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第二十六話 後編 暗黒皇帝、放課後の仲裁を見守る

 月曜日の昼休み。


 いつもの学食で、僕は桜井さんと向かい合ってお弁当を食べていた。


 窓から差す光がテーブルの端を照らし、少し離れた返却口では食器の触れ合う音がしている。出汁の匂いに、あちこちの席から重なる話し声。


 京都で過ごした二日間が濃すぎたせいか、その普通の光景が、妙に久しぶりだった。


 皇帝のふりをして食事をしたり、露天風呂で異世界の話を聞いたり。ようやく観光できたと思えば、防人の隊長二人と出会い、腕相撲で喫茶店のテーブルにひびまで入れてしまった。


『最後の件は、己も加担したことを忘れるなよ』


(忘れてないよ……)


 箸を動かす右腕には、今朝も少し疲れが残っている。


 食事が一段落したところで、僕は鞄から生八橋の箱を取り出した。


「これ、京都のお土産。よかったら」


「えっ、私に?」


「うん。桜井さんには、いつもお世話になってるから」


 みづちさんに持たせてもらったものとは別に、自分で選んで買った箱だった。何味が好きなのか分からず、店先でしばらく悩んだことは、言わなくていいと思う。


「ありがとう。生八橋、好きなんだよね」


 桜井さんは箱を両手で受け取り、嬉しそうに笑った。何味にするか、あれだけ悩んだ甲斐があった。


 ほっとした僕の前で、箱をテーブルへ置く彼女の手が止まる。


「それで……龍二くんのことは、大丈夫だった?」


 箸をしまいかけていた手が止まる。


 京都へ行った目的を、忘れたわけではない。ただ、どこまで話していいのか分からなかった。


「治す方法は、分かったよ」


「ほんと?」


「うん。ただ、少し時間はかかるかもしれない。すぐに全部元どおり、とはいかないと思う」


 いつ治せるのか、今ここで約束はできない。それでも、何も手がなかった頃とは違う。そのことだけは、ちゃんと伝えたかった。


「……そっか」


 桜井さんは僕の顔を見てから、ゆっくり頷いた。


「分かった。ありがとう、陰山くん」


 桜井さんは箱の角を撫で、それから顔を上げた。まだ聞きたいことはありそうだったけれど、話題を変えてくれた。


「京都では、少し観光もできたの?」


「うん。帰る前に、案内してもらって」


「どこに行った?」


 スマホを取り出し、写真を開く。


 八坂神社の楼門に、清水寺の舞台から見た景色。坂道に並ぶお店の写真もある。


 画面を見せながら説明しているうちに、僕も少し楽しくなっていた。


「修学旅行で行ったはずなんだけど、今回の方がちゃんと見た気がする」


「分かる。みんなで回ってると、意外と――」


 次の写真へ指を滑らせたところで、桜井さんの言葉が止まった。


 京都の町並みを背に、僕とみづちさんが並んで笑っていた。


「……誰? この人」


 画面を指していた彼女の手が、膝へ戻った。学食のざわめきは変わらないのに、テーブルの向こうだけが急に静かになる。


「あ、その人が、案内してくれた人で」


「ふうん。知り合い?」


「今回、龍二のことで会いに行った人なんだ。色々教えてもらって、それで、せっかくだから観光もって」


「じゃあ、この人と二人で回ったんだ」


「う、うん」


 皇帝もいた、とは言えない。


 いや、言えたとしても、状況がよくなる気はしなかった。


「随分、仲よさそうだね」


「写真に入るとき、ちょっと近くなっただけで……」


「写真、陰山くんから誘ったの?」


「……うん。せっかく案内してもらったから、一緒に撮った方がいいかなって」


「そうなんだ」


挿絵(By みてみん)


 正直に答えているはずなのに、返事をするたび、何かを間違えている気がする。


『貴様、尋ねられたこと以上に弁解を足すな。ますます怪しい』


(じゃあ、どう答えればいいの!?)


「案内してもらったお礼は、ちゃんと言った?」


「もちろん。泊めてもらったし、ご飯もご馳走になったから――」


「泊まったんだ」


 しまった、と思ったときには遅かった。


「お部屋を借りただけだよ。その人の家、すごく広くて、お世話をしてる人もいて」


「ふうん」


 桜井さんはもう写真を見ず、生八橋の箱を丁寧に鞄へしまっていた。お弁当を片づける手つきまでいつもどおりなことが、かえって怖い。


「あの、桜井さん?」


「綺麗な人と観光できて、よかったね」


「えっと……」


「お土産、ありがとう。家でいただくね」


 これで話は終わりなのだろうか。何か言わなければと口を開く前に、桜井さんが椅子を引いた。


「あっ、ごめん。しばらく剣道部の練習に集中したいから、陰山くんも自主練、進めておいて」


「うん。分かった」


「素振り二千回と、型を二時間。毎日ね」


「……二千?」


「じゃあ、またあとで」


 聞き返した数字には答えず、桜井さんは席を立った。


 呼び止める言葉が出てこないまま、その背中を見送る。


(……僕、何か怒らせた?)


『今頃そこへ辿り着いたか』


 僕はスマホを伏せ、肩を落とした。


 せっかくお土産を喜んでもらえたのに。数分前まで、普通に話せていたのに。


 黙っていると、皇帝がため息をついた。


『……貴様は、世話になった礼を述べ、案内を受けた。それ自体は、責められることではない』


(皇帝……)


『あの娘も、土産を置いてはいかなんだろう』


 生八橋の箱をしまった、丁寧な手つきを思い出す。あんなふうになっても、受け取ってはもらえたのだ。そのことに、少しだけ救われた。


(珍しく、慰めてくれるんだね)


『毎日二千回も振られては、余まで落ち着かぬのでな』


(やっぱり自分のため!?)


 言い返してから、僕はもう一度、空いた向かいの席へ目を向けた。


 午後になったら、普通に話してくれるだろうか。


 その前に、二千回が聞き間違いだったかどうかだけでも、確かめたい。


     ◇


 帰りのホームルームが終わると、教室のあちこちで椅子を引く音がした。


 僕は教科書を鞄へ押し込みながら、桜井さんの席を見る。


 昼休みのことが、午後の授業中もずっと気になっていた。何をどう謝ればいいのかは、まだ分からない。それでも、このまま帰ってしまったら、明日はもっと話しかけづらくなりそうだった。


 桜井さんが鞄を持って立ち上がるのを見て、僕も慌てて席を立つ。


「あの、桜井さん」


 彼女の足が止まった。


「お昼のことなんだけど……何か、嫌な気持ちにさせちゃったなら、ごめん。それと、素振りの回数――」


「ごめん、陰山くん。私、急ぐから」


「あ、うん」


「じゃあ……」


 桜井さんは鞄の紐を肩へ掛け直し、そのまま教室を出ていった。


 廊下の人波に背中が隠れ、僕は半分だけ上げていた手を下ろした。最後まで、素振りの回数には答えてもらえなかった。


(……やっぱり、怒ってるよね)


『少なくとも、今すぐ貴様と話す気にはなれぬようだな』


(もうちょっと、柔らかく言ってよ……)


 鞄を持ち直し、僕も教室を出る。


 桜井さんが向かった方へは、足を向けられなかった。


(普通に説明したつもりだったんだけどな)


『貴様にとっては、案内を受けたという報告であろう。だが、あの娘が気にしたのは名所ではなく、隣に誰がおったかだ』


(みづちさん?)


『他に誰がおる』


 そう言われても、どうすればよかったのだろう。


 みづちさんに案内してもらったのは事実だし、一緒に写真を撮ろうと言ったのも僕だ。隠すようなことだとは思わなかった。


『嘘をつけばよかった、などと考えるなよ』


(……分かってる)


『ならば、今日のところは追うな。向こうも、己の気持ちを持て余しておるのやもしれぬ』


 皇帝にしては、断定しない言い方だった。


(また、普通に話してくれるかな)


『明日も会うのであろう。今日一度、話を断られた程度で、何もかも終わった顔をするな』


 慰めてくれているのだと思う。少なくとも今は、そう受け取ることにして顔を上げた。


(……ありがとう)


『礼は、明日まともに挨拶できてからにせよ』


     ◇


 昇降口で靴を履き替え、校舎沿いの道を歩いた。日陰へ入ると風が少し冷たく、開いた窓からは吹奏楽部の音階練習が聞こえてくる。


 部活動へ向かう生徒たちの声も、ここまでは追ってこなかった。桜井さんも、今頃は着替えているのだろう。


 結局、聞き直せなかった素振り二千回が、頭の中をぐるぐる回っている。


 鞄の紐を握りながら歩いていると、校舎の角を曲がった先から、笑い声が聞こえた。


「おいおい。何だよ、その頭」


 足を緩める。覚えのある場所だった。


 以前、龍二と藤田、村上の三人と向かい合った校舎裏。校庭へ抜ける近道だけれど、表の道からは見えにくく、今は他に人影もない。


 その壁際に、誰かが立っていた。


 囲んでいるのは、四人の男子生徒だった。学ランの前を開けた大柄な人と、袖をまくった肩幅の広い人。細身の一人が壁際へ身を寄せ、少し後ろでは、ポケットへ手を入れた人がその様子を眺めている。


 見覚えのない顔ばかりだ。会話からすると、上級生らしかった。


「丸刈りにして、心でも入れ替えたか?」


「前と別人みてえじゃん」


 四人の隙間から、頭を下げている人が見えた。短く刈られた頭に、見覚えのある横顔。


 龍二だった。


 僕は、鞄の紐を握る手に力を込めた。


「……すみませんでした」


「あ? 何が?」


「前のことです。生意気なこと言って、すみませんでした」


 龍二は顔を上げなかった。


 壁に近い方の肩が、妙に落ちている。立っているだけなのに、身体を支える場所を探しているように見えた。


「今さら謝んのかよ。三年なんて目じゃねえとか、言ってたじゃねえか」


「俺らが邪魔だって、ずいぶん偉そうだったよなあ」


「……すみません」


 以前、揉めたことがあるらしい。


 何があったのか、詳しくは分からない。ただ、龍二の謝罪で話を終えるつもりがないことだけは分かった。


 細身の人が、下がった龍二の頭を指先で小突いた。


「お前、こんな奴だったっけ?」


 龍二の身体が揺れ、反射的に浮いた手がそのまま下がる。相手の手を掴むことも、払いのけることもしなかった。


 呪針のことが頭をよぎる。


 以前のように身体を動かせないのかもしれない。けれど、遠くから見ているだけでは、今どれほどつらいのかも分からなかった。


「何とか言えよ」


「……もう、ああいうことはしませんから」


「だから、何だよ。その態度」


 謝っても駄目で、黙っても駄目。何を言えば、この人たちはやめるのだろう。


 そう考えた途端、胃のあたりが冷たくなった。


 頭を下げる龍二の向こうに、別の光景が重なる。


 周りから笑われて、うまく言葉が出てこなかった自分。何を答えても次のからかいが返ってきて、誰とも目を合わせられなくなったときのこと。


 顔を上げたら、また何か言われる。


 かといって、下を向いていても終わらない。


 龍二の指が、制服の脇を握り込んでいた。


『助けるのか』


 皇帝の声で、僕は息を吸った。


(……見ちゃったから)


『こやつが以前、貴様に何をしたかは忘れておるまいな』


 忘れていない。


 龍二の顔を見ただけで、身構えてしまうことだってある。少し前まで、あちらの笑い声を聞く側にいたのは、僕だった。


『己が他者へしてきたことが、己へ返ってきた。因果応報とも言えよう』


 細身の人が、今度は龍二の襟元へ手を伸ばした。


 僕の足が、そちらへ向く。


(そうかもしれないけど)


 龍二が僕にしたことも、今、目の前で起きていることも、どちらも嫌だった。


(だからって、見てていいことにはならないよ)


 鞄を肩から外し、持ち手を握り直した。


(誰かが目の前であんなことされてたら、やっぱり、無視はできない)


 僕が見ていることに、まだ四人は気づいていない。


 今なら、そのまま通り過ぎることもできる。見えなかったふりをして帰れば、僕が何か言われることはない。


 そう考えてしまう自分も、ちゃんといた。


(……止める力も、あるしね)


『ほう』


 皇帝の声が、わずかに変わった。


 昨日、阿仁丸さんと組んだ右手を思い出す。


 一花さんとの修練も、皇帝に叩き込まれた魔力の扱い方も、身についている。以前の僕と、何もかも同じではない。


 それなのに、喉は乾いていた。


(ちょっと怖いけど……)


『力があると申した舌の根も乾かぬうちに、それか』


(怖いものは、怖いんだよ)


『ならば、怖いまま歩け。話しかける前から倒れるほどではあるまい』


 ずいぶん雑な励ましだった。それでも、足を踏み出すには十分だった。


 僕は一度だけ息を吐き、校舎裏へ踏み出した。


「あの」


 思ったより小さな声になった。


 それでも、龍二へ伸びていた手は止まった。僕は息を継ぎ、今度は相手に届くように言い直す。


「……もう、そのくらいで、やめてもらえませんか」


「あ?」


 細身の上級生が振り返った。目つきが鋭く、袖から出た腕が妙に長い。僕を頭から足まで眺めると、面倒くさそうに顎を上げる。


「何だよ。学級委員長に用はねえぞ」


「学級委員じゃないですけど……クラスメイトです」


 龍二の方を見ると、まだ顔を伏せていた。


「謝ってるみたいですし、もう、そのくらいで」


「お前には関係ねえだろ」


「でも――」


「聞こえなかったか?」


 僕が退かなかったせいか、細身の先輩は眉間に皺を寄せた。近づいてくる足よりも先に長い腕が伸び、指が僕の襟元へ迫る。


 前なら、その手を見るだけで身体が固まっていたと思う。


 今も怖い。ただ、手が届くまでの距離は、はっきり見えていた。


 踵を浮かせ、虚空一刀流の歩法に《疾走》を重ねる。伸びてくる腕の外へ身体を運ぶと、靴底が乾いた土を擦った。


「……あ?」


 上級生の指が、何もないところで閉じた。


 その斜め横に立った僕へ、視線が遅れて追いついてくる。握った右手と、さっきまで僕がいた場所を見比べ、先輩は口を開けた。


「お前、今……」


「ブ……陰山」


 龍二が顔を上げていた。


(絶対、今、ブヒって言いかけたよね)


『助けに入った途端、随分と細かなことを気にするな』


(聞こえちゃったんだから、仕方ないでしょ)


 少なくとも、声は出せるらしい。少し安心したところで、大柄な上級生が僕を指さした。


「陰山? お前か。最近、体育で覚醒したとか、皇帝がどうとか言われて、調子に乗ってんの」


「……調子には、乗ってないです」


『皇帝がどうしたと?』


(今は、そこに反応しないで)


「知ってんのか?」


 少し後ろで見ていた人が、ポケットから手を出した。他の三人がそちらへ目を向けるところを見ると、この人が中心なのだろう。


「柔道部の後輩らが、勧誘してるんですよ。こいつが入れば、インターハイ優勝は確実だって」


「へえ」


 その人が僕を見る。


 感心したような声なのに、目は笑っていなかった。


「そりゃ、すげえな」


 僕を指さしていた大柄な先輩が、細身の人と入れ替わるように前へ出た。背が高く、学ランの肩が窮屈そうに張っている。首を左右へ傾けてから、両手を持ち上げた。


「おい、デブ。だったら、ちょっと相手しろよ」


「僕、喧嘩をしに来たわけじゃ――」


「喧嘩じゃねえよ。柔道の練習だ。かかってこい」


 後ろで、誰かが笑った。


「下、畳じゃねえからな。森田、手加減してやれよ」


「分かってるって」


 森田と呼ばれた人の手が伸びる。僕は鞄を足元の壁際へ置き、向き直った。


 右手が襟の奥へ入り、左手には僕の右手首を取られる。


 避けることはできた。でも、さっきと同じように動いたら、また追いかけられるだけかもしれない。


 僕は両足をついたまま魔力を巡らせ、詠唱を省いて《身体狂化》を発動した。


『慌てるな。余計な力を込めずとも、貴様ならば耐えられる』


(……うん)


「受け身くらいは、取れるよな?」


 森田さんが、口の端を上げた。


 返事を待たずに腕を引き、僕の前へ背中を入れてくる。体育で習った、背負い投げの動きだ。


 襟と手首が引かれて制服が突っ張ったけれど、僕の足は地面から離れなかった。


「……っ?」


 森田さんの背中が僕の胸へ押しつけられ、もう一度、強く引かれた。それでも、足は動かない。


 革靴の底が土を擦り、森田さんが短く息を吐いた。僕を引いていた腕に、さらに力が入る。


 昨日、阿仁丸さんと組んだときとは違い、踏ん張る余裕があった。相手の力がどちらへ向いているのかも分かる。


「な、何だよ、お前……!」


 僕は取られていた手を抜き、目の前にある制服の襟を掴んだ。もう片方の手を、腰のベルトへ掛ける。


「よいしょ」


 思ったよりも、軽かった。


「うわっ!?」


 森田さんの両足が、地面から離れた。


 持ち上げたところで、自分でも少し驚く。頭の上に大きな身体があるのに、腕はまだ支えられそうだった。


「お、おい! 下ろせ! 下ろせって!」


 さっきまでの笑い声が、ぴたりと止まっていた。


 暴れられて落とさないよう、掴んだ手へ意識を向ける。僕が身体の向きを変えると、森田さんの足が宙を横切った。


 一周、二周。


「待て、待て待て待て!」


 三周ほど回ったところで、僕は足を止めた。


 持ち直そうとした森田さんの身体が傾き、頭が下を向く。


「ひぃっ――!」


 悲鳴が上がった。


 襟とベルトで重さを支えたまま、ゆっくり下げる。地面へ近づいた頭の下へ足を差し入れると、後頭部が靴の甲へ収まった。


 土にも、小石にも、ぶつかっていない。


 そのまま膝を曲げ、肩から背中へと身体を下ろす。最後に頭を地面へ預け、僕は手を離した。


 森田さんは仰向けになったまま、目を見開いて僕を見上げていた。口が半分開いているけれど、声は出てこない。


『……持ち上げるだけで十分であったろう』


(うん。僕も、途中でそう思った……)


 力の差を見せれば、大人しくなってくれると思った。でも、森田さんの顔を見れば、必要以上に怖がらせてしまったことは分かる。


(……ちょっと、やりすぎた)


『ならば、次から考えよ。止めるために力を使うのであろうが』


 僕は小さく頷いて《身体狂化》を解き、森田さんへ声をかけた。


「すみません。回したのは、やりすぎました。……一本じゃないですけど、まだ、やりますか?」


 森田さんの首が、勢いよく横へ振られた。


 一度ではなく、何度も。


「分かりました」


 僕は一歩下がり、少しだけ息を吐いた。まだ心臓は速いけれど、一人はやめてくれるらしい。


 これで、やめてくれるだろうか。


 その期待は、さっきの細身の先輩が前へ出てきたところで消えた。襟を掴み損ねた右手を握り、身を起こした森田さんを一瞥してから、僕へ目を戻す。


「……ボクシング部、田中だ」


 ぼそりと名乗った田中さんが、足を開いた。


 右足が前、左足が後ろ。左拳は顎の近くに置かれているのに、右腕は低く下がっている。


 サウスポーだ。ボクシング漫画で見た、ヒットマンスタイルという構えに似ている。今度は襟を掴むつもりではないらしかった。


「あの、僕はもう――」


 右拳が、顔へ伸びてきた。


 背中が冷えた、その瞬間には魔力を目へ送っていた。視界が切り替わるまで、一秒もかからない。


 低い位置にあった拳が、僕の顔へ向かってくる。肩の動きも、伸びていく肘も、はっきり見えた。


 さっき襟を狙ってきた手とは、明らかに速さが違う。それでも、皇帝の修練で幾千もの攻防を繰り返し、魔眼を使うことに慣れてきた僕には、拳がゆっくり近づいてくるように見えた。


 右手を上げて軽く横へ弾くと、拳が頬の外を通り過ぎた。


「……っ」


 引き戻された右拳が、すぐにもう一度伸びてくる。それも見えた。強く叩かず、顔へ届く道筋から少しずらす。


 二発、三発と続けて、拳の脇へ掌を添える。ボクシングでいうパリィに近いのかもしれない。少なくとも、まともに受け止めようとするより、ずっと楽だった。


 田中さんの眉が、僅かに寄った。


『見えておるからとて、いつまでも付き合うな』


(分かってる)


 田中さんの右手が引かれた隙間へ、《身体狂化》を発動して一歩踏み込んだ。


 距離が一気に詰まり、田中さんの目が見開かれた。近い。阿仁丸さんと力を比べたときの感覚が、一瞬、頭をよぎる。


 あのときと同じ力を込めては駄目だ。


 踏み込む勢いを抑え、拳を短く動かす。お腹へ一発だけ当てると、掌まで鈍い感触が返ってきた。


「――ぐっ」


 田中さんの息が、喉で詰まった。


 前へ折れた身体から、構えていた両腕が下がる。膝が崩れるのを見て、僕は慌てて肩へ手を伸ばした。


 支えながらしゃがむと、田中さんは腹を抱え、その場へうずくまった。


「あの……すみません。大丈夫ですか?」


 田中さんは小さく頷いたものの、腹を抱えたまま顔を上げなかった。呼吸が整うのを待ってから、僕は支えていた肩を離す。


 《身体狂化》を解き、自分の拳を見る。大きく振ったわけでも、思い切り力を込めたわけでもない。それでも、相手は立てなくなっていた。


『加減はできておる。慌てるな』


(……うん)


 頷いてから顔を上げると、残った上級生たちが、黙って僕を見ていた。


 誰も笑っていなかった。風に擦れる葉の音と、田中さんの苦しそうな息だけが聞こえる。


「……次、俺がいいか」


 田中さんへ目をやっていた、肩幅の広い先輩が進み出た。森田さんより背は低いものの、太い首と胸の厚みが目を引く。


 学ランのボタンを外し、脱いだ上着を後ろで見ていた人へ渡す。Tシャツの下には、胸にも肩にも、硬そうな筋肉が浮いていた。


「レスリング部三年、坂井だ」


 そう名乗り、右手を差し出してくる。


「……陰山です」


 握手だろうか。


 少し迷って手を出した途端、手首を取られた。もう片方の手が腕へ掛かり、身体ごと斜めに引き出される。


「えっ」


 足を踏み出して支えたときには、坂井さんの姿が目の前から消えていた。


 背中へ厚い胸が触れ、腰へ回された両腕がお腹の前で繋がった。


(後ろ……!)


『勝負の最中に、何故、握手だと思う』


(名乗ってから手を出されたら、そう思うでしょ……!)


 身体を締めつける腕に、力がこもる。


 足元が浮きかけ、僕は慌てて《身体狂化》を発動した。両足まで魔力を巡らせて踏みしめると、持ち上がりかけた踵が土へ戻る。


「……っ?」


 坂井さんが、息を詰めた。


 背中越しに、腰が沈むのが分かる。もう一度、強く引き上げられた。


 制服は突っ張ったけれど、僕の足は離れなかった。


「何だよ、お前……!」


 さらにきつくなった腕へ目を落とす。お腹の前で組まれた指も、それを支える腕も太い。普通なら、引き剝がそうと思ってもどうにもならなかったはずだ。


 その両手へ自分の手を添え、締めつけてくる腕をゆっくり左右へ開く。力を込める余裕は、まだあった。


「は……?」


 指を組み直そうとする動きが伝わってきたけれど、その前に両手を引き離した。腰を囲んでいた腕に隙間ができる。


 僕はそこから身体を抜き、足を運んだ。


 横へ抜けたところで、目を見開く坂井さんの顔が見えた。その視線が追いつくより早く、僕は背後へ回り込む。


 右手で手刀の形をつくり、首の横へそっと添える。打つつもりはなかったけれど、触れた瞬間、坂井さんの肩が大きく跳ねた。


「……坂井先輩」


 自分の息も、少し速くなっていた。


「これで、一本でもいいですか?」


 返事はなく、坂井さんの腕がゆっくり下がった。


 まだ向かってくるかもしれないと思い、僕は手を離して一歩退いた。けれど、坂井さんは振り返らずに俯いたまま、自分の両手を見つめている。


 僕は魔眼と《身体狂化》を解き、呼吸を整えた。これ以上、前へ出てくる人がいないことを確かめたところで、ぱち、ぱち、と拍手が聞こえる。


 顔を上げると、さっきまで少し離れて見ていた上級生が、ゆっくり手を打ち合わせていた。


「すげえな。こりゃ本物だわ」


 三人の勝負を、ずっと見ていた人だ。預かっていた学ランを坂井さんへ返してから近づいてくる。


 僕は半歩退き、間合いを保った。まだ、警戒を解く気にはなれない。


『ようやく学んだか』


(これ以上は、引っかからないよ)


「そんな警戒すんなって。俺は何もしねえよ」


 考えていることが顔に出ていたらしい。


 その人は両手を軽く開いてみせ、それから、俯いたままの坂井さんへ目を向けた。


「こいつら、それぞれの部活じゃ、県で一位二位を争うくらいの奴らなんだぜ?」


 僕は思わず、三人を見た。


 森田さんは立ち上がっていたけれど、まだこちらへ近づこうとはしない。田中さんは膝へ手をついて息を整え、坂井さんは返された学ランを握っている。


「それを、まとめて子供扱いかよ」


「そんなつもりじゃ……」


「分かってる。だから、余計にすげえって言ってんの」


 上級生は笑ったまま、僕の前で足を止めた。


「陰山くん、っつったっけ。何者?」


「何者って……」


「軍隊の特殊部隊にでもいたわけ? それとも、一子相伝の拳法の伝承者とか?」


 冗談みたいな聞き方なのに、目は笑っていなかった。肩や腕、足元へも視線が動き、僕はつい背筋を伸ばす。


「……剣術を、少し習っています」


「へえ」


 その人の眉が、僅かに上がった。


「剣道じゃなくて、剣術か」


「はい」


「何て流派?」


 答えかけて止まる。僕が勝手に話していいことなのだろうか。


 一花さんの顔が浮かび、そのあとで、桜井さんの顔まで浮かんだ。今日これ以上、余計なことを言って困る相手を増やしたくない。


「……秘密です」


「つれないなあ。そこまで言ったら、教えてくれてもよくね?」


「すみません」


 反射的に謝ると、上級生は肩を竦めた。


「ま、いいけど。俺より余裕で強い奴に、無理に聞くわけにもいかねえし」


 他の三人がざわついた。


「……直也くんよりも?」


「マジで言ってんの?」


 残った上級生たちが、顔を見合わせている。


 森田さんまで、驚いたように目を上げていた。


「それ、もう化け物じゃねえか……」


(……化け物)


『そう落ち込むな。今のは、強さを認めた言葉であろう』


(認めてもらうなら、もう少し別の言い方がいいんだけど)


 直也と呼ばれた人は、振り返って仲間たちを見た。


「実際、相手したお前らが一番分かってんだろ?」


 誰も、すぐには答えなかった。


 坂井さんが学ランを握り直し、森田さんは一度だけ僕を見て目を逸らす。田中さんも口を挟まなかった。


「な?」


 直也さんが、こちらへ向き直る。


 声は相変わらず軽かったけれど、僕を見る目から、さっきまでの値踏みするような色が少し薄れていた。


 それでも、まだ安心はできない。僕は直也さんの肩越しに、壁際の龍二を見た。


「あの。それなら、もう……龍二のことも、やめてもらえますか」


 僕がここへ来たのは、強さを認めてもらうためではなかった。


「誤解があるな、陰山くん」


 直也さんは、僕と龍二を見比べた。


「俺ら、何の関係もない奴を捕まえて、遊んでたわけじゃねえんだよ」


 壁際の龍二が、僅かに顔を伏せる。


「先に名乗っとくか。本多直也。こいつとは、通ってるジムが同じでさ」


「龍二と、ですか?」


「ああ。俺が先に入ってて、こいつは後から来たわけ」


 同じ格闘技ジムの先輩。


 龍二は、ただ通りがかりに絡まれたわけではなかったのだ。僕は壁際へ目を向けたけれど、彼はまた俯いてしまった。


「本多さん、無頼漢のチャンピオンだぞ」


 横から、森田さんが言った。


「……無頼漢?」


「地下格闘技の大会。知らねえ?」


 聞いたことはなかった。


 ただ、その名前と、さっき三人が見せた反応を合わせると、目の前の人が相当に強いのだろうとは思えた。


「その話はいいって」


 本多さんが軽く手を振る。


「で、龍二がさ。少し前まで、ずいぶん景気のいいこと言ってたわけよ」


 笑顔のまま、龍二へ顎を向けた。


「田中も森田も坂井も、大したことねえ。自分がやりゃ勝てる。三年だからって、でかい顔すんなってな」


 龍二の唇が動いた。


「……すみませんでした」


「今日も、それしか言わねえんだ。だったら、実際にやってみるかって話になるだろ?」


『己で蒔いた種だな』


 皇帝が、淡々と言った。


 僕は、壁際の龍二を見る。


 否定しないところを見ると、そういうことを言っていたのは本当なのだろう。以前の龍二なら、言いそうだとも思ってしまった。


『侮ってよい相手かも分からず、大口を叩いておったわけだ』


(……うん。言ったことには、責任があると思う)


 龍二が僕へしてきたことだって、謝ったから何もなかったことになるわけではない。


 それでも。


「そんなことを言ってたとは、知りませんでした」


 僕が答えると、本多さんは少し顎を引いた。


「でも、今の龍二は、身体がうまく動かせないんです」


「怪我でもしてんの?」


「……詳しくは言えません。ただ、前みたいには動けません。それで、謝ることしかできなかったんだと思います」


 龍二が顔を上げた。


 僕はそちらを見ず、本多さんへ言葉を続ける。


「言ったことを取り消せとか、ちゃんと謝れっていうのは分かります。でも、今ここで戦わせても確かめたいことは分からないんじゃないですかね」


 本多さんの笑みが、少し止まった。


「……そこまで庇ってやるんだな」


「庇うっていうか……」


 そこまで言って、僕は言葉を選び直した。


「今は、やめてほしいだけです。龍二が言ったことを、正しいと思ってるわけじゃありません」


 頭の中で、皇帝が小さく鼻を鳴らした。


『事情を聞いても、そこは変えぬか』


(聞く前より、龍二が悪いのは分かったよ)


 僕は、握り込んでいた手をゆっくり開いた。


(でも、それと、やめてほしいかどうかは別だから)


 本多さんは、しばらく僕を見ていた。


 やがて、ふっと口元を緩める。


「分かった。じゃあ今日は、陰山くんの顔を立てとくわ」


 本多さんは僕から視線を外し、壁際の龍二へ向き直った。


「身体のことは知らなかった。無理にやらせようとしたのは、悪かったな」


 龍二が少しだけ顔を上げる。何か言いかけたように唇が動いたけれど、結局、声にはならなかった。


 本多さんは返事を急かさず、もう一度僕を見た。


「……ありがとうございます」


 ようやく、息をつけた。


 これで終わる。壁際へ置いた鞄を取り上げたところで、本多さんが一歩、距離を詰めてきた。


「つーかさ。陰山くん、うちのジム来ない?」


「……え?」


「見学だけでもいいから。一回、来てみてよ」


 さっきまでとは目の輝きが違う。身を乗り出し、僕の返事を待ちきれない様子は、新しいゲームを見つけたときの友達みたいだった。


「陰山くんなら、無頼漢どころか、メジャー団体のチャンピオンも狙えるぞ。いや、マジで」


「い、いえ。僕は、そういうつもりでは……」


「だったら、うちだろ」


 横から声がして、本多さんが顔を向ける。


 坂井さんだった。


 学ランを羽織り直しながら、真剣な顔で僕を見ている。


「あの力で、ちゃんと技術を覚えたら、絶対に勝てる。レスリング、向いてるって」


「お前、さっきバック取られてたじゃねえか」


「だから言ってんだよ」


 本多さんへそう返すと、坂井さんはまた僕へ向き直った。


「一度だけでも、練習に来ないか?」


「いや、待てって。先に目ぇつけてたのは、うちだからな」


 森田さんまで口を挟んだ。


「後輩から、何度も誘われてんだろ? 柔道部。話、聞いてやれよ」


 さらに、横から低い声がした。


「……ボクシングも、考えてくれ」


 田中さんだった。


 まだ少しお腹を庇っているけれど、僕を見る目は真剣だ。


「あれだけパンチが見えて、あんな強烈なボディが打てるなら……」


「おいおい。全員で取り合ってどうすんだよ」


 本多さんが笑う。


 僕は、四人の顔を順番に見た。


 さっきまでと、囲まれている理由が変わってしまった。


(皇帝。どうしよう)


『好きなものを選べばよかろう』


(そういう相談じゃないよ!)


「その……すみません。今すぐには決められないので、少し考えさせてください」


 ようやく言うと、本多さんが大きく頷いた。


「おう。じゃあ、考えといて」


 その場を切り抜けるつもりの返事だったのに、随分と期待させてしまった気がする。せめて、明日いきなり迎えに来たりはしないでほしい。


「無理に決めさせんなよ。陰山くんにちゃんと選んでもらうんだからな」


 本多さんが三人へ声をかける。


 最初に誘ってきたのは、この人だったはずなのだけれど。


 誰もそのことには触れず、森田さんたちは鞄や上着を持ち直した。


「じゃあ、またな。陰山くん」


「は、はい」


 本多さんは軽く手を上げ、それから、壁際の龍二へ目を向けた。


「龍二。いいダチ持ったな」


 龍二の肩が、僅かに動いた。


「ちゃんと感謝しろよ」


 返事はなかった。


 四人の足音が、校舎の角の向こうへ遠ざかっていく。


 僕は見送ってから、龍二を振り返った。


 友達だと言われたことを、どう受け取ったのかは分からない。


 けれど、もう誰も囲んでいないのに、龍二は顔を上げなかった。制服の脇を握り締めた指だけが、白くなっていた。


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