事項っスね。白虎堂の画は行き来できるんスけど、これは急ごしらえなんで、一回きりっス』
「つまり……?」
『渡り終えたら、この画は消えるっス。帰りに同じ道は使えないんで、そこだけ覚えといてほしいっス』
「……ですよね」
すぐには戻れない。そう考えていたはずなのに、はっきり言われると、喉が渇いた。
描かれた道の先は、薄墨の霞へ溶け込んでいる。
『俗物』
(……大丈夫。行くよ)
指先を開き、壁へ向けた。
「陰山くん!」
呼び声に、手が止まる。
振り返ると、階段の上に桜井さんがいた。駆けてきたのだろう。胸が小さく上下し、結んだ髪が、赤いリボンと一緒に揺れている。
「桜井さん……。どうして」
「保健室、そっちじゃないでしょ」
階段を下りながら、彼女は僕を見る。それから、壁の水墨画に気づき、足を止めた。
「……何、それ。こんな絵、あった?」
「これは……」
説明する言葉が見つからない。桜井さんは不審そうに絵を見てから、僕へ視線を戻した。
「教室を出るとき、変だったから。具合が悪いっていうより、何かあったみたいで……気になって」
朝は、挨拶を交わすだけで精いっぱいだった。それなのに、そんなところまで見てくれていたのか。
「どこかへ行くの?」
僕は頷いた。
「助けてほしいって、連絡が来て。急いで行かないといけないんだ」
「……危ないところ?」
すぐには答えられなかった。
桜井さんの眉が寄る。僕は慌てて言葉を足した。
「向こうには、頼れる人たちもいるから。僕一人で何とかしようってわけじゃないよ」
「でも、陰山くんまで行かなきゃいけないんでしょ?」
「……うん」
大丈夫だと言い切って、安心させたかった。でも、現地のことも分からないまま、そんな約束はできない。
僕は一度、水墨画へ目を向けた。肩の鼠は黙っている。
「ごめん。今は、詳しく話してる時間がなくて……。しばらく、一緒に剣術の稽古もできないかもしれない」
桜井さんの唇が動きかけた。
「帰ってきたら、また鍛えてほしいんだ。まだ教えてもらいたいこと、いっぱいあるから」
彼女は僕を見つめたまま、言葉を探すように口を閉じた。
遠くで、教室の戸が閉まる音がする。やがて桜井さんは、小さく息を吐いた。
「……素振りは」
「え?」
「できるときにやっておいてね。せっかく身についてきたんだから」
稽古のときに似た口調に、ようやく少し笑えた。
「うん。できるだけ」
「無茶してまでやれって意味じゃないから」
「分かってるよ」
桜井さんの目元から、少しだけ力が抜ける。
「じゃあ、帰ってきたら、また一緒に稽古しよう。……待ってるから」
「うん」
「あと、八ツ橋。おいしかった。ありがとう」
昨日、渡したお土産だ。ちゃんと食べてもらえただろうかと、気になっていた。
「よかった。どれがいいか、結構迷ったんだ」
彼女が小さく笑った。その顔を見たら、急に、ここを離れるのが惜しくなった。
京都のことも、誤解させたままのことも、まだちゃんと話せていない。帰ってきたら、いつものように向かい合って話したい。
「なるべく早く、帰ってくるから」
気づいたときには、彼女の手を握っていた。
柔らかな指が、僕の掌の中でぴくりと動く。
「あ……」
自分が何をしたのか分かって、今さら顔が熱くなった。桜井さんも目を丸くしていたけれど、手を引こうとはしなかった。
少しして、僕の指が握り返される。
「急いで帰ろうとして、無茶しないでよ」
「……うん」
『戻る約束をしたのであれば、果たすためにも急げ』
頭の中から声がして、僕は肩を揺らした。続いて、鼠屋さんの声まで重なる。
『アオハルっスねぇ。リア充、爆発しろっス』
(今、それ言います!?)
『景気づけっス』
どこが。
桜井さんが、不思議そうに僕を見ている。僕は何でもないと首を振り、そっと手を離した。
「それじゃあ……行ってくる」
「うん。気をつけてね」
頷いて、壁へ向き直る。
触れた指先は、硬い壁にぶつからなかった。ひやりとした感触が手首まで伝わり、僕の手が、水面へ沈むように墨の景色へ入っていく。
「え……陰山くん、その手――」
背後で、桜井さんが息を呑んだ。
僕だって、この光景には慣れていない。それでも今は、足を止めるわけにはいかなかった。
「帰ったら、ちゃんと話すから!」
振り返って、それだけ伝える。驚いて伸ばされた彼女の手が届く前に、僕は墨の霞へ踏み込んだ。
◇
足の裏が、硬い地面を踏んだ。
鼻をついたのは消毒液の匂いで、その奥に、鉄のような生臭さが混じっていた。
「……ここは」
顔を上げ、言葉を失った。
太い骨組みに支えられた天幕の下へ、簡易ベッドが並んでいる。吊り下げられた照明が白く照らすその間を、腕章をつけた人たちが忙しく行き来していた。
横たわっているのは、防人の隊員だろうか。
腕を包帯で吊った人。脚へ添え木を当てられた人。血の滲んだ布を胸元へ押し当て、浅い呼吸を繰り返している人もいる。ベッドが足りないのか、床のシートへ寝かされている人までいた。
野戦病院って、こんなところなのだろうか。
視界の端で、赤く染まったガーゼが容器へ放り込まれた。短い指示と、押し殺した呻き声が絶えず耳へ届く。
ついさっきまで、学校にいた。握った手の温かさだって、まだ残っているのに。
どこへ目を向ければいいか分からずにいると、すぐ横に立つ人に気づいた。
短い髪の女性だった。長い前髪が目元を覆い、その隙間から、こちらを窺っている。
「鼠屋さん、ですか?」
こくりと頷く。
「陰山です。ええと、よろしくお願いします」
女性はぺこりと頭を下げ、それきり黙ってしまった。
僕も次の言葉を探していると、肩の上で紙が擦れた。
『ようこそ、と言いたいところっスけど――見てのとおりっス』
さっきまでは頭の中だけに響いていた声が、今度は耳に届いた。肩へ顔を向けると、紙の鼠が小さな口を動かしている。
まるで、鼠の形をしたスピーカーだ。
肩の鼠から女性へ、視線を戻した。
「……あの、直接話してもらっても大丈夫ですよ?」
『それはちょっと、勘弁してほしいっス』
女性の肩が、目に見えて縮こまった。指先が上着の裾をつまみ、前髪の奥の視線が、僕の顔からそれていく。
『人と面と向かって喋るの、苦手なんスよ。こいつを通した方が、ちゃんと話せるんで』
(……こんなに流暢なのに?)
『器用な不器用さよな』
思わず納得しかけた。僕も人と話すのは得意ではないけれど、すぐ目の前の人と、肩の鼠を通して話すのは不思議な感じがする。
『聞こえてるっスよ、陛下』
『聞こえるように申しておる』
鼠屋さんが少し俯いた、そのときだった。
「そいつを押さえろ!」
天幕の奥から怒号が飛んだ。
「ほかの負傷者に近づけるな!」
簡易ベッドの一つで、隊員が身を起こそうとしていた。
肩の包帯は赤く染まり、片脚からもシーツへ血が滲んでいる。立ち上がるどころか、動くだけで傷が開きそうなのに、その人は乱暴に身体を折り曲げ、ベッドの縁を掴んだ。
駆け寄った二人が、肩と腕を押さえる。
「しっかりしろ! 俺たちが分からないのか!」
返事はなかった。
持ち上がった顔を見て、僕は息を呑んだ。
目が、赤い。
照明の反射でも、ただの充血でもなかった。こちらを向いているのに、人の顔を見分けているようには思えない。
開いた口の端から唾液が糸を引き、顎を伝って落ちた。
押さえていた一人が、慌てて顔を引く。歯の鳴る音が、ここまで聞こえた。
噛みつこうとしたのだ。今、その人を助けようとしている仲間へ。
『あー……やばいっスね。とりあえず、封印しねーと』
軽い口調のままだった。けれど、目の前の鼠屋さんは、もう上着の裾を握っていない。
手を懐へ入れながら、僕の横を抜けていく。取り出したのは、一枚の紙と細い筆だった。
「鼠屋隊長! こいつ、もう――」
『そのまま、押さえててほしいっス。すぐ済むんで』
肩の鼠から飛んだ指示に、隊員たちが頷く。鼠屋さん自身は口を閉じたまま、暴れる腕の届かないところで足を止め、紙へ筆を走らせた。
丸く膨らんだ胴に、細いくびれ。その上へ小さな膨らみが重なり、数度筆を返しただけで、瓢箪が描かれる。
墨の濃淡で、丸みまで分かる絵だった。
ベッドの脚が床を擦る。鼠屋さんは穂先を離し、描いた瓢箪を隊員へ向けた。
『陰陽相結び、内外相隔つ。荒ぶるものよ、墨の器に身を収めよ――急急如律令』
肩口から聞こえる声には、さっきまでの軽い調子がなかった。
紙がぴんと張り、瓢箪の口が黒く滲む。
「え……」
その小さな口に、奥行きがあった。紙の白が見えていたはずの場所に、照明の光さえ届かない暗がりが続いている。
隊員の身体が、ベッドから浮いた。
押さえていた二人が鼠屋さんを見る。
『離して大丈夫っス』
二人が手を離すと、伸ばされた腕が紙へ引き寄せられた。
瓢箪の口へ吸い込まれた指先に、肩と胴が続いていく。近づくほどに姿が小さくなり、ばたついていた靴の先まで暗がりへ消えた。
引かれて持ち上がったシーツが、ぱさりと落ちる。
ベッドの上に残ったのは、血の染みだけだった。
僕は息を止めたまま、紙を見つめていた。描かれた瓢箪が、内側から突かれたように揺れる。
鼠屋さんは筆を持ち直し、その口元へ小さな栓を描き足した。
穂先が紙を離れると、揺れがぴたりと止まった。
(……栓まで描くんだ)
芸が細かい。いや、感心している場合じゃない。
(今の人、あの中に入ったの? 紙なのに? どんな原理!?)
『面白い術よな』
皇帝の声に、僕は一瞬、考えていたことを忘れた。
(皇帝?)
『取り込む器だけでなく、閉じる栓まで画で用意するか。よくできておる』
珍しく、素直に褒めている。
『お褒めにあずかり、光栄っス』
鼠屋さんがこちらへ顔を向けた。前髪で目はよく見えないけれど、口元が少し緩んでいる。
「あの人は……大丈夫なんですか?」
『中では傷の進みも止まるっス。治せる方法が見つかるまで、待っててもらうしかないっスね』
元に戻ったわけではないのだ。僕は返事の代わりに、小さく頷いた。
鼠屋さんは墨の乾いた紙を確かめ、駆け寄ってきた隊員へ渡す。
『隔離保管をお願いするっス。ほかの封印画と混ざらないように、名前と収容時刻も』
「了解しました!」
受け取った隊員は紙を両手で持ち、足早に天幕の奥へ向かった。その背を追ううちに、胸の奥が冷たくなる。
ほかの封印画。今の人が、初めてではないのだ。
空いたベッドでは、もうシーツの交換が始まっていた。離れたところから担架を呼ぶ声が上がり、二人がそちらへ走っていく。
僕も壁際へ寄り、通り道を空けた。できることといったら、それくらいしか思いつかなかった。
鼠屋さんが戻ってくる。僕の前で足を揃え、ぺこりと頭を下げると、肩の鼠も同じように頭を下げた。
『お待たせしたっス。改めまして――死國方面・防人第三後方救護所へようこそ。陰山さん、皇帝陛下』
僕は頷こうとして、もう一度、空になったベッドを見た。
シコク・オブ・ザ・デッド。
阿仁丸さんが例えに出したゾンビ映画のタイトルに、そんな言葉が重なった。けれど、さっきまであのベッドにいたのは、映画の登場人物じゃない。
背筋を、冷たいものがぞくりと這い上がった。




