第二十六話 前編 暗黒皇帝、京都に暫し別れを告げる
三十三間堂の拝観を終えた人たちが、僕らの横を通り過ぎていく。
黒い日傘の下には、幾重にもレースを重ねた服が驚くほど似合うエマさん。金色の髪も青い瞳も、お人形さんみたいに綺麗だ。
その隣には、阿仁丸さんが立っている。丸笠に黒い法衣、首には大きな数珠。格好はちゃんとお坊さんなのに、ドレッドとサングラス、袖から覗く刺青のせいで、ラッパーがお坊さん役で映画に出ているようにしか見えない。
そして、その二人と向かい合っているのが、普通の高校生である僕。
(……どういう組み合わせなんだろう、これ)
『まがりなりにも余から第二階位を授けられた貴様を普通に数えるところから間違っておる』
(見た目の話だよ!)
『ならば、余の言葉にいちいち顔をしかめるな。傍目には、貴様が一番怪しいぞ』
慌てて表情を戻すと、エマさんと目が合った。
何か察したのかもしれない。けれど、彼女は穏やかに微笑んだだけだった。
「本日は、ミスみづちにもお話があって伺いましたの」
「仕事の話、ですか?」
「ええ。虎壱さんから、わたくしたち二人へ増援の要請がありまして」
その名前を聞いて、背筋が伸びた。
「死國へ、ですか?」
「ご存じでしたのね」
「はい。任務で行っているって、聞いていたので……」
僕が京都へ来ている間も、虎壱さんは向こうで戦っていたのだ。
ただ、あの人が増援を求めるほどの状況だとは思っていなかった。
顔に出てしまったのだろう。エマさんは日傘を持ち直し、人の流れから少し離れた方へ目を向けた。僕も二人に合わせ、通路の端へ寄る。
「死國の境界付近で、不穏な動きが続いているそうです。詳しいことは、場所を移してからお話ししますけれど」
『俗物。相手と、現在の戦況を聞け』
頭の中へ響いた声は、さっきまでの気楽なものとは違っていた。
「……皇帝が、何を相手に戦っているのかと。今、どんな状況なのか知りたいって」
エマさんの視線が、僕の顔へ戻る。
「陛下も、お聞きになっているのですね」
「はい」
彼女は小さく頷き、声を落とした。
「現在、防人が交戦しているのは、死者の群れだそうです」
「死者……?」
「さながら、何とか・オブ・ザ・デッドってやつだな。ああいう映画、あるだろ」
阿仁丸さんが、笠の縁を指で押し上げる。
「ゾンビ映画じゃないですか」
口にした途端、画面の中でしか見たことのない光景が浮かんだ。
倒しても起き上がる死体。逃げ場を失う人たち。追われていた側が、いつの間にか追う側に混じっている。
「虎壱さんたちは、大丈夫なんですか?」
「今のところ、死國の結界を越えてくる敵を食い止めているそうです。ただ、数が多く、対処できる人員も限られておりますの」
「隊員を増やすだけじゃ、駄目なんですか?」
「十分な対抗手段を持たない者を送れば、敵の戦力を増やすことにもなりかねません」
エマさんの言葉を、すぐには飲み込めなかった。
「……敵の戦力を?」
「倒れた味方まで、取り込まれる危険がありますの」
「助けに入った奴まで向こう側に回っちまったら、たまらねえだろ。ゾンビ映画と、そこは似てるってことだ」
阿仁丸さんは笑っていなかった。
サングラスの奥にある目も見えず、さっきまでの人懐こい表情が、急に遠くなった気がした。
『元から死んでいた者が動いておるのか。それとも、生者が死者へ変えられておるのか。そこは分かっておるか』
僕が問いを伝えると、エマさんはわずかに首を振った。
「そこまで詳しい報告は、まだ届いておりません。現地での確認も、わたくしたちの役目ですわ」
皇帝は、それきり黙った。
何か思い当たることがあるのだろうか。尋ねようとしたところで、阿仁丸さんが口を開いた。
「ま、死者が相手なら、拙僧の出番だ」
今度は、大きな口を開けて笑う。
その顔を見て、少しだけ安心できた。
そうだ。この人は見た目こそ変わっているけれど、お坊さんなのだ。死者を相手にするなら、確かに頼りになりそうだった。
「お経とかで、成仏させるんですか?」
「読経だけで大人しく成仏してくれるなら、何時間でも唱えてやるんだがなあ」
阿仁丸さんは片手を握り、胸の前へ持ち上げた。
数珠の下にできた拳が、やたらと大きい。
「聞き分けのねえ奴には、こいつで分かってもらうまでよ」
「まあ、野蛮ですこと」
言葉とは裏腹にエマさんは、少しも驚いていなかった。
『なるほど。モンクというわけか』
(僕が想像してたお坊さんとは、だいぶ違う……)
『貴様の想像に、こやつが合わせる義理もあるまい』
阿仁丸さんが拳を開く。大きな手に巻かれた数珠を見ているうちに、僕はもう一度、虎壱さんのことを考えた。
「……虎壱さんに、気をつけてくださいって、伝えてもらえますか」
「おう。伝えとく」
短い返事に、僕は頭を下げた。
「まあ。珍しい顔合わせやこと」
聞き慣れた声がして、振り返る。
戻ってきたみづちさんが、僕らを順に見ていた。
「亥狩はんに、虎頭はん。うちがおらん間に、ずいぶん賑やかになってるやないの」
「お久しぶりです、ミスみづち」
「相変わらずいい女だな、みづち。任務さえなきゃ、夜の京都で一杯付き合ってもらいてえところだ」
阿仁丸さんが言うと、みづちさんは呆れたように目を細めた。
「あんたも相変わらずやねぇ。お酒に女の人に、よう飽きもせんこと。ぼんさんがそないに好き放題して、どないしはるん?」
「ギャンブルもお好きですから、救いようがありませんわ」
「喧嘩も好きだぜ?」
なぜか得意げに笑った阿仁丸さんを前に、二人のため息が重なった。
(最後の一つ、自分から足す必要あった?)
『欠点の申告ではない。自慢しておるのだ』
なるほど。反省してもらおうと思って聞く方が間違っているらしい。
みづちさんは二人へ問いかけた。
「それで、任務いうんは?」
「死國への増援です。虎壱さんから要請がありまして」
みづちさんの笑みが、少し薄れた。
「あんたら二人が出張らはるやなんて、よっぽど厄介なことになってるんやね」
「ミスみづちにも、近く医療支援の要請が入るかと思います。負傷した隊員の治療と、呪いへの対処をお願いすることになるかと」
「みづちの鍼がありゃ、百人……いや、千人力だな」
「あほ。うちに頼むんやったら、万人力くらい言うておき」
軽く返す声はいつもと変わらなかった。
けれど、僕は笑えなかった。
「みづちさんも、四国へ行くんですか?」
「お呼びがかかったらね」
「……大丈夫、なんですよね?」
言ってから、困らせるような質問だったと気づいた。
死者の群れを相手に、虎壱さんたちが苦戦している。そこへ行く人に、絶対に大丈夫だなんて言えるはずがない。
それでも、みづちさんは僕の顔を覗き込み、柔らかく笑った。
「心配してくれはるん? おおきに。
うちかて、防人の隊長やもの。ちゃんと帰ってくるさかい、そないな顔せんといて」
昨日、皇帝と戦ったところを僕も見ている。みづちさんが強いことは知っていた。
それなのに、安心しましたとは、すぐに答えられなかった。
みづちさんは僕の返事を待たず、エマさんへ顔を向けた。
「ここで立ち話も何やし、近くのお店へ行こか。馴染みの喫茶店があるんよ。奥のお部屋やったら、ゆっくり話せるさかい」
◇
案内されたのは、通りから少し奥まったところにある、小さな喫茶店だった。
濃い茶色の木枠にはまった曇りガラスに、古めかしい金色の文字。扉を開けると、頭の上でベルが鳴り、コーヒーの香りが流れてきた。
店内には、深い緑の椅子と、使い込まれた木のテーブルが並んでいる。壁の時計は振り子を揺らし、棚の上の古いラジオからは、低く音楽が流れていた。
「まあ、みづちさん。いらっしゃい」
カウンターにいた年配の女性が、親しげに声をかけてきた。
「こんにちは。四人なんやけど、奥、空いてる?」
「ええ、どうぞ。今日は静かだから、ごゆっくり」
慣れた足取りのみづちさんについて、店の奥へ進む。
個室には、分厚い一枚板のテーブルが据えられていた。角は丸く磨かれ、飴色の表面には、長く使われてきた細かな傷がある。
阿仁丸さんが笠を外して壁の鉤へ掛け、エマさんは閉じた日傘と鞄を椅子の脇へ置いた。
飲み物が運ばれ、扉が閉まると、改めて死國の状況が話し合われた。
僕に分かることは多くなかった。地名や部隊の名前が出るたびに、知らない場所で戦いが続いているのだと実感する。
みづちさんは、負傷した隊員をどこへ運ぶのか、治療に何を用意しておくべきかを確かめていた。
さっきまで僕とお土産を選んでいた人が、今は防人の隊長として話している。
僕は冷めていく紅茶に口をつけながら、三人の言葉を聞いていた。
ひと通りの話が済み、エマさんが鞄へ手を伸ばしたところで、阿仁丸さんが僕を見た。
「そうだ、坊主。出発する前に、一つ付き合ってくれねえか」
「何ですか?」
「腕相撲だよ」
ニヤリと笑い、金剛力士像のような太い腕が、目の前で曲がり力こぶをつくる。
僕はその腕を見て、それから自分の腕を見た。
「……僕と、ですか?」
「おう。お前の力、ちょいと見せてくれよ」
「いや、でもそれは」
手の大きさからして違う。
腕の太さなら、僕だってそれなりにはある。ただ、あちらとこちらでは、中に詰まっているものが違いすぎる気がした。
「やってみたらええやない」
みづちさんが、楽しそうに言った。
「陰山はんが頑張ってはるところ、うちも見たいわぁ」
「頑張っても、全然動かなかったら恥ずかしいんですけど……」
「そんときゃ、拙僧の勝ちだ」
皇帝からも檄が飛ぶ。
『情け無い奴め!始める前から、負けたときの言い訳を用意するな』
(だって、どう見ても強そうじゃないか)
『強い相手を前にしておるから、力を試す意味があるのだろうが』
頭の中からまで背中を押され、逃げ道がなくなっていく。
エマさんがカップを持ち上げた。
「では、レフェリーはわたくしが。まず、お茶を片づけましょう」
本当にやることになってしまった。
四人分のカップを脇の小さな棚へ移し、僕と阿仁丸さんは、テーブルを挟んで向かい合った。厚い天板も、その下の太い脚も、少しくらい揺すったところでは動きそうにない。
椅子を引き寄せ、右肘を置く。
差し出された手を握ると、硬い掌に僕の指が包まれた。まだ力も入れていないのに、この太い腕が、自分の力で動く気がしなかった。
(皇帝。本当に大丈夫?)
『遠慮はいらぬ。《身体狂化》を施し、初めから全力でいけ』
(最初から?)
『手加減を案じる相手か。よく見よ』
阿仁丸さんは、まだ笑っていた。
僕が多少力を込めたくらいでは、何ともないのだろう。ならば、心配するのは相手より、自分の腕の方だ。
左手を天板の縁へ掛け、床へ足をつく。息を吸い、腹の底にある魔力を動かした。
胸へ、肩へ、腕へ。背中から腰、踏ん張る両脚にも巡らせていく。
一花さんとの修練で繰り返してきた流れを確かめ、発動を待つ。
「肘は浮かせないこと。よろしいですわね?」
エマさんが、組んだ僕らの手へ目を向けた。
僕が頷くと、阿仁丸さんも顎を引く。
「Ready……Go!」
合図と同時に、巡らせていた魔力を全身へ行き渡らせた。
詠唱は省く。頭の中で組み上げた《身体狂化》が発動し、腕にも背中にも力が満ちた。
そのまま、一気に押す。
組んだ拳が阿仁丸さんの側へ傾き、その顔から笑みが消えた。
「……おい、マジか」
次の瞬間、手が押し戻された。
肘を受ける天板に、ぐっと圧力がかかる。靴底を床へ押しつけ、左手でテーブルの縁を握ると、中央へ戻ったところで、ようやく動きが止まった。
でも、そこから先へ進まない。
全力で押しているのに、腕が動かないのだ。
「こりゃ、舐めてかかれねえな」
阿仁丸さんが、僕を見据え直す。
握られた手に、さらに圧力がかかった。
『肩だけで押すな。足から腰へ、力をつなげよ』
(やって、る……!)
『ならば息を止めるな。腕より先に顔が限界を迎えておるぞ』
詰めていた息を吐く。
思っていたよりも長く、呼吸を止めていたらしい。吸い直した空気が肺へ入ると、固まりかけていた背中が少し動いた。
椅子の上で腰を据え直し、もう一度押す。
「おっ……!」
阿仁丸さんの手が傾いた。
今度こそ、と思った途端、数珠が鳴る。太い前腕に筋が浮き、また中央へ戻された。
「いいぞ、坊主……!」
声は笑っているのに、阿仁丸さんの顔は真剣そのものだ。
そう気づいたところで、僕にもそんなことを考えている余裕がなくなった。
今度は、押し返されていた。
右腕だけで受けようとすると、そのまま倒されそうになる。床へ足を踏ん張り、腰から身体を支えて、何とか耐えた。
「陰山はん、その調子。もうちょっとや」
みづちさんの声が聞こえる。
「……Unbelievable.」
エマさんが、何か言った。
返事をするどころか、顔を向けることさえできなかった。
額を流れた汗が、眼鏡の縁へ触れる。拭いたい。でも、左手をテーブルから離したら、身体ごと持っていかれそうだった。
阿仁丸さんの額にも、汗が浮かんでいる。
『まだ手はついておらぬぞ。貴様、先に負けた顔をするな』
(顔まで、気にしてられないよ……!)
もう一度、腹へ力を込める。
組んだ手が揺れ、天板の下で低い軋みが鳴った。
その直後、ぴしり、と鋭い音が重なる。
「Stop――そこまでですわ」
エマさんの声が飛んだ。
阿仁丸さんの視線が下がり、すぐに僕へ戻る。
「坊主。ゆっくり離すぞ」
「は、はい……」
押し合っていた力を、少しずつ緩める。
《身体狂化》を解くと、急に自分の腕が重くなった。手を離した途端、僕は右腕を胸の前へ抱え込む。
天板には、木目に沿って細い亀裂が走っていた。
あんなに頑丈そうだったのに。
「引き分けだな、こりゃ」
「……僕、もう限界でした」
それだけ言うのにも、息が切れた。
阿仁丸さんは自分の手を開閉し、やがて豪快に笑った。
「拙僧だって、楽じゃなかったぜ。大したもんだ、坊主!」
「本当に、驚きましたわ」
エマさんが、僕の右手へ目を向ける。
「阿仁丸の腕力は、十二支将隊でも三本の指に入りますのよ。正面から、あそこまで張り合えるなんて……Fantastic.」
「そ、そんなに……?」
褒められているのは分かる。
ただ、自分が何をしたのか、まだ実感が追いつかなかった。手首も腕もじんじんしていて、もう一度と言われたら絶対に無理だ。
みづちさんが隣の椅子へ腰を下ろし、僕の顔を覗き込んだ。
「陰山はん。さっき、かっこよかったよ」
「い、いえ。皇帝に、色々教えてもらったので」
「教わったとおりにできるんも、陰山はんが頑張ったからやろ?」
言葉に詰まると、頭の中からも声がした。
『助言を受けた程度で、己の成したことまで他人へ譲るな。胸を張れ』
僕は、まだ震えている手を見た。
皇帝に代わっていない。
あの手を握って、押して、押し戻されながら耐えていたのは、最初から最後まで僕だった。
「……ありがとうございます」
ようやく答えると、みづちさんは満足そうに笑った。
それから、テーブルへ視線を落とす。
「ところで、虎頭はん」
「……おう」
「これ、どないしてくれはるん?」
阿仁丸さんの笑顔が、少し固まった。
「引き分けなんだがなあ」
「勝負に誘うたん、あんたやろ?」
「修繕のお代は、あなたがお持ちになったら? それがフェアというものですわ」
エマさんにまで言われ、阿仁丸さんは天板の亀裂を見つめたまま、長く息を吐いた。
◇
店の人へ事情を説明し、修繕にかかる費用は阿仁丸さんが持つことで話がついた。
僕も一緒に頭を下げたけれど、お店の女性は、怪我がなかったことを先に確かめてくれた。それがかえって申し訳なくて、なかなか顔を上げられなかった。
「僕も、半分出します」
店を出る前にそう言うと、阿仁丸さんは大きな手を振った。
「勝負に受けてくれた年下に、金まで出させられるかよ」
「でも……」
「いいってことよ。次に来たら、ここのコーヒーを飲んでやってくれ」
そう言って笑った顔は、さっきまでの困り顔より、ずっと似合っていた。
二人を見送るため、僕らは店の女性に案内されて、裏庭へ回った。す
みづちさんは以前にもここを借りたことがあるらしく、「少しだけ使わせてな」と声をかけると、女性は心得た様子で頷いていた。
表通りの音が遠くなる、建物に囲まれた小さな庭だった。鉢植えと物置を避けた土の上で、エマさんが日傘を閉じる。
細い石突きが、地面を滑った。
最初は、円を描いているだけに見えた。けれど、その内側へ図形が重なり、見たことのない文字が連なっていく。
僕は思わず近づきかけ、皇帝が静止する声を出す。
『踏むなよ』
(さすがに、そこまでは近づかないよ)
『先ほどから、首だけは随分伸びておるがな』
言われて少し引っ込めると、エマさんがこちらを見て笑った。
「気になります?」
「はい。これって、転移の術かなんかですか?」
「ええ。あらかじめ準備をしてある場所へ、道をつなぎますの」
「じゃあ、現地まで一瞬で……」
「受け入れの拠点までですわ。行き先の準備がなければ使えませんから、万能ではありませんのよ」
最後の線が結ばれる。
エマさんが日傘を持ち上げると、描かれた模様に、淡い光が灯った。
「これで準備はパーフェクトですわ。阿仁丸、こちらへ」
阿仁丸さんは何のためらいもなく、その円へ足を踏み入れた。
「じゃあな、坊主。お前さんも来てくれりゃ、心強いんだがな」
「高校生を任務にお誘いになるのは、ナンセンスですわよ」
「分かってるって。そんだけ頼もしかったってことだ」
僕へ片手を上げてから、阿仁丸さんはみづちさんを見た。
「みづちも、またな」
「うん。虎壱はんにも、よろしゅう伝えといて。二人とも、気ぃつけてな」
エマさんが鞄を持ち直し、円の中へ入る。
「では、ミスみづち、陰山さん。またお会いしましょう。Have a nice day.」
「あの……お二人も、どうかお気をつけて」
「おう」
阿仁丸さんが、にっと笑った。
エマさんの唇から、聞き取れない言葉が流れる。
足元の線が輝きを増し、黒い法衣と幾重ものレースを、下から照らし出した。眩しさに目を細めると、二人の輪郭が光の中へ溶けていく。
次に目を開けたときには、もう誰もいなかった。
地面の模様も、端から薄れていく。
建物の間を抜けてきた風に、落ち葉が一枚転がった。
「……行っちゃった」
僕は、自分の右手を握った。
まだ、あの大きな掌の感触が残っている。
二人がこれから向かう場所を考えていると、みづちさんが隣へ来た。
「陰山はん。お時間、大丈夫?」
「え?」
スマホを取り出し、時刻を見た。
夕方が近づいていた。
観光をして、喫茶店で話を聞いて、そのあとには腕相撲までしたのだ。思っていた以上に時間が過ぎている。
「まずい。そろそろ帰らないと……!」
「ほな、いったん荷物を取りに戻ろか。そのまま駅まで送るさかい」
店の人へもう一度謝り、お礼を言ってから、僕らは屋敷へ戻った。
客室に置いていた荷物をまとめ、巳香さんと巳魅さんにも挨拶をする。二人は玄関まで見送ってくれて、僕がお礼を言うと、揃って小さく頭を下げた。
昨日よりずっと名残惜しい気持ちで、僕はみづちさんと門を出た。
◇
京都駅へ着く頃には、建物に夕日が差し始めていた。
新幹線の指定席を取り、切符を受け取ってから、みづちさんの待つ改札前へ戻る。
鞄のほかに、僕の手にはお土産の袋があった。
今日、一緒に入ったお店で持たせてもらったものだ。中の箱が傾かないように持ち直すと、みづちさんが小さく笑った。
「お菓子、帰ってから食べてな」
「はい。二日間、本当にありがとうございました。泊めてもらったうえに、観光まで……」
「うちも、楽しかったよ」
その言葉に、ようやく肩の力が抜けた。
昨日ここへ来たときには、まさか、この人に駅まで送ってもらうことになるなんて思っていなかった。
戦って、妙な料理を食べて、一緒にお風呂へ入って。今日は、京都を案内してもらった。
二日間の出来事だと言われても、うまく信じられない。
「また、遊びにおいで」
「……はい」
返事をしたあとも、すぐには足が動かなかった。
みづちさんも、その場に立っている。
もう少し何か話したいけれど、何を言えばいいのか分からない。切符を持つ指を動かしているうちに、スマホの写真を思い出した。
「あの、写真。あとで送りますね」
みづちさんの目元が、ふっと和らいだ。
「うん。待ってる」
それから、一度だけ改札の方を見た。
「……最後に、皇帝はんにも、ご挨拶してええやろか」
「もちろんです」
僕は内側へ呼びかける。
(皇帝。お願い)
『聞こえておる』
身体の力を抜き、主導を渡した。
背筋が伸び、手にしていた切符が鞄の小さなポケットへ収められる。顔が上がると、みづちさんはその僅かな変化だけで分かったらしい。
「皇帝はん」
「何だ」
「お帰りになる前に、ちゃんとお顔を見ときたくて」
「顔ならば、先ほどから同じであろう」
「そういうことやないの、分かってはるくせに」
いつもなら、もっと何か言い返しそうな皇帝が、そこで短く息を吐いた。
「……世話になったな」
みづちさんの唇が少し開いた。
「食事も宿も今日の案内も、悪くはなかった」
(そこ、もう少し素直に褒めてもよくない?)
『貴様は黙っておれ』
みづちさんは僕の顔を見つめ、それから、ゆっくり笑みを深めた。
「京都、気に入ってくれはった?」
「ああ。幾代もの者が手を加え、守ってきた街だ。見るべきものはまだある」
「ほな、また来てくれる?」
「機会があればな」
「次は、まだ見てへんところも案内するわ。今日一日だけではとても回りきれへんもの」
さっきまで僕と話していたときより、声が弾んでいる。
それが分かって、何だかこちらまで落ち着かなくなった。
「貴様の術も、頼りにされておるようだな」
皇帝が言うと、みづちさんは瞬きをした。
「死國のこと?」
「力の使いどころを心得た者は、戦場でも重宝される。貴様の鍼の凄まじさは、余も身をもって知った」
みづちさんは冗談で返すのだろうかと思ったけれど、彼女は、しばらく何も言わなかった。
「……皇帝はんに、そう言うてもらえるんやね」
「事実を申したまでだ」
「うん。おおきに」
伏せられた目が、もう一度こちらへ向く。
その笑顔を見て、僕は口を挟まなくてよかったと思った。
皇帝の言い方でも、ちゃんと伝わっている。
「また会えるん、楽しみにしてる」
「そのときまで、己の務めを果たしておけ」
「皇帝はんもね」
みづちさんが笑う。
皇帝は言い返さず、僕へ身体を返した。
「あ……戻りました」
「うん。分かるよ」
さっきより少し近くで目が合い、僕は慌てて鞄の紐を握り直した。
構内に、新幹線の案内が流れる。
今度こそ行かなくてはならない。
「それじゃあ、行きます」
「うん。また来てな、陰山はん」
「はい。みづちさんも、お気をつけて」
彼女は頷いて、小さく手を振った。
改札を通り、少し歩いたところで振り返る。
みづちさんは、まだそこにいた。僕と目が合うと、もう一度手を振ってくれる。
僕も振り返し、それからホームへ向かった。
◇
新幹線へ乗り込み、指定の席に腰を下ろす。
鞄を置きお土産の袋は潰れないよう、足元へ立てた。
ようやく座れたところで、右腕が少し重いことに気づいた。手を開いて閉じると、頭の中から声がする。
『腕が痛むか』
(ううん。ちょっと疲れてるだけ)
『ならば、休ませておけ』
言われたとおり腕を膝へ置き、反対の手でスマホを取り出した。
画面を開くと、京都の町並みを背にした写真が映る。
みづちさんが、隣で笑っている。僕も、最初の一枚よりはずっと自然な顔をしていた。
撮り直してよかった。
今日のことを思い返しながら写真を送り、お礼の言葉を添える。
送信を確かめたところで、窓の向こうのホームがゆっくり動き始めた。
京都を離れる僕とは違う方向へ、阿仁丸さんたちはもう向かっている。
みづちさんにも、そのうち要請が届くのだろう。
みんな無事に帰ってきてほしいと思いながら、僕は膝に置いた右手を見た。
そのとき、左手の中でスマホが震えた。
『ええ写真やね。帰り気ぃつけてな』
みづちさんからだった。
添えられた短い言葉をもう一度読む。
僕は『また行きます』と返してから、画面を消した。
窓の外では、夕日に照らされた街並みが流れている。
修学旅行のときは、ほとんど覚えていられなかった京都。
今度は、忘れそうになかった。




