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第二十七話 前編 迷える悪童を諭す

 校門を出てしばらく、僕と龍二は並んで歩いていた。


 背後から聞こえていた部活動の掛け声が遠ざかり、通りを走る車の音に混じっていく。龍二の歩幅は小さく、ときどき靴底が路面を擦った。僕も急がず、その隣を歩く。


 こうして二人で帰るなんて、少し前なら考えもしなかった。


「……陰山」


 顔を向けると、龍二は一度口を閉じた。鞄を持ち直し、こちらへ向き直る。


「いや、シュウ。さっきは、助けてくれてありがとう」


「……うん」


 まっすぐ礼を言われると、どう返せばいいのか分からなかった。名前を呼ぶのにも迷ったらしい龍二も、少し困った顔で前を向く。


「でも、何で俺なんかを助けたんだ?」


 責めるような響きはなかった。


「見なかったことにして、帰れただろ。お前には、その方がよかったんじゃねえの」


 僕は道の先へ目を戻した。


 見て見ぬふりは、できたと思う。皇帝に声をかけられたときだって、そのまま帰ることを一瞬は考えた。


「……僕が、嫌だったから」


「何が?」


「誰かがああいう目に遭ってるのを、見なかったことにするのが」


 隣の足音が少し遅れた。僕は歩調を緩め、続ける言葉を探す。


「僕が龍二たちに何かされてたときも、見てた人はいたよ」


 龍二が息を呑んだ。


「気づいてないふりをしたり、目を逸らしたり。……助けてくれなかった人のことまで、責めたいわけじゃないけど」


 自分が何か言われるのは怖い。その気持ちは、今日の僕にもあった。だから、どうして助けてくれなかったのかと、簡単には言えない。


「でも、僕は同じことをしたくなかったんだ。少なくとも、止められるのに通り過ぎるのは」


 龍二は何も言わなかった。視線を落としたまま歩き、やがて、小さく息を吐く。


「……すげえよ、お前。ほんとに」


「そんな、大したことじゃ――」


「大したことだろ」


 思ったより強く言われ、僕は口を閉じた。


 龍二は顔を上げかけたけれど、目が合う前にまた前を向いてしまう。


「俺はやらなきゃいけないこと、キツいことから

逃げてばっかだ」


 その一言に、何と返せばいいのか分からなかった。


「それに、強さだって。あの先輩ら、みんな相当なもんなんだぞ。本多先輩とはやってねえけど、他の三人だって、県じゃ名前が知られてて……」


 僕の顔から右腕へ、龍二の視線が動く。


「それを、あんなふうにさ」


 まだ、目の前で見たことが信じられないらしい。昨日、阿仁丸さんと腕相撲をしたあとの自分も、似たような顔をしていたのかもしれない。


「まあ、この一か月くらい、死ぬ気で鍛えたから……」


 口にしてから、あまり比喩になっていないことに気づいた。


 修練の中で、何度、死んだと思っただろう。刃が迫る感覚も、避けきれずに目の前が真っ暗になったことも、できれば思い出したくない。


『ようやく、教えたことを使えるようになってきた程度だがな』


(そこで、ちょっとくらい褒めてくれてもよくない?)


『昨日、褒めてやったであろう』


 回数に限りでもあるのだろうか。


「どこで鍛えたんだ?」


 龍二が身を寄せてきた。


「ジムか? それとも道場? 本多先輩には剣術やってるって言ってたよな。桜井んとこの道場か?」


「え、あの――」


「俺も、習えるかな?」


 答える間もなく重なった問いが、そこで途切れた。龍二は僕の顔を見て、少し身を引く。


「……悪い。いきなり、こんなこと聞かれても困るよな」


「ううん。ただ、僕が勝手に決められることじゃないから」


「……そうだよな」


 龍二は鞄の持ち手を握り直した。先ほどの勢いが嘘のように、足元へ視線が下がる。


「針を刺されてからさ。色々、考えたんだよ」


 通り過ぎた車の音に、低くなった声が少し紛れた。


「最初は、何で俺がこんな目にって、そればっかりだった。痛みが出ると、しばらく身体も動かなくなるし。早く元に戻してくれって」


 鞄に添えた指先が、ゆっくり曲がる。


「でも、お前には、俺がもっとひでえことしてたんだよな」


 僕は返事をしなかった。


 なかったことには、できない。謝られたらすぐに笑って、もういいよと言えるほど、昔のことにもなっていなかった。


「やらなきゃいけねえことから逃げて、怒られんのも嫌で。なのに、自分より弱い奴には偉そうにしてさ」


 龍二は一度、唇を噛んだ。


「先輩らにも喧嘩売って、それで今日みたいなことになって。……全部、自分でやったことなんだよ」


 歩く速さが、また落ちた。僕も隣で立ち止まると、龍二は俯いたまま口元を歪める。


「笑っちまうくらい、クズだよな」


 笑い声は出てこなかった。


「でも、変わりてえんだ」


 短く息を吸い、龍二がこちらを向く。


「今さら何言ってんだって、思うだろうけど……変われるチャンスが欲しい」


 伏せていた目が、ようやく僕の目を捉えた。


 僕が何か言っただけで、龍二が変わるとは思わない。道場へ通えば、それで済むわけでもないのだろう。


 けれど、何をすればいいのか分からなかった僕を、動かしてくれた人なら知っている。


(……皇帝)


『何だ』


(龍二に、何か言ってあげてくれない?)


『何故、余がこやつの人生相談まで引き受けねばならぬ』


 予想していた返事が、すぐに返ってきた。


(皇帝の言葉なら、ちゃんと聞くと思うんだ)


『先ほどまで、貴様の話も聞いておったであろう』


(僕じゃ、何て言えばいいのか分からないよ。でも、皇帝なら――)


『今度は、余を持ち上げる気か』


(……少し)


 隠しても仕方がないので認めた。そのうえで、もう一つだけ伝える。


(でも、僕は皇帝のおかげで、少しは変われたと思ってる)


 頭の中が静かになった。


(今日だって、前の僕なら声をかけられなかったかもしれない。だから、龍二にも何か残るかもしれないって)


『……歩いたのは貴様だ。余が足を動かしたわけではない』


(うん。でも、できるって教えてくれたのは皇帝でしょ)


 短い沈黙のあと、ため息が聞こえた。


『少し、代われ』


     ◇


 身体の主導を受け取り、余は目の前の男、菅原龍二へ視線を向けた。


 龍二は俗物の返事を待っておったらしい。余が背を伸ばすと、わずかに眉を動かした。


「……シュウ?」


 確かめるように呼びかけながら、男は余の顔を見直す。先ほどまでとは違う何かを感じ取ったか。


「学び舎の窓硝子を余が割ったとき以来だな」


 その肩が、びくりと揺れた。


「あのときの……。じゃあ、今は、シュウじゃ……」


「ようやく分かったか」


 男の目が、余の顔から離れなくなった。あの日のことを思い出しておるのであろう。余は構わず、話を続けた。


「貴様、自分がどれほど愚かで、矮小なものであったか。ようやく気づいたか」


 龍二の顔が強張った。だが、今度は戸惑いを押し込めるように唇を結び、目を逸らさなんだ。


「……はい」


「ならば、それはよい」


 今度は、戸惑うように眉が寄る。


「己の過ちを認めることもできぬ者に、改めようはない。もっとも、自分を屑と呼んでみせたところで、貴様が他者へしたことは消えぬがな」


「……分かってます」


「分かったかどうかは、これからの行いで示せ」


 余は、鞄を握り込んだ男の手を一瞥した。


「逃げてきたものへ向き合え。己より弱い者を見つけたなら、今度はどう振る舞うか考えよ。謝るべき相手がおるなら、己の言い分を並べる前に、その者の言葉を聞け」


 男の喉が動いた。


「謝ったのだから許せなどと、押しつけるでないぞ」


「……はい」


「変わる機会が欲しいと申したな」


 龍二が小さく頷く。


「ならば、次に同じことをしそうになったとき、それをやめよ。逃げたくなったとき、踏みとどまれ。貴様が欲しがっておる機会は、そのたびにある」


 大仰に誓わせたところで、明日になれば忘れる者など幾らでも見てきた。必要なのは、その先だ。


「真に悔い改めたときには、貴様を縛る針も抜けるであろう」


 龍二が、きょとんと余を見た。ややあって、その目が見開かれる。


「あ……」


 男は姿勢を正そうとした。身体が思うようには動かぬらしく、肩がわずかに揺れる。それでも足を揃え、深く頭を下げた。


「ありがとうございます」


 声に迷いはなかった。余が話し始めたときの強張りも、今は幾らか薄れておる。


 礼を受けたからとて、この男を認めたことにはならぬ。何をするかは、これから見ればよい。


「礼はよい。今の言葉を忘れるな」


「はい」


 龍二は頭を上げ、余を見た。


「忘れません」


     ◇


 身体が戻ると、鞄の持ち手が指に食い込んでいることに気づいた。


 握り直して顔を上げる。龍二は少し首を傾げ、僕の顔を確かめるように見ていた。


「……今は、シュウなのか?」


「うん。そうだよ」


 答えると、龍二の肩から少し力が抜けた。


「さっきの人が、皇帝。僕の頭の中に住んでるんだ」


 自分で口にしても、とんでもない説明だった。


 龍二はすぐには返事をせず、僕を見つめていた。それから、小さく息を吐く。


「あれが、皇帝……。今も、俺たちの話を聞いてんのか?」


「うん。僕と一緒に聞いてるよ」


 龍二は何か言いかけ、少し迷ってから頭を下げた。


「……さっきは、ありがとうございました」


『礼はよいと申したであろうに』


 僕にしか聞こえない返事を伝えると、龍二は「ああ、そうだったな」と顔を上げた。


「お前が、こんなに強くなったのも、あの人に色々教わったからなんだな」


「そうだね。ほんとに色々、教えてもらってる」


 龍二は驚いてはいるけれど、笑おうとも、冗談だろうと言おうともしなかった。


「……信じてくれるの?」


「信じるよ」


 返事は早かった。


「さっきまでと全然違っただろ。話し方も、目つきも。あれで、からかってるとは思わねえよ」


 龍二は自分の胸元へ目を落とした。


「それに、俺の身体にだって、訳の分かんねえ針が刺さってんだ。お前の話だけ、あり得ねえなんて言えねえだろ」


「……そっか」


 納得できる理由だった。それでも、疑われずに受け止めてもらえたことには、少しほっとした。


 龍二は空いている手を持ち上げ、指をゆっくり曲げる。握りきる前に止め、もう一度僕を見た。


「なあ、シュウ。あの人に聞いてくれねえか。俺も、鍛えてもらえないかって」


 道場のことを尋ねてきたときより、声は落ち着いていた。


「お前みたいになれるとは思ってねえけど……俺も、ちゃんとやりたいんだ」


(皇帝。今の――)


『聞こえておる。断る』


 最後まで言う前に返ってきた。


(……だよね)


『余へ頼む前に、こやつには戻るべき場所がある』


 僕は龍二の顔を見た。


『こやつは、防人の修練から逃げてきたのであったな』


(うん)


『ならば、まずはそこへ戻れ。教えを請う相手も、貴様を鍛える場も、初めからあったはずだ』


 龍二は黙って待っていた。その目を見ると、断られたことを伝えるのは少し気が重い。でも、皇帝の言葉を僕の都合で変えるわけにはいかなかった。


「……皇帝は、教えないって」


「そっか」


 視線が下がりかけたところで、僕は続けた。


「でも、先に戻る場所があるだろうって。防人の修練。龍二は、そこから逃げてきたんだよね」


「……ああ」


「だったら、まずはそこへ戻れって。教えてくれる人も、鍛える場所も、前からあったはずだって」


 龍二は口を閉じた。鞄を握る指が一度動き、やがて、力が緩む。


「……ほんとだな」


 小さな声だった。


「戻りゃ、怒られるだろうし。今さら、どの面下げてって思われんのも嫌で……」


 言葉を切り、息を吐く。


「また、別のとこへ行こうとしてたんだな、俺」


 僕は口を挟まず、龍二の次の言葉を待った。皇帝も、黙っている。


 少しして、龍二が顔を上げた。


「分かった。やってみる」


 さっきまで足元へ落ちていた目が、今は僕へ向いている。


「まず、戻って話してみる。それで、もう一回、修練させてもらう」


「……うん」


 僕が頷くと、龍二も一度だけ頷き返した。


 通りの先で信号が変わり、止まっていた車が動き出す。その音につられたように、僕たちも歩き始めた。


 分かれ道へ来たところで、龍二が足を止める。


「今日は、色々……ほんとにありがとう。皇帝にも、そう伝えといてくれ」


「聞こえてると思うよ」


 龍二が一瞬、僕の顔を見た。それから、少し困ったように口元を緩める。


「そっか。頭の中だもんな」


 僕も、小さく笑った。


「じゃあ、また明日」


「……うん。また明日」


 龍二は片手を上げ、ゆっくりと歩いていった。その背中が角を曲がるまで見送り、僕も家の方へ足を向ける。


(皇帝。ありがとう)


『何度、礼を申す気だ』


(だって、龍二にも話してくれたし)


『貴様がしつこく頼むからであろうが』


 断りきれなかったみたいな言い方だった。でも、あの言葉は、ちゃんと龍二へ向けられていたと思う。


 僕は鞄を持ち直し、少し歩いてから尋ねた。


(龍二、変われるかな)


『知らん』


 あまりに早い返事に、足が止まりかけた。


(そこは、もうちょっと……)


『本人が何をするかも見ぬうちに、余が決めてどうする』


 それは、そうなのだけれど。


 修練へ戻ると言ったときの顔を思い出す。信じたいと思う一方で、明日になったら、また違うことを言っているかもしれないとも思ってしまう。


 長いこと同じ教室にいたのに、今日、初めて聞く話ばかりだった。


『……だが、腐っても白虎の弟なのであろう』


(虎壱さんの?)


『うむ。あの男が、とうに見捨てておってもよい弟のため、貴様らへ頭を下げたのであろう。戻る先があるうちは、やり直すこともできようよ』


 皇帝はそこで一度言葉を切った。


『可能性はある。あとは、あやつ次第だ』


 僕は龍二が歩いていった方を振り返った。もう姿は見えない。


 明日、学校で会ったら、まずは僕から挨拶してみよう。さっき交わした別れ際の言葉を思い出しながら、また歩き始めた。


     ◇


 翌朝、桜井さんとは、どうにか挨拶ができた。


「……おはよう、桜井さん」


「おはよう、陰山くん」


 返事はあった。ただ、そのあと何を話せばいいのか迷っているうちに、彼女は鞄を机へ置き、教科書を取り出し始めてしまった。


 昨日みたいに避けられたわけではない。少なくとも、挨拶はできたのだ。


『朝から、その程度で一喜一憂するな』


(昨日よりは、ちゃんと話せたでしょ)


『挨拶を交わしただけであろう』


(それでも、返事をしてもらえたんだよ!)


 昨日は、話しかけても行ってしまったのだ。その違いくらいは、分かってほしい。


 教室の入口に龍二の姿が見えたのは、そのときだった。僕が口を開くより早く、向こうがこちらに気づいて歩いてくる。


「おはよう、シュウ」


「あ……おはよう」


「昨日は、ありがとな」


 机の横で頭を下げられ、慌てて周りを見た。近くにいたクラスメイトが話すのをやめ、僕たちを見ている。


「う、うん。もう、昨日聞いたから」


「でも、もう一回ちゃんと言っときたくて」


 龍二は顔を上げ、自分の席へ向かった。その歩みはまだゆっくりだったけれど、昨日みたいに俯いてはいない。


 先に挨拶をされてしまった。


 そのことが、少し嬉しかった。


 椅子へ座ったところで、桜井さんと目が合う。彼女も今のやり取りを見ていたらしい。何か言いたそうに唇が動き、僕も身体を向けかけたけれど、ちょうど予鈴が鳴った。


     ◇


 世界史の授業中、僕は黒板の文字をノートへ写していた。


 窓際のカーテンがゆっくり揺れている。先生の声とチョークの音に、誰かが教科書をめくる音が重なった。


 今日の範囲は、ローマ帝国だ。


 広い領土を抱え、異なる言葉や習慣を持つ人々を、どう治めていったのか。先生が黒板に書いた言葉を補いながら、教科書の地図を示す。海を囲むように塗られた領域へ目を向けると、頭の中から感心したような声がした。


『魔導による連絡も転移も用いず、これほどの領域を治めておったのか』


(気になる?)


『うむ。道を整えることが、いかに重要であったかは分かる』


 皇帝は、僕より熱心に授業を聞いていた。


(皇帝の国にも、道はあったでしょ?)


『無論だ。転移のできる術者を、荷車一台ごとにつけられるものか』


 魔法がある世界なら、移動も運搬も全部それで済むような気がしていた。けれど、皇帝に言わせれば、それでは人手が足りないらしい。


『一部の術者が便利に使えるものと、民が日々使えるものは違う。道が荒れておれば、食料も物資も届かぬからな』


(……何か、皇帝っぽい)


『皇帝だと申しておろうが』


 黒板に新しい言葉が書き足される。慌ててノートへ目を戻すと、余白に引いた線が少し曲がってしまった。


 先生の話は、皇帝の地位を巡る争いへ移っていく。


『外の敵を退けたところで、内が静かになるとは限らぬ。こちらの皇帝どもも苦労したようだな』


(皇帝が代わったら、それまでに決めた法律とか、国の仕組みはどうなるの?)


『残す者もおれば、先帝が定めたというだけで改める愚か者もおる。民にとって何が必要かを見ねばならぬのにな』


(……作ったら、それで終わりじゃないんだね)


 皇帝がいなくなったあと、向こうの国はどうなったのだろう。


 聞きかけて、口をつぐむ。今ここで尋ねても、皇帝にだって分からないことだ。


 僕が教科書へ目を戻すと、頭の中から催促が来た。


『次の頁を見せよ』


(まだ先生、そこまで進んでないよ)


『先を読む程度、構わぬであろう』


(僕が黒板を写せなくなるんだってば)


 一つの身体で別々の勉強をしようとしないでほしい。


 教科書を押さえ直した、そのときだった。


 机の縁から、小さな白いものが顔を出した。


 尖った鼻先に、丸い耳。折り紙でできた鼠が、こちらを見上げている。


 僕のペンが止まった。


(……鼠?)


『見れば分かる』


(いや、何で机にいるのかって話!)


 白い鼠は紙の足を器用に動かし、机の縁を乗り越えた。教科書と筆箱の間を抜け、ノートの上までやってくる。


挿絵(By みてみん)


 歩くたび、折り目のついた背中がかすかに上下した。足音は聞こえない。


 周りへ目を向けたけれど、隣の生徒は頬杖をついて黒板を見ていた。先生も説明を続けていて、誰も僕の机を気にしていない。


『式神か。余計なことはせず、様子を見よ』


 鼠がノートの端で立ち止まった。前足を持ち上げ、僕の指へ触れる。


 紙の先がくすぐったい。そっと掌を上へ向けると、そのままちょこんと乗ってきた。ほとんど重みはないのに、足を置いているところだけは、はっきり分かった。


 顔を近づけた途端、頭の中へ知らない声が響いた。


『ども。式神越しに失礼するっス』


 危うく声を上げかけ、僕は口を閉じた。


 掌の鼠が、挨拶するように頭を下げる。


『防人十二支将隊、子を預かる迷企羅将隊隊長、鼠屋小夜っス』


 軽快な調子だったけれど、挨拶も名乗りも早口だった。声の主は、ひどく急いでいるらしい。


(防人の、隊長……?)


『そっス。陰山修さんと皇帝陛下、お二人に緊急のご連絡っス』


 今、考えただけの言葉に返事が来た。


 僕と皇帝の間へ、もう一人の声が加わっている。掌から顔を上げた鼠を見つめ、僕は思わず背筋を伸ばした。


『防人四方神将《白虎》、菅原虎壱より――大、大、大至急の緊急救援要請っス』


 持ったままだったペンを、僕は握り直した。


 虎壱さん。


 京都でエマさんたちが話していた、死國のことが頭をよぎる。あの二人が増援へ向かったばかりなのに。


『ほう。思わぬ急ぎの召喚だな』


 皇帝の声に、いつものからかう響きはなかった。


『申し訳ないんスけど、すぐに出られる準備をお願いしたいっス』


(すぐって……今から?)


『今からっス』


 僕は反射的に黒板を見た。


 先生はまだ、帝国の話をしている。机の上には開いた教科書と、半分までしか写せていないノート。次の時間も、その次の時間も、普通に授業があるのだ。


(ちょっと待って。これ以上休むと、僕の出席日数が――!)


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