第二十五話 後編 暗黒皇帝、京都を歩く
翌朝、朝食を終えて客室へ戻ろうとしたところで、みづちさんに呼び止められた。
「陰山はん。今日は、何時にお帰りになるん?」
「まだ決めてないですけど、今日中には帰る予定です。明日、学校もあるので」
京都へ来たのは昨日のことなのに、ずいぶん長く滞在している気がする。戦って、皇帝のふりをしてご飯を食べて、露天風呂で色々な話を聞いたせいだろう。
身体の方は、驚くほど軽かった。目を動かしても痛みはなく、昨夜あれだけ苦しかったお腹も、今はちゃんと朝食を受けつけている。
みづちさんの料理が効いたことは、もう疑いようがない。
ただし、今朝のお膳の蓋を開けるとき、少し身構えてしまったことは内緒にしておきたい。
「ほな、少しお時間あるんやね」
みづちさんが、待っていたように微笑んだ。
「せっかく京都まで来はったんやもの。そのまま帰すんは、もったいないわ。うちが案内したげる」
「観光ですか?」
「そう。昨日は、うちの家とお風呂しか見てへんやろ?」
確かに、観光名所らしいものは何一つ見ていない。
「でも、お仕事とか、大丈夫なんですか?」
「巳香と巳魅がおるもの」
あまりに迷いのない返事だった。
そのすぐ後ろで、食器を下げていた二人の手が、ほとんど同時に止まる。
「宗主。本日は鍼の患者様のご予約が六名分。それと、ご確認いただく書付もございますが」
「書付は帰ってから、ちゃんと見るさかい。先に分けといてくれる?」
巳香さんへそう答え、みづちさんは巳魅さんにも顔を向けた。
「今日の治療は、あんたらで十分回せるやろ? お願いね」
「……承知しました」
二人の声が揃った。
顔も声も、いつもとほとんど変わらない。二人は僕へも小さく頭を下げてくれた。
「あの、本当にいいんでしょうか」
「ええんよ。せっかくのお客さんを案内するんも、大事なお仕事やもの」
『都合のよいときだけ、仕事を増やす女だな』
(聞こえてないからって、そういうこと言わないでよ)
『もっとも、余も異存はない。この京都の街は気に入っておる。まだ見ておらぬ場所も、見ておきたい』
僕は、少し意外に思った。
昨日の夜、皇帝は元の世界へ帰ると言った。その話を聞いたあとなので、こちらの街を見たいという言葉が、何だか嬉しかった。
(皇帝も、観光したいんだ)
『幾代も前の者どもが築き、貴様らが今なお守り継いでおる街だ。見ておく価値はあろう』
(それ、普通に楽しみって言えばよくない?)
『余の感想を貴様の言葉へ直すな』
「皇帝はんは、何て?」
みづちさんに尋ねられ、僕は顔を上げた。
「京都を気に入ってるみたいです。もっと見てみたいって」
「ほんま? 嬉しいなぁ。ほな、決まりやね」
彼女は胸の前で手を合わせた。
「陰山はんは、京都は初めて?」
「いえ。修学旅行で来たことはあるんですけど……あんまり覚えてなくて」
有名なお寺を幾つか回ったはずなのに、景色はぼんやりとしか思い出せない。ちゃんと目を向けていれば、もっと覚えていられたのかもしれないけれど、あの頃の僕には、旅行を楽しむ余裕がなかった。
「ほな、今日はしっかり覚えて帰ってな。うち、せっかく案内するんやから」
そう言われると、断る理由はなくなった。
「……じゃあ、お言葉に甘えて。お願いします」
「うん。少し待ってて。すぐ支度するさかい」
みづちさんが軽やかに廊下へ出ていく。
その背中を見送り、僕は双子へ向き直った。
「すみません。僕までお邪魔しちゃって」
「お気になさらんといておくれやす」
巳香さんが、淡々と答える。
「宗主が、あのようにお決めになったときは」
「お引き止めするんは、お時間の無駄どす」
巳魅さんが、同じ調子で言葉を継いだ。
僕が返事に困っていると、巳香さんが少しだけ声を柔らかくする。
「陰山様に京都を楽しんでいただけたら、私どもも嬉しおす」
「どうぞ、ごゆっくり」
巳魅さんにもそう言われ、ようやく肩の力が抜けた。僕はもう一度頭を下げ、二人の分まで楽しんでこようと思った。
◇
最初に案内されたのは、八坂神社だった。
通りの先に立つ朱色の楼門は、近づくにつれて思っていた以上に大きく見えた。門の向こうにも人が行き交い、日曜の京都は、朝から賑わっている。
「ここが八坂神社。祇園さん、とも呼ばれてるんよ」
みづちさんは淡い赤の着物に着替えていた。低い位置でまとめた髪には、金の蛇の簪と紫の房飾り。朱色の柱のそばで振り返る姿は、観光案内の写真に使えそうなくらい、景色に馴染んでいた。
境内へ進み、周りの人に倣ってお参りをする。顔を上げると、隣のみづちさんは、もう僕を見ていた。
「何をお願いしはったん?」
「今日は、無事に帰れますようにって」
答えてから、慌てて言い足す。
「あ、みづちさんの案内が心配とかじゃなくて。最近、本当に色々あったので」
「ふふ。分かってるよ。今日は、ちゃんと観光だけにしとこね」
『殊勝なことだ。貴様、己の足で帰る努力も忘れるなよ』
(そこまで神頼みにしてないから!)
皇帝は門の組み方や建物の配置へも興味を示していた。僕が案内の札を読み終えても、頭の中からもう少し眺めておけと言われ、なかなか足が動かない。
「皇帝はんにも、気に入ってもろた?」
「はい。今、僕より熱心に見てます」
「ほな、次も楽しみにしといてな」
境内をひと巡りしてから、僕たちは清水寺の方へ向かった。大きな門を見上げていた視線が、いつしか道沿いの店先へ移っていく。
石畳の坂道に、軒を連ねる土産物屋。店先から漂う甘い匂いにつられて足を緩めると、先を歩いていたみづちさんが、すぐに振り返る。
「気になるんやったら、寄っていこか。ここの和菓子、美味しいんよ」
「いえ、まだ朝ご飯を食べたばかりなので」
「見るだけでもええやない」
促されてお店へ入ると、棚には色とりどりの菓子箱が並んでいた。どれも美味しそうだけれど、今すぐ食べるには、まだお腹がいっぱいだ。
僕が眺めている間に、みづちさんは店員さんへ声をかけていた。
「こちら、ひとつ包んでもろてええ?」
会計を済ませ、受け取った紙袋を、そのまま僕へ差し出す。
「はい。京都のお土産」
「え、僕にですか?」
「ほかに誰がいはるの。帰ってから、ゆっくり食べてな」
「でも、泊めてもらったうえに、こんな……」
「せっかく来てくれはったんやもの。これくらい、させて」
柔らかく言われ、僕は紙袋を両手で受け取った。
「……ありがとうございます。大事にいただきます」
「うん。今度は、急いで食べんでもええさかいね」
みづちさんが嬉しそうに笑った。昨夜の食べっぷりを思い出しているのだろう。僕は曖昧に笑い返し、袋の中をそっと覗いた。
『何を確かめておる』
(いや、一応……)
『店で売っておる菓子にまで怯えるな』
袋から覗いた箱には、見覚えのある和菓子の名前が印刷されていた。ほっとしたことは顔に出さないようにして、僕はもう一度お礼を言った。
お店を出ると、みづちさんは、また先に立って歩き始めた。
人の多い道でも歩幅を変えず、蛇のようにするすると進んでいく。
それなのに、僕が店先へ目を向けると、いつの間にか隣で足を止めている。案内に慣れているのか、それとも僕が分かりやすいだけなのか。
清水寺では、舞台から広がる街を眺めた。
並ぶ屋根と、その向こうの山の稜線。遠くまで続く景色を見ていると、昨日までいた場所が少し遠く感じられた。
『ほう。見晴らしがよい』
(こうして見ると、京都って広いね)
『道を歩いておるだけでは、街の広さは分からぬものだ』
皇帝は舞台を支える木組みにも興味を示していた。僕が欄干の向こうを眺めると、その高さを確かめるように、視線を下へ促してくる。
(そういえば、『清水の舞台から飛び降りるつもりで』っていう言い方があるんだよ)
『ここからか。何のためにだ』
(本当に飛び降りるわけじゃなくて。思い切って大きな決断をするときに使うんだ。高い買い物をするときとか)
『なるほど。余の世界でいえば、竜の巣へ丸腰で踏み込む覚悟、というところか』
(買い物するたびに、そこまで命を懸けないよ!)
『貴様が、ここから飛び降りるほどの決断だと申したのであろう』
言い返しかけて、やめた。そう言われると、こちらの例えも十分に大袈裟だ。
僕は足元の板を見てから、もう一度、舞台の外へ広がる景色へ目を戻した。さっきから、目も頭の中も忙しい。
「どう? 前に来はったときのこと、思い出した?」
「少しだけ。でも、今の方が、よく見てる気がします」
「ほな、来てよかったねぇ」
みづちさんは景色よりも、僕の顔を見て笑った。
そのあとは坂道を下り、古い町並みを眺めながら歩いた。気になる店へ立ち寄り、通りの名前を教えてもらい、ときどき皇帝の質問を僕が代わりに尋ねる。
「皇帝はん、よう見てはるんやね」
「建物とか、街の造りとか、気になるみたいです」
「陰山はんは?」
「僕は……普通に、楽しいです」
少し考えてから答えると、みづちさんは目を細めた。
「それが一番やわ」
やがて、人の流れが少し緩やかなところへ出た。道の先には風情のある町並みが続き、あちこちで観光客が写真を撮っている。
僕もスマホを取り出し、景色へ向けかけた。
けれど、画面の端にみづちさんが入ったところで、ふと思った。
「あの、みづちさん」
「何?」
「よかったら、一緒に写真、撮りませんか」
みづちさんが、一度だけ瞬きをした。
「……うちと?」
「はい。せっかく案内してもらったので。景色だけじゃなくて、一緒に来た写真もあった方がいいかなって」
言ってから、少し不安になった。
案内をしてくれるからといって、僕と並んで写真に写りたいとは限らない。
「もちろん、お嫌じゃなければ――」
「嫌なこと、あらへんよ」
返事は、思ったより早かった。
みづちさんは僕のスマホへ目を落とし、それから、先ほどまでと少し違う笑みを浮かべた。
「一緒に来た写真、やね」
「……はい」
「ほな、綺麗に撮ってな。うち、今日の一枚を楽しみにしてるさかい」
人の邪魔にならないところへ寄り、内側のカメラへ切り替える。腕を伸ばしたけれど、僕の顔を入れると、みづちさんが画面から半分はみ出してしまった。
「もう少し、こちらへ向けたらええんちゃう?」
「あ、そうですね」
傾けすぎると、今度は景色ばかりになる。何とか二人が収まったところで、みづちさんが画面を覗き込んだ。
「陰山はん。そんな難しい顔せんでも」
「すみません。撮るのに集中してて」
『写真とやら一枚に、何故それほど構える。背を伸ばせ』
(分かってるって!)
背筋を伸ばすと、みづちさんが僕の方へ少し寄った。
「ほら。うちも、ちゃんと入れてね」
画面の中で目が合い、慌てて笑顔を作る。どんな顔をしているのか自分でもよく分からないまま、撮影のボタンを押した。
確認してみると、みづちさんは綺麗に微笑んでいた。その隣で、僕だけが妙に肩へ力を入れている。
「……もう一枚、撮ってもいいですか」
「うん。何枚でも」
『初陣でもあるまいに。肩を下げよ、俗物』
(皇帝が話しかけるから、余計に緊張するんだよ!)
「皇帝はん、何か言うてはるん?」
「肩に力が入りすぎだって」
みづちさんが、ふっと笑った。その顔につられて、僕も少し笑ってしまう。
もう一度ボタンを押すと、今度はさっきより、ずっと自然な写真になった。
「……あ。これ、いいかも」
「見せて」
二人で画面を覗き込む。
古い町並みを背に、並んで笑っている。さっきまで目の前にあった景色なのに、写真になると、本当に一緒に京都を歩いているのだと実感できた。
みづちさんは、しばらくその一枚を見つめていた。
「これ、うちにも送ってくれる?」
「はい、もちろんです」
「おおきに」
そう言って顔を上げたときの笑みは、いつものからかうようなものではなかった。
僕は何だか照れくさくなり、保存された写真をもう一度だけ確かめた。
修学旅行の記憶は曖昧だけれど、今日のことは、ちゃんと覚えていられそうだった。
◇
次に案内されたのは、三十三間堂だった。
お堂の長さにも驚いたけれど、中へ入ると、それ以上に足が止まった。
金色の仏像が、幾重にも並んでいる。手前の列から奥の列へ目を移しても、その先にまた別の姿があった。整然と揃っているのに、一体ずつ見ると、顔の印象が少しずつ違って見えた。
さっきまで外で聞こえていた人の声が、急に遠くなった気がする。
「……こんなに、沢山」
思わず漏らすと、みづちさんが隣で小さく頷いた。
「真ん中の大きな観音さまと、千体の観音さま。ここには、合わせて千一体いはるんよ」
「千一体……」
「前に並んではるんは、観音さまや、信じる人らをお守りする二十八部衆。風神さんと雷神さんも、いはるやろ」
声を落として説明してもらいながら、僕はゆっくり目を向けた。
穏やかな観音像の前に立つ、力強い姿の仏像たち。それぞれに違う顔、違う構えがある。
『……あの腕を、すべて別々に動かすとすれば、厄介だな』
静かな声が、頭の中へ響いた。
中央の千手観音を見上げたまま、僕は返事に詰まった。
(最初の感想、それ?)
『正面の手へ気を取られておれば、脇から別の手が来る。持っておるものも一様ではない。あれらを同時に扱えるなら、近間で相手をするのは面倒だ』
(お参りするところだよ。倒しに来たんじゃないんだから)
『分かっておる。像が動くと申しておるのではない』
分かっていて、戦う場合を考えてしまうらしい。
『余の世界には、六本の腕を持つ巨人がおった。腕が多いだけでも、慣れぬ者には剣の軌道を追いきれぬ。だが、こやつはその比ではないな』
(そんな巨人と戦ったことあるの?)
『ある。腕の数を頼んで、足元が疎かになる奴も多かったがな』
僕は観音像の足元へ目を向けかけ、途中でやめた。うっかり、同じ見方になってしまうところだった。
みづちさんが、隣からそっと顔を寄せる。
「皇帝はんは、何て言うてはるん?」
「……あの腕が全部、別々に動いたら厄介だって。向こうの世界にいた、六本腕の巨人より手強そうだと」
声を落として伝えると、みづちさんは一度だけ瞬きをし、口元へ指を添えた。
「まあ。観音さまに勝負を挑まはるつもり?」
「僕も、そういう場所じゃないって言ったんですけど」
「観音さまの沢山のお手はな、困ってはる人を救うためのものなんよ」
そう教えてもらい、僕は改めて像を見上げた。無数に重なる手は、戦うためではなく、助けを求める人へ伸ばすためのものなのだ。
『なるほど。救いを求める者が多ければ、手も二本では足りぬか』
(それは、ちょっと分かるんだ)
『余も、己の手だけでは国を治められなんだからな』
そんな返事をされるとは思わず、僕は少し黙った。みづちさんへ伝えると、彼女は像を見つめたまま、小さく頷いた。
そのあとは、二十八部衆の姿を一つずつ眺めて進んだ。穏やかな観音像とは違い、顔つきも構えも力強い。手に持つものへ目を向けると、皇帝がまた何か言いたそうにしているのが分かった。
風神像を前にしたところで、ついに声が上がる。
『風を司るならば、あの袋は力を溜めるための器か。風精を封じた魔具に似ておる』
(風精って、風の精霊みたいな?)
『そうだ。袋の中へ収まるほど大人しいものばかりではないがな。風で敵の足を崩し、あの爪で仕留めると考えれば、筋の通った姿だ』
やっぱり、戦い方の話へ戻ってしまった。
さらに見て回り、雷神像の前へ来ると、今度は太鼓を見て、待っていたように続ける。
『こちらは雷か。雷竜は角へ力を溜めて放つが、こやつは太鼓を媒介にすると考えられる。複数を打ち分けるなら、雷を落とす場所も変えられるやもしれぬ』
(皇帝。その解説、どこにも書いてないからね)
『像の姿から考えておるのだ。風で足を止められたところへ雷を落とされれば、逃げ場を失う。組ませるには、よい相手であろう』
(美術の見学が、いつの間にかボス戦の攻略になってる……)
口元へ力を入れ、変な笑いが漏れないようにした。
みづちさんが僕の顔を覗き込む。
「今度は、何?」
「風神さんと雷神さんが組んだら、手強いって。風で動きを止めてから、雷で攻撃するらしいです」
『余の配下、円卓の英雄にも、雷と風を操る獣人の姉妹がおった。互いの術を知り尽くした、よい使い手どもであったわ』
その言葉に、以前、夢で見た光景が頭をよぎった。
(……その姉妹って、夢の中で皇帝を怒ってた人たち?)
さっきまで、あれほど滑らかに解説していた皇帝の返事が途切れた。
(あのとき、何で怒られてたの?)
『……貴様は、余計なところばかり覚えておるな』
いつものように即座に否定されると思っていたので、僕は少し驚いた。姿は見えないけれど、珍しく、答えに窮しているように聞こえる。
(余計なところなんだ?)
『今は、こやつらの話をしておる。余の臣下について論ずる必要はない』
(自分から話したんじゃないか……)
戦い方はいくらでも語れるのに、叱られた理由は教えてくれないらしい。つい口元が緩むと、みづちさんも小さく笑った。
「ふふ。皇帝はんと一緒やと、何を見ても退屈せえへんねぇ」
「……本当に、そうですね」
皇帝から返事はなかった。わざとらしいほどの間を置いて、ようやく解説が再開する。
『ともかく、姿を眺めただけでは、どれほどの力を振るうものかまでは測れぬ。その点は、余にも分からん』
(そこは、ちゃんとしてるんだね)
『何もかも見抜いた顔をしておる奴ほど、戦場では当てにならぬ』
そう言われ、僕はもう一度、目の前の像を見た。
力強く踏ん張った脚も、捻られた身体も、今にも動き出しそうに見える。皇帝の話を聞いたせいで、持ち上げられた腕の先まで、さっきより気になってしまった。
穏やかな観音像と、それを守る険しい顔の仏像たち。沢山の手が並ぶ景色の中を、みづちさんは僕の歩調に合わせて進んでくれた。
一体を造るだけでも、どれほど大変なのだろう。それが目の届く限り、ずっと並んでいる。
見方は皇帝と違っても、僕も、ここへ来てよかったと思った。
◇
拝観を終えて外へ出ると、風が思ったより冷たかった。
お堂の中で過ごしていた感覚が、ゆっくり日曜の京都へ戻っていく。少し離れたところでは、観光客が案内の地図を広げていた。
「陰山はん。うち、ちょっとお手洗いへ寄ってくるね」
「はい。ここで待ってます」
「すぐ戻るさかい。どっか行ったらあかんよ」
「そんな、子供じゃないんですから」
「ふふ。ほな、ええ子で待ってて」
まったく訂正されなかった。
みづちさんを見送り、僕は人の流れを避けて、少し端へ寄った。スマホを取り出すと、さっき撮った写真がまだ画面に残っている。
送る約束をしたのに、景色に気を取られて、そのままになっていた。
戻ってきたら、どう送ればいいか聞こう。そう思ってスマホをしまい、顔を上げたところで、通路の向こうに黒い法衣が見えた。
やたらと体格のいいお坊さんだった。
背が高いだけではない。ゆったりした法衣と袈裟の上からでも、肩と胸の厚みが分かる。丸い笠をかぶり、首には大きな玉の数珠。足元は白い脚絆と草鞋で、いかにも修行中という格好をしている。
一度は視線を外しかけて、僕は思わず二度見した。
まくった袖から、虎の刺青が覗いていた。よく見れば髑髏も絡み、手首近くまで途切れず続いている。笠の下には幾束ものドレッドが垂れ、日に焼けた顔にはサングラスと無精髭。
どう考えても、気軽に関わっていい人には見えない。
僕は慌てて目を逸らした。刺青を見たからといって人柄まで決めつけてはいけない、と頭では分かっている。でも、できれば目は合わせたくなかった。
ところが、視線の端で、その人の向きが変わった。
こちらへ来る。
迷いのない足取りで、ほかの誰でもなく、僕を目指して、ずんずん近づいてくる。
(皇帝。あの人、こっちに来てない?)
『来ておるな』
(何で!?)
『余に尋ねるな。慌てず、そのままでおれ』
返事をする間に、すぐ近くで草鞋の音が止まった。
「陰山修、だな?」
僕は、ゆっくり顔を上げた。笠の下から見下ろされると、サングラスで目が隠れているのに、視線の強さだけがはっきり伝わってくる。
「……はい。そうですけど」
どうして、僕の名前を知っているのだろう。
男の人は、にっと笑った。
「おう。会えてよかったぜ。中の皇帝さんにも、ご挨拶しておきたくてな」
返しかけた言葉が、喉の奥で止まった。僕だけではなく、皇帝のことまで知っているのだ。
皇帝も、黙ったまま相手の様子を窺っている。先ほどまでの気楽な気配は、もうなかった。
男の人は両手を軽く開き、何も持っていないことを示した。
「悪い悪い。知らねえ奴にいきなり名前を呼ばれりゃ、そりゃ驚くわな」
「分かっているなら、先に名乗ってくださいな。阿仁丸」
少し後ろから、別の声がした。
黒い日傘の下に、一人の女性が立っていた。
長い金髪が、緩やかに巻かれて肩から背へ流れている。黒いレースの髪飾りに、同じく黒を基調とした、幾重にも裾の重なる服。襟や袖口の細かな飾りまできちんと整い、片手には、六芒星の意匠が入った黒い革の鞄を提げていた。
その姿を見て、思わず息を呑んだ。
ゴスロリ、というのだろう。画面の中でなら見たことのある服だけれど、目の前の人には驚くほど似合っていた。青い目で穏やかに微笑まれると、西洋のお屋敷から、そのまま歩いてきたように見える。
「失礼いたしました。陰山修さんで、間違いありませんね」
「はい。あの、どうして僕を……」
「虎壱さんから、お話を伺っています」
知っている名前に、少しだけ息をつけた。
「虎壱さんの、お知り合いですか?」
「ええ。同じ防人ですわ。わたくしは、エマ・亥狩・クロウリー。十二支将隊の、亥を預かっております」
女性が、日傘をわずかに傾けて会釈する。
「で、拙僧が寅。虎頭阿仁丸だ。よろしくな、坊主」
数珠のかかった手が上がる。
ドレッドのお坊さんに坊主と呼ばれ、僕は返事のタイミングを逃した。二人の名前と姿を、頭の中で必死に結びつける。
防人十二支将隊。あの猿飛さんや雉子谷さん、それにみづちさんと同じ、隊長たち。
黒い日傘の似合う女性と、ドレッドにサングラスのお坊さんを交互に見てしまい、僕は慌てて頭を下げた。
「か、陰山修です」
「おう。それは知ってる」
阿仁丸さんが笑う。自分でも、今さら何を名乗っているのだろうと思った。
「虎壱が防人を代表して、そっちの皇帝さんと盟約を結んだってな。どんな御仁なのか、気になってたんだよ」
大きな身体を少し屈め、僕と顔の高さを近づける。
「それに、お前にも会ってみたかった」
「僕、ですか?」
「一か月前までは、普通の高校生だったんだろ。それが今じゃ、猿飛や雉子谷と渡り合うって話じゃねえか」
僕は、反射的に背筋を伸ばした。
「いえ、そんな。僕だけで、何とかできてるわけじゃなくて――」
「そのことも、伺っていますわ」
エマさんが、静かに言葉を添えた。
「皇帝陛下のお力が大きいことは、承知しております。けれど、一か月前と今とでは、あなた自身も違うのでしょう?」
すぐには答えられなかった。
できるようになったことは、ある。最初は感じることもできなかった魔力を、今は自分で動かせる。魔眼で見えるものも増えたし、一花さんとの修練だって、何も残らなかったわけではない。
でも、それが目の前の隊長たちから、わざわざ会いに来るほどのことだと言われると、どうにも落ち着かなかった。
「皇帝さんのことばっかり聞いてっと、肝心のお前がどんな奴か、分かんねえからな」
阿仁丸さんが言った。
「だったら、本人に会うのが早いだろ」
僕を見る顔に、からかう色はなかった。笑ってはいるけれど、ただの気まぐれで声をかけてきたわけでもないらしい。
『……貴様も、随分と名が売れたものだな』
(僕、何も宣伝してないんだけど)
『噂とは、自ら歩かずとも先へ行くものだ』
できれば、もう少しゆっくり歩いてほしかった。
「みづちと京都観光してるって、巳香と巳魅に聞いてな。こっちへ回るっていうから、寄らせてもらったんだ」
「ああ、それで……」
ようやく、名前まで知って声をかけてきた理由が分かった。
みづちさんのところを訪ねて、双子から行き先を聞いたのだ。皇帝の存在を暴こうとしているわけでも、僕を追いかけてきた敵というわけでもない。
「みづちさんは、今、お手洗いに。もうすぐ戻ってくると思います」
「でしたら、少しご一緒してもよろしいかしら」
エマさんに尋ねられ、僕は頷いた。
「はい。もちろんです」
「ありがとよ。そう固くなるなって。挨拶に来ただけなんだからよ」
阿仁丸さんが、人懐こく笑った。
そう言われても、二人とも隊長なのだ。背筋へ入った力は、すぐには抜けそうになかった。
僕は二人へ場所を空けながら、みづちさんが歩いていった方へ一度だけ目を向けた。
早く戻ってきてほしい。説明のためというより、顔馴染みが一人いてくれたら、もう少し普通に話せる気がした。
それにしても、少し前まで普通の高校生だった僕に、防人の隊長二人が、わざわざ会いに来るなんて。
京都へ来る前の自分に聞かせても、きっと信じてもらえないだろう。




